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第二章 藤村詩織

陸上自衛隊特殊作戦群の三等陸佐として勤務していた藤村は、人間の精神に巣食う寄生生物に襲われ体に自由を失った。だがある日、先進的なIT企業のオーナーであり、数千億円の資産を所有する大富豪、冴子に救われ、それ以来、その意識の中で暮らすことになった。



藤村は、特殊作戦群の精鋭だった。素手でたやすく人を殺せるほどだった。藤村はゲイだった。そんな藤村は、特殊作戦群の中堅幹部として率先して厳しい訓練に励むうちに、その苦しみから逃れ、女性として生きることを夢想するようになっていった。だが、184cm、90kgの偉丈夫である藤村には、それは見果てぬ夢だった。



ある日、冴子は実の娘のように愛している詩織と共に、都心の豪邸のリビングにいた。いつものように午後のひと時を詩織と談笑して過ごしていた冴子は、詩織の異変に気づいた。微笑みながら冴子を見つめる詩織の瞳がひときわ大きくなった。それは冴子の周囲に広がり、ついには冴子を飲み込んだ。そして、寄生生物が侵入してきた。冴子は、詩織が寄生されていた事実に愕然とした。



冴子自身、外資系投資銀行のパートナーだった10年以上前に寄生生物の攻撃を受け、それを撃退し支配下に置くことに成功していた。それ以来冴子は、“ビリー”と名付けたその寄生生物のもつ特殊能力を活用することで、さまざまな経験をし、今日の地位を築いたのだった。冴子と寄生生物たちとの戦いはその後も続き、今では冴子はビリーを筆頭とする六体の寄生生物を支配するまでになっていた。寄生生物は、病気や体の傷を治療するほか肉体年齢も操作することができる。しかも、個体数が増えるほどその能力は強力になる。五、六体を保有していれば、銃で撃たれても銃創は瞬時に修復される。還暦を過ぎた冴子は、ビリーの力で40歳前後の容貌を維持していた。



そして、今、寄生生物に冒された詩織が、自分に襲いかかってきた。詩織の寄生生物は、冴子の敵ではなかった。実戦経験豊富なビリーは、即座に詩織の寄生生物を制圧した。



ビリーが話しかけてきた。


“冴子、こいつは寄生生物じゃないよ。詩織そのものだ。”


“どういうこと?”


“これまで、僕らがどこから来たのか疑問に思っていたけど、詩織を連れてやってきたこいつは、詩織の本能や情念の塊だよ。詩織は最愛の夫を失った悲しみで、自暴自棄になっていた。そして、悲しみを忘れる為に異常なまでに仕事に打ち込んでただろう?だけど、詩織の本能はこのままでは殺されるって思ったんだ。確かに詩織は死にたかったのかも知れない。そこで本能は反乱を起こして、詩織を乗っ取ったんだ。詩織にとって仕事が快楽だったから、こいつはそのまま詩織に仕事に没頭させて、快楽を貪っていたんだ。そして、もっと快楽を得られそうな冴子を標的に決めて、乗っ取ろうとしたんだよ。”


“でも、それでビリーのような特殊能力が得られるものかしら?”


“僕にだって判らないけど、人間の本能って普段は理性で押さえ込まれてるよね。脳の大部分は使われてないって説もある位だから、解き放たれた剥き出しの本能には色んなことが可能なのかも…。もちろん、ただの憶測だけど…。”


“詩織さんの体はどうなるの?”


“詩織の精神は空っぽだから、早くなんとかしないと、危ないかも知れない。”


“それを早く言いなさい!”



冴子の脳内には寄生生物達が連れてきたさまざまな人物の意識が生きていた。藤村以外にも、フランスの次期大統領候補と目されていた大物政治家のオリヴィエ、上流階級夫人のカトリーヌ、高級娼婦のジャンヌ、そのジゴロ、キリアンそして、日本人留学生だったシンジがいた。



意識を共有しているもの同士は隠し事はできない。冴子はかねてから藤村の夢を知っていた。そして、その戦闘能力により幾度も命を助けられていた冴子は、藤村の夢を叶える為に、即座に彼を寄生生物一体と共に詩織の体に送り込んだ。藤村は、詩織の体を掌握すると部屋の片隅に置いてある姿見の前に駆け寄った。そして、長年の夢が叶い、本物の女になれた喜びに目を輝かせて自分の姿に見入った。



その顔は美しかったが詩織ではなかった。藤村は微かに無骨さを漂わせた、鋭い眼光を放つその顔が気に入った。この顔こそ、夢にまで見た女になった自分だったのだ。色白でしっとりとした肌に包まれた極上の体を眺め、背中の中ほどまで伸びた漆黒の髪を手に取ると、藤村は感激のあまり、「素敵!」とつぶやいた。



