第8話 十四年前、「ここにいる」は十四分待たされた
岡田、百目鬼、宇賀神、進藤、長谷川、吉岡、飛鳥井――施設側の主要関係者七人の経歴を照合した二階堂は、岡田の履歴にだけ、十四年前の白鷺中学校水害との直接の接点を見つけた。
白鷺中学校水害。死亡者、岡田未央、十四歳。岡田康平の妹。事故当時、体育館裏の誘導室から「ここにいる」と内線したが、在室表示は退室済み。単独通報は確認待ちとなり、救助開始まで十四分を要した。
事故後、岡田は「人間の確認遅れを排除する危機判断」を研究テーマへ変えている。
公式報告には、未央が体育館裏誘導室から三度「ここにいる」と内線した事実も、成人確認を待った十四分の内訳もない。藤井の未掲載原稿にだけ、その声と時刻が残っていた。
岡田は資料を見ても、妹の名を呼ばなかった。
「人が聞いた声より、機械の在室表示が優先された事故です」
そう説明した声には、悲しみより訂正の響きがあった。
ただし、藤井の資料は岡田を告発する記事だけではなかった。赤い付箋の束に、ATLAS試作版が実際に役立った事例が残されていた。
三年前、北陽市の地下駐車場火災。現場は「全員退避」と報告したが、試作版は入退場記録と赤外線人感センサーの通過数に一人分の不一致があると警告を残した。再検索で、設備員が機械室から救助された。
記事の見出しは〈一人を残さなかった試作機〉。署名は藤井真琴だった。余白には赤字で一行だけある。
〈役に立った事実と、危険な事実は、どちらも消さない〉
藤井の取材ノートには、赤い付箋と青い付箋があった。
赤は問題点。
青は、実際に役立った事例。
二階堂が頁をめくる。
北陽市地下駐車場。青。
豪雨時の河川避難で、複数自治体の警報時刻を統一した事例。青。
救急搬送先の重複を減らした試験。青。
その間に、赤。
誤報歴のある通報者を自動降格。
高齢者施設の職員通報が資格情報不足で保留。
学校実証で生徒発言が低評価。
藤井は、良い実績を隠して告発を強くすることも、悪い事例を消して制度を守ることもしなかった。
「記事としては、やりにくい人ですね」二階堂が言う。
宇賀神が横からノートを見る。
「そう。見出しが作りにくい」
「広報がそれ言う?」
「広報だから言う」
宇賀神は青い付箋を一枚めくる。
「藤井さん、ATLASを潰したいなら、北陽市の記事を書かなければよかった。あれで自治体の関心が一気に上がった」
「自分で伸ばした制度を、自分で止めようとした」
「止めようとしたんじゃない。直そうとした」
宇賀神の言葉は、少し悔しそうだった。
「私は三日前、それが分からなかった。制度が止まるか、通るかの二択だと思ってた」
二階堂がノートを閉じる。
「二択にすると、話が速いから」
「あなたもそうする?」
「会見では、したくなる」
宇賀神が見る。
「認めるんですね」
「俺がやらないって言う方が信用できないでしょう」
二階堂は藤井の赤いペンを見た。
「だから、誰かが横で“主語消えてる”って言ってくれると助かる」
「もういません」
言ったあと、宇賀神の顔が固くなる。
二階堂は否定しなかった。
「いない。だから残ってるノート読むしかない」
藤井のノートの最後の頁には、朝の学校の記録が殴り書きで追加されていた。
〈早瀬凪/二年/過去誤報一件〉
その下に、赤で丸。
〈今回の警告内容は正しい〉
さらに一行。
〈“信用できない人”と“今回の情報が誤り”を混同していないか〉
二階堂はその一文を写した。
「これ、事件後の説明に使う?」宇賀神が訊く。
「使うなら藤井さんの名前付きで」
「本人の許可は」
二階堂は止まる。
「取れない」
「じゃあ?」
「記事として公開予定だったか確認する。未公開のメモなら勝手に使わない」
宇賀神がわずかに笑う。
「そこ、藤井さんに怒られそう」
「何が」
「慎重すぎるって」
「死んだ人を便利な名言製造機にしない方がいい」
近くで九条が「それは正しい」と言った。
二階堂が驚く。
「先生、聞いてました?」
「声が大きい」
藤井がいなくなっても、その人の言葉をどう使うかには責任が残る。
それもまた、主語を消さないということだった。
真壁は紙を閉じた。岡田の十四年を「全部間違いだった」の一言で片づければ、それもまた都合のいい記録になる。
誰もすぐに岡田へ質問しなかった。
十四歳の妹を失った人間へ何を聞いても、殺人の捜査になる。
同情しすぎても、疑いすぎても、どちらかへ歪む。
