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クラスごと異世界転移したモブの俺、ハズレスキル【無限収納】が覚醒したので異世界で無双します  作者: よるねこ
第一章

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第84話 酒場と物流と盗賊の件(二)


 翌朝の空気は、昨夜の熱をきれいに剥がしていた。


 石畳にはまだ朝の冷たさが残っていて、踏みしめるたびに靴底から硬い感触が返ってくる。空は高く晴れているが、風は少しだけ鋭い。眠気を残した街の音の中に、荷車の軋む音や店を開ける戸板の音が混じり始めていた。


 マリナは歩きながら、胸の奥に残った昨夜のあれこれを意識の端へ押しやっていた。


 頬の熱はもうない。けれど、思い出せばまだ少しだけ息が詰まる。あれだけの騒ぎのあとで、何事もなかった顔をするのは簡単ではない。だが、今日やるべきことは別にある。


 隣を歩くユウトは、いつも通りだった。


 少なくとも表面上は。


「黒崎くん」


「はい」


「昨日のこと、覚えてますか」


 問いかけると、ユウトは少しだけ首を傾げる。


「楽しかったのは覚えてます」


「そうですか」


 やっぱりそこだけだ、とマリナは小さく息を吐いた。


 レイナがすぐ後ろで吹き出す。


「便利ですよね、その記憶の飛び方」


「何かありましたか」


「色々ありました」


「先生に愛を伝えた気はします」


「気じゃなくて、十分すぎるほど伝えてましたよ」


 レイナの返しに、ガルドが低く笑う。


「それだけ覚えてりゃ十分だろ」


「十分すぎる」


 ダインが短く続ける。


 マリナはそれ以上そこへ触れなかった。触れればまた話がそちらへ流れる。それより今は、目の前の石造りの建物へ意識を向ける方がいい。


 交易都市の冒険者ギルドは、朝でも人の出入りが多い。扉を押して中へ入ると、外の冷気とは違う、紙と革と人いきれの混じった空気が鼻に触れた。依頼票の貼られた板の前には、もう何組かの冒険者が集まっている。剣の鞘が擦れる音、鎧の金具が触れる音、受付で交わされる低い声が、広い室内で重なっていた。