冴子は、毎日自宅で藤村と共に過ごして、女性らしい立ち居振る舞いを指導した。やがて慣れてくると二人は連れ立って、おしゃれなブティックやレストランを訪れるようになった。



上品で煌びやかなお店は藤村にとっては夢のような世界だった。防衛大学に入学以来、無骨な世界で過ごしてきた藤村にとって、週末にこっそりと雑誌の写真で垣間見るだけの憧れの世界だったのだ。



店員とのやりとりは藤村にとって緊張の連続だったが、やがて自分が男であることに誰も気づくはずがないことに自信を持てるようになると、その会話をとても楽しめるようになった。


「あら!このバッグ素敵ですね〜。ピンクのお色も可愛いし。じゃあ、これを。」


初めて店員と言葉を交わした藤村は、その言葉を発したのが自分だとはとても思えなかった。



詩織はその美貌にもかかわらず、あまりオシャレには関心がなかった。詩織も投資銀行のパートナーを経験し、その後冴子の息子のタカシが立ち上げたITベンチャーのCFOに転身したエリートだ。しかし、その高収入にもかかわらずワードローブの中はとても質素で、衣装や装飾品、小物はそれほど豊富に所有してはいなかった。



「詩織さんって、意外と私生活は質素なんですね。」


「私もビジネスをやってる時はそうだったけど、着飾るのは何だか女の武器に頼ってるようで嫌だったのよ。それでもプライベートでは多少はおしゃれも楽しんだけど、詩織さんは美人だからその必要もなかったのかしらね。」


「藤村さんの好みに合わせて、今から好きなだけ買い揃えればいいわ。ショッピングも女らしさを鍛えるにはいいチャンスだと思うわよ。」


「そうしたいんですけど、私、一文なしなんです。詩織さんのお金に勝手に手をつけるわけにもいきませんし…。」


「何馬鹿なこと言ってるの。詩織さんはそんなこと気にしないわ。体の維持管理手数料よ。バンバン使いなさい。」


「あら、詩織さんは、化粧品は良いものを揃えてるわね。お肌は同じなんだから、香りが嫌でなければ、下手に変えない方良いわね。」



二人は連れ立って様々なブティックを訪れた。いろいろなことを夢想はしていても実際に女性の衣装を身につけたことがない藤村は、様々な失敗をしでかした。そもそも藤村は男性用ファッションにおいても、おしゃれを楽しんだことがなかったのだ。



「藤村さん。色が多すぎるのよ。もちろん、いろんな色を一度に着こなせる人もいるけど、あれは高等テクニックよ。しばらくの間は、真似しない方がいいわね。」


「冴子さんって本当にセンスがいいですよね。羨ましいです。」


「私自身は、実を言うとファッション・センスは全然なのよ。いつも、カトリーヌとジャンヌに助けてもらっているの。二人ともオシャレのために生きてきたような人達でしょう?でもよく二人が喧嘩しちゃって収拾が着かなくなることがあるの。混ぜるとダメね。TPOに応じて私を含めた三人のうち、誰か一人で決めるのが良いみたいよ。もっとも私が自分で決めると、止めときゃ良かったって、後悔することの方が多いけど。」


「藤村さんの透明感のある白いお肌を生かすには、シックな装いが、お薦めですよ。」


おっとりとカトリーヌが言うと、


「若いんだから冒険してみるのも良いわよ。セクシーでケバい格好がしたくなったら言ってね。あたしが見立ててあげる。」


とジャンヌが口を挟んだ。



やがて藤村も品の良いドレスやスーツを選べるようになり、セレブのような立居振る舞いも板についてきた。



冴子は藤村の落ち着きを見て、彼を海外に連れ出すことにした。ロンドンのサボイとパリのクリヨンで臆することなく振る舞えれば、この段階としては充分だ。藤村にはオリヴィエとカトリーヌに同行させ、冴子にはジャンヌとシンジが付き添った。二人はロンドンとパリにそれぞれ1ヶ月ほど滞在して、市内のおしゃれスポットを見て回った。



藤村がこれからどんな生活を送るのかはこの時点では決まっていなかったが、少なくともサボイやクリヨンで堂々と振る舞えれば、今後どこへ行っても大丈夫だろう。さいわい、オリヴィエはどちらも常連だったし市内の名店も熟知していた。女性本来の立ち居振る舞いは主にカトリーヌが指導したが、男性から見た魅力的な女性の姿についてはオリヴィエがアドバイスした。



特に藤村がフォーブール・サン=トノレのエルメス本店を訪れ、バーキンを所望した際には即座に極上のバッグが提供され、藤村のセレブぶりが板についてきたことを物語った。



「私が若い頃、初めてこの店を訪れた時は、店員さんは誰も口を聞いてくれなくて、何も買うことができなかったのよ。」冴子がそう言うと、藤村は「全て冴子さんのご指導のおかげです。」と言って恐縮した。



