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クラスごと異世界転移したモブの俺、ハズレスキル【無限収納】が覚醒したので異世界で無双します  作者: よるねこ
第一章

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第95話 酒場と物流と盗賊の件(十三)


 扉を閉めたあとも、しばらくは店の中に客の気配が残っていた。


 外へ出ていく靴音はもう聞こえない。けれど、さっきまで並んでいた人の体温と、甘い匂いと、立て続けに交わされた言葉の熱が、空気の層になってまだ残っている。売り場の上には何もない。白い布の上に皿だけが残り、切り分けの跡と粉砂糖の細かな名残が、昼前の光を受けて薄く光っていた。


 マリナはその光景を見て、ようやく本当に終わったのだと実感した。


 脚の奥に溜まっていた重さが、一息ごとに下へ沈んでいく。朝から川へ入り、河原を歩き、盗賊を捕らえ、街へ戻り、そのまま店へ立った。疲れていないはずがない。なのに営業の間は不思議と体が動いた。終わった途端に、その反動が一気に来る。


「先生」


 レイナが隣で小さく息を吐きながら言う。


「座ったら立てなくなりそうです」


「分かります」


 そう返したマリナも、今すぐ椅子へ腰を下ろしたかった。けれど、先に片づけるべきものがある。売り場の布、空いた皿、使い終わった器具、勘定の締め。営業日が終わったあとの静けさは、休憩ではなく次の段取りへの切り替えでもある。


 副官さんはもう銭箱の中身を確かめ始めていた。金の触れ合う小さな音が、さっきまでのざわめきとは別の落ち着いたリズムで続いている。その横で山本さんが、終わったばかりの紙や布を丁寧に揃えていた。


 手は少し震えている。だが、それは失敗して震えている手ではない。張り詰めたまま走り切ったあとの震えだ。


「山本さん」


 マリナが声をかけると、山本さんははっと顔を上げた。


「は、はい」


「お疲れ様でした。かなり助かりました」


 その言葉に、山本さんの目が少しだけ丸くなる。


「い、いえ、私なんて」


「そんなことありません」


 レイナがすぐに横から入った。


「最初のところ、ちゃんと持ち直しましたし、後半は普通に回してました」


 山本さんはそこでようやく、自分の呼吸がまだ浅いことに気づいたみたいに、大きく一度だけ息を吐いた。


「……緊張しすぎて、前半あんまり覚えてないです」


 その本音に、店の中の空気が少しだけ緩む。


 副官さんが帳面から目を上げた。


「それでも手は止まりませんでした。十分です」


 短く、はっきりした言い方だった。


 山本さんはそれを受けて、ほんの少しだけ肩の力を抜く。自分の仕事が終わったのだと、そこでようやく認められたのだろう。


 厨房の奥では、まだユウトと魔王さんが動いていた。


 営業が終わっても、すぐに全部が止まるわけではない。使った道具を洗い、火の始末をし、次へ繋がる材料を見ておく。師匠と弟子の動きは、客のいなくなった店の中ではむしろよく見える。ユウトは疲れているはずなのに、手元が雑になっていない。魔王さんも、徹夜明けのはずなのに声の芯が落ちていない。


「ユウト、そっち流したら台拭いといてや」


「はい、師匠」


 水の流れる音がする。桶へ器具が触れる硬い音がして、それから布で拭う音が重なる。その一つ一つが、営業日の終わりらしい音だった。


 ガルドは扉の近くで外を一度だけ見たあと、店の中へ戻った。


「今日はさすがに早かったな」


 低い声でそう言いながら、空いた木箱を持ち上げる。警備だけでなく、終わったあとの力仕事まで含めての役目だ。木箱の底が床を擦る音がして、そのまま裏へ運ばれていく。


 ダインも黙って売り場の端へ寄り、台をずらしやすい位置へ動かしていた。大きく音を立てないように重さを受ける動きが、いかにもダインらしい。


 マリナも布を外して畳み始める。指先に残った砂糖の細かなざらつきが、今日一日の熱を思い出させる。果物の汁がほんの少しだけ布へ染みていて、その甘い匂いが近い。


 営業中は見えていなかったものが、終わって静かになると急に細かく見える。


 客が選んだ跡。皿を引いた跡。布の皺。紙片のずれ。そういう小さなものが全部、今日の店の熱を物語っていた。


「先生」


 またレイナが小さく言う。


「今日、街道帰りでこれだけ動けるなら、まだ何とかなりますね」


 その声音には、冗談半分ではない安堵がある。


「そうですね」


 マリナも手を止めずに答えた。


「正直、途中でどうなるかと思ってました」


「私もです」


 レイナが笑う。


「でも、魔王さんと副官さんと山本さんあれだけ回してたら、こっちも立つしかないですよね」


 その言い方に、マリナは少しだけ目を細めた。


 たしかにそうだ。


 魔王さんは徹夜で仕込みを回し、副官さんは全体を締め、山本さんは新人なのに表へ立って踏ん張った。その中へ遅れて戻った以上、自分たちもただ疲れた顔をしているわけにはいかなかった。


