第100話 酒場と物流と盗賊の件(十八)
土曜の店じまいのあとは、金曜より少しだけ空気がやわらかかった。
昨日は、戻ってこられたこと自体に体も気持ちも追いついていなかった。今日は最初から店の朝を迎えて、そのまま売り切れまで走り切っている。疲れているのは同じなのに、終わったあとの足の置き方が違う。張り詰めた糸が切れるような感じではなく、ちゃんとほどけていく感じだった。
売り場の上から皿を下げ、白い布を外し、粉砂糖の細かな跡を払う。布を持ち上げると、木の台に残ったほのかな温かさが指先へ伝わった。午前中ずっと皿が置かれていた場所だ。客の視線と手の流れが、そこにまだ薄く残っている気がする。
「山本さん、そっちは私が拭きます」
マリナが言うと、山本さんは反射みたいに「いえ、やります」と返しかけて、それから少しだけ笑った。
「じゃあ、甘えます」
昨日よりずっと自然な言い方だった。
副官さんがその横で帳面を閉じながら言う。
「甘えられる時は甘えた方がいいです。営業が終わった直後に無理すると、次で手が遅れます」
「はい」
素直な返事が返る。
山本さんの頬にはまだ熱が残っていた。朝から緊張して、立ち続けて、金を数えて、客の流れに押されて、それでも崩れなかった人間の顔だ。疲れているのは明らかなのに、目だけはどこか明るい。やり切った者の顔だった。
レイナが横で皿を重ねながら、からかうでもなく言う。
「昨日より全然いい顔してますね」
「ほんとですか」
「ほんとです」
「……昨日、自分が何してたか、半分くらい覚えてないんですけど」
その本音に、店の中の空気が少しだけ緩む。
副官さんも口元をわずかに和らげた。
「覚えていなくても、手は動いていました」
「それが一番すごいですよねえ」
レイナが言う。
「緊張で真っ白になってるのに、ちゃんと釣り返してたし」
「やめてください、今思い出すとちょっと怖いです」
山本さんが肩をすくめる。その肩の力が、営業前よりずっと抜けているのをマリナは見ていた。
厨房の方では、水の流れる音が続いていた。
ユウトが器具を洗い、魔王さんがその横で次に残すものと完全に下げるものを手早く分けている。金曜と土曜を越えた厨房は、熱が抜けてもまだ仕事の匂いを持っていた。焼いた生地の香ばしさ、果実の甘い酸味、湯気を吸った木の匂い。それらが混じった空気の中で、二人の動きだけがまだ少し早い。
「ユウト、それこっち」
「はい、師匠」
水気を切った器具が、ふっと消える。
次の瞬間には、奥の棚の空いた位置へ収まっている。無限収納だ。営業中だけではなく、片づけでも手数を減らしている。濡れた器具を抱えて床を往復する必要がないぶん、厨房の足元が散らからない。魔王さんはその流れを何も特別なものみたいに扱わず、自分の手元の整理を続けていた。
その何でもなさが、かえって師匠らしい。
「師匠」
ユウトが声をかける。
「ん」
「この生地、明日に回せます」
視線の先には、少しだけ残った焼き菓子用の生地があった。目で見て、指先で触れて、その状態を拾ったのだろう。
魔王さんはそちらへ顔を向け、軽く手で押して確かめる。
「せやな」
短く頷く。
「水分も落ちすぎてへん。明日の朝一でいける」
「はい」
「そういうのを先に拾えるようになってくると楽やろ」
「はい」
それは褒めているのに、褒めて終わりではない言い方だった。自分も分かっていることを、弟子も分かるようになってきた。その確認の声音だ。
マリナはそのやり取りを聞きながら、拭いていた木皿を重ねた。
戦闘の時、黒崎くんは自分の前にある危険を一つずつ潰していく。今の厨房では、明日の朝に残していいものと、今切るべきものを拾っている。見ている先が少しずつ長くなっているのだと、そんなふうに思った。
「先生」
レイナが小さく言う。