 昨日酒場で聞いた話がただの噂ではないことは、入った瞬間に分かった。


 いつもの朝より、空気が少し硬い。


 受付へ向かう途中でも、耳に入る単語が似ている。


「街道」

「未帰還」

「護衛」

「王都」


 断片だけで十分だった。


 マリナは歩調を変えず、そのまま受付へ向かう。受付嬢はユウトたちの顔を見つけると、小さく息を吐いた。助かった、という顔に近い。


「来てくださって助かります」


 挨拶のあとすぐに、そう言った。


「やっぱり、何かあったんですね」


 マリナが声を落として返すと、受付嬢は頷いた。


「王都からこちらへ向かう街道で、ここ数日、荷の遅延が続いています。最初は魔物かと思われていたんですが、護衛つきの荷まで行方が不明になる件が重なりまして」


「未帰還も出ているのか」


 ガルドが割り込む。


「はい。護衛依頼を受けた冒険者が戻っていない件が二件、荷だけ奪われた件が三件、それ以外にも途中で引き返した商隊がいくつか」


 言葉が増えるごとに、昨日の酒場の空気が現実の形を取っていく。


「場所は」


 ダインが短く問う。


「王都からこちらへ向かう街道の中ほどです。森沿いの緩い坂を抜けた先で多く起きています」


 受付嬢はすぐに地図を広げた。机の上に置かれた紙の端を押さえる指先にも、少しだけ緊張が見える。


「足止めではなく、狙って襲っている形です。荷車の痕跡は残るのに、人と荷だけ消えている例もあります」


「盗賊の可能性が高いですね」


 マリナが呟くように言うと、受付嬢は頷いた。


「こちらでもその見方が強いです。討伐、または排除を前提にした依頼として扱う方向で話が進んでいます」


 依頼票が差し出される。


 羊皮紙の手触りはざらついていて、朝の冷気を少し吸っていた。マリナが内容を目で追う。ユウトも横から覗き込むが、今は黙っている。


「受けます」


 マリナは迷わず言った。


 受付嬢の顔が少しだけ和らぐ。


「ありがとうございます」


「現地で状況が変わる可能性はあります。盗賊で確定していない以上、警戒は最大で」


「承知しています」


 依頼票を受け取る音が、机の上で小さく鳴った。


 ギルドを出ると、朝の光が少しだけ高くなっていた。街のざわめきももう完全に起きている。パンの焼ける匂いが風に乗り、行き交う人々の足音が石畳を細かく叩く。


「盗賊だな」


 ガルドが歩き出しながら言う。


「その可能性が一番高いでしょうね」


 マリナは依頼票を折りながら返した。


「魔物の被害なら、もっと痕が荒いはずです。荷だけ抜かれている件があるなら、人の手を疑う方が自然です」


「しかも場所が悪い」


 ダインが続く。


「森沿いの坂なら、荷車は遅くなる」


「待ち伏せには向いてますね」


 レイナが言って、それから少しだけ口元を上げた。


「あと、物流が止まると本当に困るので、早く片づけたいです」


「今それ言いますか」


「大事ですよ」


 マリナは溜め息をついたが、完全には否定しなかった。否定できないのが悔しい。


 ユウトがそこで頷く。


「先生とレイナが困るなら、なおさら早く終わらせるべきです」


「黒崎くんは、まず普通に依頼として受けたことを忘れないでください」


「忘れてません」


 真面目に返す顔に嘘はない。


 だがその真面目さが別方向へ転ぶのを、マリナは嫌というほど知っている。


 街を出て街道へ入ると、空気が変わった。


 石畳は土に変わり、踏みしめた靴底にわずかな湿りが絡む。昨夜のうちに少しだけ露が降りたのだろう。草の先に光が乗り、風が吹くたびに細く揺れる。道の両脇には低い木立が続き、先へ行くほど森の気配が濃くなっていく。


 最初のうちは、荷車や旅人と何度かすれ違った。


 だが、進むにつれてそれが減る。


 人の声が遠のき、代わりに聞こえるのは荷車の車輪痕を踏む足音と、風に擦れる枝葉の音だけになる。


「静かですね」


 レイナが小さく言う。


 その声が、思ったより遠くまで抜ける。


「静かすぎる」


 ガルドが周囲を見ながら答えた。


「この道は、もう少し人の気配があっていい」


 マリナも同じ感覚を持っていた。視界の先まで道は続いているのに、そこに流れているはずのものが薄い。荷車の轍は残っている。しかも新しいものも混じっている。なのに、今この瞬間の動きが少ない。