 そして、それはきっとユウトも同じだったのだろう。


 視線を厨房の方へ向けると、ちょうどユウトが布を絞っているところだった。濡れた布から水が落ちる音がして、それを受ける桶の底が小さく鳴る。


 マリナが見ていることに気づいたのか、ユウトが顔を上げた。


「先生」


「何ですか」


「こっちはもう終わります」


「そうですか」


「先生の方も、無理しないでください」


 真面目にそう言う。


 営業が終わったあとまで、そういうことをさらりと言うから困る。けれど今は、頬が熱くなるより先に、胸の奥に静かな温かさが残った。


「黒崎くんもです」


 自然にそう返す。


 ユウトは少しだけ目を丸くして、それから頷いた。


「はい」


 短い返事だったが、言葉の端に少しだけ柔らかいものが混じる。その変化を、レイナが横で見逃すはずもない。


「先生、今日はだいぶ素直ですね」


「疲れてるからです」


「またそれですか」


「便利なんです」


 マリナが言うと、レイナが吹き出す。


 その笑いが店の中に軽く広がり、張っていた空気がもう一段だけほどけた。


 やがて片づけが一段落したところで、魔王さんが手を止めた。


「ほな、今日はここまででええやろ」


 声はいつも通りだが、やはり奥に疲れはある。徹夜をして、そのまま営業まで走り切ったのだから当然だ。それでも、その疲れを前へ出して店を乱さないあたりが、やはり魔王さんだった。


「副官、勘定どうや」


「問題ありません」


 副官さんが帳面を閉じる。


「売上も、回転も、今日の状況を考えれば十分以上です」


「ほな上等やな」


 魔王さんはそこで大きく息を吐いた。肩が少しだけ落ちる。今までずっと立てたままだった気配が、そこで初めて人のものになる。


 その姿を見て、山本さんが思わずという感じで言った。


「魔王さん、ほんとに休んでくださいね……」


 口にしたあとで、自分でも少し驚いたような顔をする。相手が誰かより先に、心配の方が出たのだろう。


 魔王さんはそれを聞いて、少しだけ笑った。


「おう、休むわ。さすがに今日は寝る」


「さすがにって……」


 山本さんの呟きが、妙に本音で、店の中にいた全員が少しだけ笑う。


 副官さんも、ほんのわずかに口元を緩めた。


「その前に、最低限の整理だけ済ませます」


「任せる」


 魔王さんが返し、それからユウトの方を見る。


「ユウトも今日はもうええ。無理に残るな」


「はい、師匠」


 素直な返事だった。


 その返事を聞きながら、マリナはようやく本当に肩の力を抜いた。営業中も、営業後の片づけの間も、どこかでまだ緊張していたのだろう。ここまで来て、師匠が弟子へもう終わりだと言い、副官さんが勘定を締め、山本さんが支える側から支えられる側へ戻る。その流れを見て、やっと金曜が終わったのだと体が理解する。


 店の外へ出ると、昼の光は少しだけ角度を変えていた。


 まだ明るい。けれど、朝の鋭さとは違う、午後へ向かう柔らかさが混じっている。売り切れ閉店したあとの店先は静かで、さっきまでの列の名残だけが空気に薄く残っていた。


 ガルドはそこで自然に自宅へ戻る流れへ入った。


「じゃあ、俺は家に戻る」


 それがごく当たり前の一言として落ちる。


「今日はさすがに少し寝る」


「はい」


 マリナが答える。


「お疲れ様でした」


「ガルドさん、ありがとうございました」


 レイナも頭を下げる。


「おう」


 短い返事のあと、ガルドは自宅の方へ歩いていく。隣にある家へ戻るその背中を見送ると、四日間ずっと続いていた緊張の中にも、変わらない日常の形がちゃんと残っているのだと感じる。


 ダインは借家へ戻る流れだ。ユウトも、今日は借家へ戻って休むことになるだろう。


 マリナとレイナも店へもう一度頭を下げ、借家への道を歩き始めた。


 石畳の上を歩く足が重い。河原の水、街道の土、朝の冷気、店の熱、その全部を体がまだ引きずっている。それでも、歩幅は自然と揃っていた。


「先生」


 レイナが隣で言う。


「今日は本当に長かったですね」


「ええ」


 マリナは頷く。


「でも、ちゃんと終わりました」


「終わりましたね」


 その言い方に、ようやく実感が乗る。


 終わった。


 少なくとも、この数日の流れはここで一度切れた。街道を走り、盗賊を崩し、金曜の店にも戻れた。その全部が、今ようやく一つの区切りになっている。


 借家の戸を開けた時、屋内の静けさがひどく優しく感じられた。


 外の光が半歩だけ入り、木の床に細く伸びる。中の空気は少しひんやりしていて、甘い匂いと外の埃をまとった体にはちょうどよかった。


 マリナは戸を閉め、その場で一度だけ深く息を吐いた。


 その息が、自分で思っていたよりずっと長い。疲れていたのだと、そこでようやく認められる。


 隣でレイナも、同じように小さく息を落とした。


「今日はもう、何もしなくていいですよね」


「そうですね」


 マリナは壁に手をついて靴を整えながら答える。


「今日はもう、休みましょう」


 それ以上の言葉は要らなかった。


 四日ぶんの戦いと、その先で守り切った金曜の店。その全部を終えたあとの借家の静けさが、何よりの答えだった。

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