「黒崎くん、今すごいですね」
「ええ」
マリナも頷く。
「だいぶ見える範囲が広くなってます」
「先生、今の、すごく先生っぽい褒め方です」
「何ですか、それ」
「普通に褒めたくない時の褒め方です」
「そんなことありません」
即答すると、レイナが笑う。
「あります」
そこへ、店の表から小さく戸を叩く音がした。
営業は終わっている。けれど、まったく珍しくない音だった。買い逃した者が覗きに来ることもあるし、常連が遅れて顔を出すこともある。
ガルドが戸口の方へ向かう。
「俺が見る」
扉を少しだけ開けると、外にいたのはギルドの若い職員だった。前にも何度か借家や店へ使いに来ていた顔だ。息は上がっていない。走ってきたわけではないらしい。
「すみません、営業後に」
「どうした」
ガルドが訊くと、職員は店の中を一度見て、それから声を少しだけ落とした。
「今日のうちに伝えておけと。街道の件、当面は沈静化と見ていいそうです」
その一言で、店の中の空気が少し止まる。
魔王さんも手を止めた。
「ほう」
「捕えた連中からも、主要な押さえどころは崩れたと確認が取れたらしくて。細い動きまではゼロとは言えないけど、王都からの大きな流れは戻る見込みだと」
レイナが息を吐く。
「良かった……」
本音だった。
マリナもそれを聞いて、ようやく胸の奥に残っていた硬さが少しだけ落ちるのを感じた。ギルドでは昨日そう言われていた。けれど、今日のうちに改めて言葉として届くと違う。見込みではなく、現実がそちらへ向かっているのだと分かる。
「相沢にも一応伝えとくといいって話でした」
職員が続ける。
「流通の読みを組み直すだろうからって」
「分かりました」
マリナが答える。
「ありがとうございます」
職員は「では」と短く頭を下げて去っていった。
扉が閉まる。
午後の光がまた細く切られ、店の中へ静けさが戻る。けれど、さっきまでとは少し質が違っていた。
外で止まりかけていた流れが、ほんとうに戻り始めている。
そのことが、甘い匂いの残る店の中へやっと届いたのだ。
「これでひとまず、だな」
ガルドが低く言う。
「ええ」
マリナも頷く。
「完全に終わったわけではないでしょうけど、ひと区切りです」
「十分やろ」
魔王さんが言う。
木べらを置き、水で手を流しながら、少しだけ肩を回す。
「四日であそこまで叩いたんや。十分働いたわ」
その言葉に、ユウトが少しだけ顔を上げた。
「師匠」
「ん」
「良かったです」
「おう」
魔王さんは短く返す。
「お前もな」
たったそれだけだ。けれど、その一言でユウトの肩の力がまたひとつ抜ける。
副官さんが帳面を棚へ戻しながら言う。
「物流が戻るなら、こちらも少しずつ読みやすくなりますね」
「相沢くん、喜びそうですね」
レイナが言う。
「嬉しそうというより、すぐ計算し始めそうです」
マリナが返すと、レイナが吹き出した。
「それはそう」
その笑いに、山本さんもつられて少しだけ笑う。
気を張っていたものが、ようやく人の会話の形へ戻ってきたのだろう。
「そういえば」
山本さんが遠慮がちに言った。
「それなら、あの……前に話してた品物も、少しは早く回るようになるんですかね」
何の話かは言わない。
けれど、レイナの肩がぴくりと動き、マリナは思わず目を逸らしそうになる。
「たぶん、そうなると思います」
なるべく平静に答える。
「流れが戻れば、そっちも」
「先生、ちょっと嬉しそうです」
レイナが即座に刺してくる。
「嬉しそうじゃありません」
「今のは嬉しいだな」
ガルドまで混ざった。
「ガルドさんまで」
「事実だ」
低い声でそう言われると、余計に反論しづらい。
ダインが短く言う。
「困ってた」
「ダインさん」
