第九章 修行
ある日、冴子はいつものように近所の公園に散歩にいき、ベンチに腰を下ろして、幸せそうに行き交う家族連れをぼんやりと眺めていた。タカシはとっくの昔に冴子の手を離れた。詩織も防衛大臣となり、順調に地位を固めつつあった。今の冴子にはこれと言ってやるべきことはない。こうして穏やかな風景を眺めながら時折、詩織をはじめとする意識の中の人々との会話を楽しむのが日課となっていた。
そんな時、上空にカラスが飛んできた。この公園にはカラスが沢山いるのだ。カラスは糞をした。それは冴子のスカートに落下した。そしてとても臭かった。思わずカッとなって上空を見上げると、カラスは力なく不規則に空中を舞いながら地上に落ちてきた。
以前、一人娘の雪子の死因となった老人の脳を意図せずに破壊して、殺してしまったことがあった。パリ市街での銃撃戦の際には、どんなにこの力が使えればと願ったことだろう。だが力が蘇ることはなく、冴子はすっかり力のことは忘れてしまっていた。
だが、今その力が復活したのだ。相変わらず冴子にはその力を制御できなかった。イラッとしたのは事実だが、カラスを殺す気などなかった。
冴子は決して心優しい女ではなかった。憎いと思った相手には容赦しなかった。以前、詩織を弄ぼうとした松木という男を自らの手で葬ったことさえある。その意識をゴキブリの中に叩き込み、ハイヒールの靴底で踏み潰したのだ。プチュッという音に自然に笑みが溢れた。
だが、なんの恨みもない相手、例えば他愛のない悪戯を仕掛けた子供に、ちょっとした苛立ちを覚えた途端、目の前に死骸が転がったとしたら?冴子は、背筋が凍りついた。
人に会わなければ、殺してしまうこともないだろうが、残りの人生はまだまだ長い。いつまでもそうしている訳にはいかないだろう。力を使えるからには練習して制御する術を身につけるしかないのだ。そう悟った冴子は、北海道に広大な牧場を購入し、身の回りのものをまとめて居を移した。そして、一帯を鉄条網で囲んで立ち入り禁止にし、人と会うことを極力避けた。
その一帯の牧場は全て冴子が買い占めた。もうこの付近には誰も住んでいない。こんな僻地まで配達してくれるネットスーパーはなかったから、近くの町のスーパーを買収し、食料や燃料を運ばせた。最初は手数料を払って配達させようかと思っていたが、下手に交渉すると、イラついて何人殺すかわからなかったから、買収することにしたのだ。
料理は自炊した。冴子以外に、ジャンヌとキリアンがいるので、最初はそれぞれ持ち回りで得意なものを作った。だが、次第にジャンヌの作る煮込み料理が人気を博すようになり、彼女もそれが満更ではなさそうなので、たびたび腕を振るってもらった。ワインの仕入れは冴子の担当だった。みんなの意見を聞きながら世界中の良質なワインを金に糸目をつけずに購入した。
修行に励む為にこの地に居を構えたものの、冴子にも何をどうして良いか解らなかった。山に入れば、動物がいるかもしれないが、彼らを殺す気にはなれなかった。冴子とて人並みに自然を愛しているのだ。
しばらく所在ない日が続いたある日、冴子は、ウッドテラスに、蚊の死骸が沢山落ちているのに気がついた。ここは冴子のお気に入りの場所で、家の周りに広がる草原とその遥か遠くに連なる雪を頂いた山々、それらを眺めながらコーヒーを飲むのが毎日の習慣だった。蚊の死骸は箒で掃き集めるとかなりの量になった。だが何日か経つと再びテラスは蚊の死骸が目立つようになった。
冴子は、コーヒーを入れるとテラスの椅子に腰を下ろして周囲で何が起こっているのか観察を始めた。周囲を見渡すと近くに蚊柱が立っていた。北海道の草原に蚊柱はつきものだ。だが、冴子は今までそれを鬱陶しく思ったことはなかった。なぜ今まで気づかなかったのだろう?冴子が目を凝らして蚊柱を観察すると、冴子の近くを飛んでいた蚊が次々と床に落ちていくのが判った。冴子は自分でも気付かないうちに周囲の蚊を殺していたのだ。以前蚊に食われてイラついた際に、ビリー配下の寄生生物が気を利かせて蚊を寄せ付けないように始めたのかも知れなかった。
“ビリー、あなたなのね?ありがたいサービスだけど、どうやって蚊を殺してるのか、詳しいことを教えてちょうだい。”
“いや、冴子。僕はこの件にはタッチしてないよ。冴子が自分でやってるんだ。”
この日以来、冴子はテラスに陣取ってくる日もくる日も蚊柱を見つめ続けた。蚊柱の中の一匹に集中して見つめ続けたのだ。