 ユウトが足を止めず、前方を見たまま言う。


「荷車の跡、多いですね」


「そうですね」


「でも、途中から数が減ってます」


 マリナはその言葉で改めて地面を見る。


 確かに、王都側から来たはずの深い轍はある。だが、ある地点から先では、戻った跡ばかりが目立つ。こちらへ向かう流れが薄くなっている。


 そこへ来て、風向きが変わった。


 森の匂いの中に、汗と革と、古い焚き火の匂いが混じる。


 人だ。


 しかも一人二人ではない。


「……黒崎くん」


「はい」


「見えますか」


 周囲に他人はいない。街道には今、彼ら以外の気配がない。マリナは声を落とした。


「少し先の左。木の陰に三人、その奥に二人。道の右側にもいます」


 ユウトの目は揺れなかった。


「弓持ちが一人。剣と短槍が四人。もっと奥にも気配があります」


 ガルドが小さく鼻を鳴らす。


「いるな」


 自分でも気配は取れていたのだろう。


「前に出るなよ」


「はい」


 ユウトは返事だけする。


 だが、その声に昨夜の軽さはない。足裏で土を踏む感触を確かめるように、歩幅がわずかに変わる。


 マリナは小さく息を吸った。


「止まらず進みます。向こうが出てきたら、黒崎くんは正面。ガルドさんは弓持ちを見てください。ダインさんは左からの突っ込みを止めて。レイナ、後ろを見てください」


「はい」


 返答が重なる。


 その瞬間、森の縁が揺れた。


 木の陰から男が一人、道の真ん中へ出てくる。革鎧の上に埃をかぶり、口元には安い笑いが張りついていた。片手に短槍を持ち、こちらを値踏みするように眺める。


「止まれ」


 言い方に余裕がある。


 後ろからも足音が出る。左右の木立から男たちが姿を現し、道の幅を狭めていく。数は正面に三、左右で四、後ろにも二。気配だけならもっといる。


「朝から運がいいな」


 正面の男が笑う。


「ガキ連れかと思ったら、そこそこ持ってそうなのもいる」


 視線がマリナとレイナの方へ流れる。その一瞬で、ユウトの気配が変わった。


 熱ではない。


 芯が締まる。


「女を置いて消えろ」


 別の男が言う。


「従えば痛い目見ずに済むぞ」


 マリナは前へ出なかった。代わりに、視線だけで全体を見た。位置、間合い、木の陰、後ろの逃げ道。正面の三人は囮だ。左右から潰すつもりだろう。弓持ちはまだ矢を番えていない。舐めている。


「黒崎くん」


 呼ぶ。


「はい」


「やりすぎないでください」


 マリナはそう言った。


 その言葉に、正面の男たちが一瞬だけ笑う。


「何だそりゃ」


「躾でもしてんのか」


 その嘲りが終わる前に、ユウトが踏み込んだ。


 ただ前へ出たのではない。右足で地面を深く捉え、土を逃がさず、腰を低く落としたまま重心を前へ通す。肩から先だけで行かない。足裏から膝、腰、背中まで一本に繋げて押し出す踏み込みだったから、初動で体が浮かない。前傾しすぎず、次の動きへすぐ移れる姿勢のまま、一人目との距離を一気に詰める。


 短槍の男が反応して穂先を上げる。


 だが遅い。


 ユウトは槍先の外へ体を流さず、むしろ内側へ半歩入った。槍は長い。振りかぶる間合いを潰されると、柄の根元でしか捌けない。男が慌てて両手に力を入れた瞬間、ユウトの左手が柄の中央を押さえ、右肩を相手の胸に入れるように当てる。押すのではなく、相手の上体を起こし切る前に胸骨の下へ重さを差し込む。短槍を握る両腕が前へ残ったまま、体幹だけが後ろへ反らされ、男の踵が土を削った。


 そこで終わらせない。


 起きた上体に対して、ユウトの右拳が男の顎の下から斜めに入る。腕だけで打っていない。踏み込んだ足の力を腰で回し、肩で押し込み、最後に拳へ流しているから、打点の小ささのわりに衝撃が深い。顎が跳ね、首がのけぞり、短槍を握っていた指が一瞬で緩む。男の体は後ろへ倒れたが、その前に膝が抜け、尻から地面に落ち、さらに後頭部を土へ叩きつけた。


 横から剣を抜いた男が飛び込む。


 その動きは粗くはない。むしろ場数はある。斬るというより、退路を塞ぐ角度で入ってきた。ユウトが一人目に触れている間に左から首筋を狙う軌道だ。


 ユウトは振り返りながら下がらなかった。


 下がれば、後ろの男たちと線が繋がる。だから半歩だけ内へ入り、斬撃の起点になる肩の動きを見て先に腕へ触れる。剣を持つ手首ではない。肘の少し上だ。そこを左手で外へ払うと、斬り下ろしの軌道は途中でずれ、刃はユウトの肩先ではなく空気を裂く。その瞬間、剣を振った男は片足に重さが乗りきったまま上体だけが流れる。体勢が前へ開く。