マリナが抗議の視線を向けると、ダインはそれ以上何も言わなかった。だが、言わなくても足りてしまっている。
その横で、ユウトが静かに言った。
「先生が困らないのはいいことです」
その一言に、空気が少しだけ止まる。
レイナが目だけで「ほら来た」と言っている。ガルドは口元を少しだけ動かし、山本さんはまだ状況の半分しか分かっていない顔だ。副官さんだけが平然としている。
「黒崎くん」
マリナはできるだけ低く呼んだ。
「はい」
「今、その話を広げないでください」
「広げてません」
「広がってます」
「本当のことです」
「本当でも困ります」
「でも良かったです」
真顔だった。
営業が終わったあとで、疲れも抜け始めたところへ、そういうまっすぐなことを差し込んでくるから困る。
けれど今日は、前みたいに慌てて遮りきる気力もなかった。恥ずかしさはある。あるのに、胸の奥のどこかは静かだ。
魔王さんがそこで、鼻で笑うように息を吐いた。
「まあ、そらええことやろ」
言いながら、水気を切った布を掛ける。
「流れが戻るんは、客にも店にも街にもええ。ついでに先生の機嫌も良うなるんやったら万々歳や」
「魔王さん」
思わず声が上ずる。
すると魔王さんは、少しだけ楽しそうに片眉を上げた。
「何や」
「その言い方は」
「間違うてへんやろ」
そこへレイナが完全に笑いを堪えきれなくなった。
「先生、今日すごいですね」
「何がですか」
「いろんな意味で分かりやすいです」
「分かりやすくありません」
「分かりやすいです」
山本さんは目を丸くしていたが、やがて何となく察したらしい。口元を押さえて視線を逸らした。
副官さんだけが淡々と片づけを続けている。けれど、その沈黙が妙に優しかった。
営業後の静けさの中へ、ようやく普通のやり取りが戻ってくる。
街道の話も、物流の重さも、まだ完全に消えたわけではない。けれど、こうして笑いが混じるところまで戻ったのだと思うと、マリナは胸の奥に溜まっていたものがひとつ、また軽くなるのを感じた。
「……もう、今日は帰って休みましょう」
そう言うと、誰も反対しなかった。
店はきれいに片づいている。売り場は空で、会計も締まり、厨房の火も落ち着いた。外では土曜の午後がまだ明るい。けれど、自分たちにとってはもう十分な一日だった。
店を出る前に、ユウトが魔王さんの前で一度だけ立ち止まる。
「師匠」
「ん」
「今日もありがとうございました」
魔王さんは布を肩へ掛け直しながら、短く返した。
「おう。明日もあるんやから、今日はちゃんと休め」
「はい」
ユウトの返事は素直だった。
そのやり取りを見ながら、マリナは静かに息を吐く。
火曜の夜から続いた流れが、土曜の売り切れと、この一言でようやく本当に一区切りついた気がした。
扉を開けると、外の光が少しだけ眩しい。
ガルドはそこで自然に自宅へ戻る流れへ入った。
「じゃあ、俺は家に戻る」
「はい」
マリナが頷く。
「お疲れ様でした」
「おう」
短い返事のあと、ガルドは隣の自宅の方へ歩いていく。その背中が当たり前の距離で日常へ戻っていくのを見ると、数日間の濃さのあとでも、崩れない形はちゃんとあるのだと感じる。
マリナたちも借家へ向かって歩き出した。
土曜の午後の空は高く、風は昼の熱を少しだけ含んでいる。石畳を踏む足はまだ重い。けれど、その重さはもう嫌なものではなかった。
隣でレイナが小さく笑う。
「先生」
「何ですか」
「今日はちょっと、いい土曜ですね」
その言い方が、妙にしっくりきた。
「ええ」
マリナは頷く。
「そうですね」
借家までの道は短い。けれど、その短さが今はありがたかった。
守りたかった流れが戻り始めている。その中で、自分たちはちゃんと仕事をして、ちゃんと店に立って、こうして帰っている。
それだけで、十分にいい土曜だった。
⸻
(続く)