「それだけじゃないわ。あなたには相手に有無を言わせない芯の強さがあるのよ。それが無言のうちに店員さんを動かしたのよ。そう、あなたには、殺気があるの。いつもはとても微かな殺気だけど、でも、必ずあるのよ。」そう言って冴子は満足そうに相好を崩した。どんなに女性らしく振舞ってはいても、藤村はその気になれば、いとも簡単に素手で人を殺せるのだ。「そうだ、藤村。君の立ち居振る舞いはとても洗練されて女性的だが、同時に強さを感じられる。これは普通の女性にはないものだ。今後君の大きな武器になるはずだよ。」オリヴィエはそう言って藤村を評価した。



女性としての暮らしが落ち着くと、藤村は自宅の空き部屋にマシンを設置し、筋トレを開始した。スポーツジムにも通ってみた。藤村の美貌と色白な身体に絡みつく男性会員の視線は、最初のうちは快感だった。しかし、やがて図々しく話しかけられるようになるとあしらうのが面倒になり、結局退会してしまった。何しろ、男達は皆、上から目線で筋トレのやり方を講釈するのだが、特殊作戦群の訓練を経験してきた藤村にしてみれば、所詮素人の知ったかぶりに過ぎなかったのだ。



藤村の筋肉は寄生生物が付けてくれる。藤村はどこに筋肉を付けたいかを示す為に、少しマシンを操作して負荷をかけるだけで良かった。そして骨密度や筋繊維の密度をあげていくと、見た目は細身の体のままで、現役時代にも匹敵するほどの肉体の強度を手に入れることができた。



冴子との平穏な日々を過ごしながら、藤村は今後の人生についてずっと考えてきた。自分はまだ若い。今の遊び人のような生活をこのままいつまでも続けたくはない。女性としての振る舞いも板に付いてきた。独り立ちすべきタイミングが近付いている。そう思いはしたものの、具体的に何をしたら良いのか、なかなか展望は開けなかった。



戦闘能力や作戦立案には自信があったが、サラリーマンの経験はない。詩織のやっていたCFOなど務まる訳がなかった。できることなら自衛官に復職したかったが、自衛官の募集年齢は32歳まで。40歳の詩織はとっくの昔に上限を超えていた。



戦闘能力を活かせる職業として警備員、プロレスラー、傭兵なども検討したが、これらの職業には藤村にとって命をかけられるだけの忠誠心の拠り所が欠けていた。



いつものように自宅の周辺をジョギングしていたある日、藤村はかつての同僚がしばしば口にしていた冗談を思い出した。


「俺は幕僚長にはなれんが、選挙さえ通れば、防衛大臣になれるかも知れないんだ。貴様ら口の利き方に気をつけろよ。」



藤村は、そんなバカなとかぶりを振ったが、次第に防衛大臣への道のりを夢想するようになった。そして、自分にその資質があるかどうかは別にして、寄生生物の力を使えば、防衛大臣になれることに気がついた。しかも確実に。



「私は、詩織さんの意識と本能の分離の問題は簡単には解決しそうにないと思っているの。何より、彼女自身が自分の体に戻りたがっていないのよ。だから、多分あなたはずっとその体にいることになるわ。防衛大臣への挑戦を応援するわ。オリヴィエが日本の政界でどんな力を発揮するかも興味があるし。」



藤村がそのプランを打ち明けると、冴子はそう言って全面的なバックアップを約束してくれた。


寄生生物の力を使い、節目節目で意思決定者の意識を乗っ取ってしまえば、理屈の上では大臣になるのは可能なはずだ。しかし、そんなことをして大臣になったとしても、寄生生物の力が及ばない多くの人々が、藤村の大臣としての資質に納得しなければその任期は短命なものに終わってしまうに違いない。



その点、冴子も藤村もフランス政界の大物だったオリヴィエの存在に期待していた。彼の能力を使えば新人政治家は元より、平均的な日本の政治家と比較しても抜きん出た存在感を発揮できるかも知れない。日本とフランスの政治スタイルの違いはあるはずだが、オリヴィエ自身は上手くアジャストできると考えていた。というか、そのアジャストの過程こそがオリヴィエにとってワクワクするチャレンジだった。また、外資系投資銀行出身の詩織のやり方が、従来の日本人の政治家と多少異なっても、当初の間はあまり問題にはならないと思われた。



こうして、藤村の挑戦が始まった。これから公の場に立つことになれば、自分は北川詩織以外の何者でもない。藤村は、北川詩織として生きていくことを決心した。

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