 ユウトの右膝がそこへ入った。


 腹へ真っ直ぐではない。腰の少し下、踏ん張りに使う場所へ押し込むように膝頭を当て、男の重心を支えている脚を内側から折る。耐えようとしても、上半身は斬撃で流れ、下半身は膝で崩されるから、力が一点に集まらない。男は息を吐く暇もなく折れ、前へ落ちる。その落ちる頭を、ユウトは開いた左手で後頭部から押さえ込み、勢いを殺さず膝へ叩きつけた。鈍い音がして、男の体がその場で沈む。


 右側から二人が同時に詰める。


 一人は棍棒、一人は短剣。道幅を使って左右から潰す形だ。前の二人を一息で落とした相手に、止まって見ているつもりはないらしい。


 棍棒の男が先に来る。大振りではない。肩口を狙って振り抜き、避けたところへ短剣が入る形だ。


 ユウトは棍棒を避ける代わりに、振り始めた腕へ踏み込んだ。棍棒は先が重い。振り切れば威力はあるが、途中で止めるには握りと肩の両方に負担が掛かる。そこへ体を寄せられると、自分の武器が邪魔になる。ユウトは左前腕で男の手首ごと棍棒を押し上げ、振り下ろしの力を上へ逃がした。そのまま懐へ入り、右肘を男の脇腹へ差し込む。脇の締めが甘いところへ肘の角が入ると、肺が潰れ、腕の力が抜ける。棍棒の男の口から息が漏れ、膝が緩んだ。


 そこへ短剣の男が刺しに来る。


 低い位置からの突きだ。狙いは脇腹。近い間合いで、しかも仲間の体で視界を切りながら入れている。悪くない。


 だが、ユウトは棍棒の男をただ崩しただけではなかった。脇腹へ肘を入れた瞬間に相手の腰帯を掴み、体を半歩分だけ引き寄せている。息を吐いて折れた上体は、そのまま短剣の軌道に被さる。突き込んだ刃はユウトに届く前に仲間の革鎧へ食い込み、短剣の男の目が見開かれた。


 その隙を逃がさない。


 ユウトは棍棒の男の背を押し出し、短剣の男の胸へぶつける。衝突で二人の足が止まり、重心が後ろへ逃げたところへ、右の掌底を短剣の男の鼻梁へ叩き込む。掌の付け根で押し潰すように打つから、指を傷めず、首だけが後ろへ弾ける。男はそのまま尻餅をつき、後頭部を道へ打った。


 その間に、左の木立から飛び出してきた男をダインが受ける。


 正面からぶつかるのではない。半歩横へずれて盾を相手の肩口へ滑らせ、そのまま押し返す。突っ込んできた勢いは前にある。そこへ肩をずらされると、足の置き場がずれて体が立たない。男は前のめりに流れたところを、ダインの体重ごと乗った盾で道の外へ押し出され、木の根に足を取られて転がった。


 さらに奥で弓弦が鳴る。


 ガルドの矢が先だった。


 風を切る音は短いが、着弾の音は重い。木陰で弓を構えかけた男の肩へ矢が深く刺さり、腕が上がらなくなる。弦を引き切る前に肩を抜かれたから、矢は地面に落ちた。ガルドは次の矢をもう番えている。


 レイナは後ろへ回った男の足元へ水を走らせていた。


 地面を這うように伸びた薄い水が、靴裏と土の間へ滑り込み、踏み込んだ足をわずかに流す。派手な魔法ではない。だが、前へ出るつもりだった足が半歩ぶれるだけで、人の体勢は簡単に崩れる。後ろから斬りかかろうとした男はその一歩で肩が開き、剣が振り切れない。そこへガルドの二本目の矢が手首の外を掠め、男は武器を落とした。


 正面に残っていた最後の一人が、ようやく状況の悪さを理解した顔になる。


 それでも逃げない。舌打ちしながら斧を握り直し、真正面からユウトへ踏み込んだ。腕力に頼った振りではない。腰を落として斜めに切り上げ、受ければ刃が滑り、避ければ次の横薙ぎへ繋げる軌道だ。雑魚ではない。


 ユウトは受けなかった。


 踏み込んでくる相手へ、さらに前へ出る。斧の刃が走る角度に対し、頭だけを避けるのではなく、足の置き方そのものを変えて線を外す。右足を相手の内側へ差し込み、斧の柄が伸び切る前に肩口へ当たりに行く。武器の威力が最も乗るのは、腰が回り切り、腕が伸びる瞬間だ。そこへ入られると、刃はまだ仕事をしていないのに、振るう側の体勢だけが前へ流れる。


 ユウトは左手で柄の根元を押さえ、右肩で相手の胸へぶつかる。押し潰すというより、相手の軸を真横へずらす当たり方だった。斧の男は踏み込んだ右足に重さを乗せていたが、上半身だけを外へ振られたことで、膝と腰の向きが噛み合わなくなる。耐えようとしても、刃を握る腕が前に残り、足は地面に縫われている。そこへユウトの足が相手の踵の外を払う。大きな払いではない。重心が残っている側の足首を、逃げる方向へずらすだけだ。


 支点を失った体は、もう立てない。


 男が横倒しになる瞬間、ユウトは柄を押さえた左手を離し、代わりに右拳を男のこめかみの少し後ろへ落とす。上から叩きつけるのではなく、倒れる勢いに合わせて沈める打ち方だったから、衝撃が首を通って全身へ抜ける。男は斧を手放し、そのまま地面へ沈んだ。


 土埃が遅れて上がる。


 鼻に乾いた匂いが入る。


 さっきまで道を塞いでいた男たちが、もうほとんど動けていない。


 残っていた後方の二人が、それを見て初めて後ずさった。


「逃がすな」


 ガルドの声が飛ぶ。


 ユウトは振り向いた時にはもう走り出していた。走るというより、地面を蹴るたびに体が前へ滑る。無駄に腕を振らない。体幹がぶれないから、足の力がそのまま前進へ通る。


 一人が森へ飛び込む。


 枝を掻き分ける音がした。


 ユウトは追う角度を少しだけ外した。真後ろを追えば枝が顔に来る。だから半歩右へ入って男の逃げる線の横へ出る。木の幹の間で進路が狭まったところへ、横から肩で当たる。逃げる側は前に重心を乗せている。そこへ横から体重を差し込まれると、足がもつれ、肩から地面へ落ちる。男は起き上がろうと肘をつくが、その肘の外をユウトの膝が押さえ、顔のすぐ横の土へ拳が落ちた。湿った土が跳ね、男の呼吸が止まる。


「動くな」


 低い声だった。


 もう一人はガルドの矢で脚を射抜かれ、森へ入る前に転がっていた。


 道へ戻ると、レイナが小さく息を吐いていた。戦闘中ずっと張っていた呼吸を、今ようやく整えたのだろう。ダインは転がした男を足で裏返し、武器を蹴り飛ばしている。ガルドは矢筒を見て残数を確かめたあと、視線だけで周囲を警戒していた。


 マリナは、そこで初めて深く息を吐いた。


 胸の奥に溜まっていた緊張が、遅れてほどける。だが視線はまだ戦場を離れない。


「黒崎くん」


「はい」


「やりすぎないでください、とは言いましたけど」


 ユウトが振り向く。


 服に少しだけ土がついている。呼吸は乱れていない。額にも汗は薄い。


「十分です」


 マリナはそう言った。


 その声音には、安堵と、少しだけ別のものが混じっていた。


 自分でも分かる。


 頼もしさを感じている。


 それが少し悔しい。


 レイナがその横顔を見て、すぐににやりとする気配があったが、今はさすがに何も言わなかった。


 代わりにガルドが、倒れた連中を見下ろしながら口を開く。


「ただの行き当たりばったりじゃねえな」


 その声に、マリナも頷く。


 実際、そうだ。


 装備の質が揃っている。待ち伏せの位置も悪くない。左右と後方で道を切る形も、場数のない盗賊の動きではない。


 ダインが、斧の男の腰帯から小袋を抜いた。


 中身を見て眉を動かす。


「金がいい」


「見せてください」


 マリナが受け取る。


 手のひらに乗る革袋は思ったより重い。中の硬貨の数だけではない。まとめ方が綺麗すぎる。ばらばらに奪った金を押し込んだ感じではなく、最初から支払いとして渡されたような詰め方だ。


 そこで、地面に転がっていた一人が小さく呻いた。


 まだ意識がある。


 ユウトがその男の襟を掴んで起こす。無理に引きずり上げたのではない。だが、相手は自分で座り直す余裕もなく、襟を支点に息を詰まらせた。


「誰に頼まれたんですか」


 ユウトの声は静かだった。


 男は最初、黙った。唇の端に血がにじみ、鼻から荒い呼吸が漏れる。


「言え」


 ガルドの声が落ちる。


 男の目が泳ぐ。


 それでも口を閉ざそうとした瞬間、別の男が地面に顔をつけたまま、掠れた声を漏らした。


「王都の……」


 全員の視線がそちらへ向く。


 男は歯を食いしばり、血の混じった唾を吐いた。


「依頼で……」


 そこで息が詰まる。


 肩が上下し、喉が鳴る。


「共和国の物流を……」


 そこまで言ったところで、マリナが言葉を切った。


「もういいです」


 声は低く、だがはっきりしていた。


 レイナが目を上げる。ガルドもダインも何も言わない。


 マリナは男たちを見下ろしたまま、短く息を吸う。


 聞こえた言葉は十分だ。


 ここで全部を喋らせる必要はない。むしろ、この場で抱え込むには重い。


「ギルドへ連れて帰ります」


 判断として落とす。


「黒崎くん、縛れますか」


「はい」


 ユウトはすぐに動いた。倒れた男たちの武器をまとめて遠ざけ、残っていた縄で手首を後ろへ回していく。戦闘の直後なのに手順が迷わない。逃げる余地がないように肘の角度まで見て縛っている。


 風が吹いた。


 森の葉が鳴る。


 さっきまでの殺気が消えたあとで、ようやく鳥の声が戻ってくる。


 道の上には、倒れた盗賊たちと、踏み荒らされた土と、折れた枝が残っている。だが、それだけではない。そこに確かに、人の手で流れを止めようとしていた痕がある。


 マリナは街道の先を見た。


 王都の方角だ。


 昨日の酒場の笑いから始まった話が、ここで別の形を取って立っている。


 ただの盗賊では終わらない。


 そう感じさせるには十分だった。


 その横で、ユウトが縄を締めながら顔を上げる。


「先生」


「何ですか」


「もう大丈夫です」


 言い方は穏やかだった。


 さっきまで人を叩き伏せていた手が、今は何事もなかったように縄の端を結んでいる。


 マリナは小さく息を吐いた。


「……そうですね」


 返してから、少しだけ視線を逸らす。


 胸の奥に残っているのは、まだ緊張だけではない。


 だが今は、それを言葉にしない方がいい。


 ガルドが捕らえた連中を一瞥し、低く言った。


「まずは戻るか」


「ギルドに渡して、報告ですね」


 レイナが答える。


「それと」


 マリナは依頼票をしまいながら続けた。


「相沢くんにも、物流の件は伝えておいた方がいいでしょう。あの様子だと、向こうにも関わります」


「だな」


 ガルドが頷く。


「困るのは先生たちだけじゃねえ」


 その言い方に、レイナが少しだけ笑う。


「でも先生は結構困ってますよ」


「今それ言いますか」


 思わず返すと、ようやく少しだけ、いつもの空気が戻った。


 風がまた吹く。


 街道の先へ、昼の光が伸びている。


 止まりかけた流れは、まだ全部戻ったわけではない。だが少なくとも、ここを塞いでいたものは取り除いた。


 その事実の重さを、足元の踏み固められた土が静かに教えていた。



(続く)

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