その沈黙を破ったのは江口だった。
「妹さん、中学生だったんですね」
岡田の目が上がる。
「二年生です」
「早瀬と同じくらいだ」
「そうですね」
江口は資料の写真を見た。制服姿の未央。顔写真は小さく、事故報告書の添付資料だから笑っていない。
「教師って、生徒が死ぬ話を“被害者一名”って読むの苦手なんです」
進藤が眉を寄せる。
「今は捜査中だ」
「分かってます」
江口は岡田から目を逸らさなかった。
「でも、岡田さんがATLASを作った理由が“十四年前に一名死亡”だけなら、ここまで作ってないでしょう」
岡田の口元がわずかに動く。
「妹は、よく忘れ物をしました」
突然だった。
「カードを落としたのも、その日が初めてじゃない。私はいつも叱っていた。認証カードは命を守るものだから、失くすなと」
江口は何も言わない。
「だから内線で“カードは廊下で落とした”と聞いた時、私は……またか、と思った」
岡田の視線は資料の一点へ固定されていた。
「表示は退室済み。本人はいると言う。私は、どちらかを確認しなければならないと思った」
「確認した」真壁が言う。
「はい」
「十四分かかった」
「はい」
岡田はそれ以上を言わなかった。
江口が静かに聞く。
「今日の早瀬も、一回間違えてます」
岡田の肩がごく小さく固くなる。
「理科準備室の蒸気を煙と見間違えた。だから警告が二十七点になった。今日、もし俺たちが教室へ行くのが遅れてたら、西村先生がどうなったか分からない」
「学校実証については、改修対象です」
「今それを“改修対象”って言えるの、すごいですね」
声は荒くなかった。
その分だけ痛かった。
岡田は江口を見る。
「では、何と言えばいいんです」
「早瀬の名前」
「……」
「二十七じゃなくて」
岡田の視線が落ちる。
五十嵐が江口の袖を小さく引いた。
「桜次郎」ではない。公の場だから、「江口先生」と呼ぶ。
「今は、答えを取る場です」
江口は一度だけ息を吐いた。
「分かってる」
岡田が言った。
「早瀬凪さん」
江口が見る。
「学校から報告を受けた時、名前も読みました」
「覚えてたんですね」
「覚えています」
その答えが、岡田にとって有利なのか不利なのかは、まだ誰にも分からなかった。
ただ一つだけ分かった。
岡田は数字だけを見る男ではない。
名前を覚えた上で、数字へ戻すことができる男だった。
それは、忘れているより危ういのかもしれなかった。
藤井真琴の死から四十二分後、判定室には七人の容疑者がいた。
岡田康平。
百目鬼和馬。
宇賀神夏希。
進藤昭夫。
長谷川隼。
吉岡佐和子。
飛鳥井眞子。
一方、真壁、二階堂、九条、鳳、五十嵐、江口、堀島の七人も、判定、救命、検証に関わったという意味では事件の当事者だった。この七人のうち、投票席にいたのは真壁、二階堂、九条、鳳、五十嵐の五人。江口と堀島は観察席だった。
だが、藤井を記録室へ入れ、無人と表示し、低酸素消火を殺人へ転用できる条件を持つ容疑者は、先の施設側七人に絞られた。
最初に百目鬼が、自分から端末を差し出した。
「疑われる理由は分かってる」
画面には、彼の管理者権限が使用中と出ている。
藤井が部屋へ入った一分後、無人設定が実行された。
「侵入試験で九番まで取ったのは事実です。でも本番前に返却した」
「誰へ」
真壁が訊く。
「岡田」
岡田は首を振った。
「カードを端末へかざして、返却処理をしただけです。預かってはいません」
百目鬼は透明カードを取り出した。
角が小さく欠けている。
九条が藤井の掌から見つけた樹脂片と合わせると、材質と厚みは一致した。
ただし、切断面は合わない。
「同じカードの欠片ではない」
九条が言う。
「複製品か、同じ製造ロット」
百目鬼が岡田を見る。
「複製を作れるのは、カード発行権限を持つ人間だ」
「あなた自身もです」
岡田は静かに返した。
「侵入試験者として」
百目鬼には動機もあった。
藤井は、彼が国外企業へ侵入技術を売った疑いまで調べていた。
百目鬼はそれを認めた。
「疑われた。だから、今夜全部見せるつもりだった」
「何を」
「九番の隠し命令。認証試験の最後に、俺がシステムを止める。止められれば欠陥が証明できる」
「無断で?」
「岡田へは、一般的な侵入試験をするとだけ申請した」
「つまり別の計画があった」
「殺す計画じゃない」
百目鬼の計画は、中央席を三十秒停止させ、全ログを独立回線へ複製するものだった。
実行予定はATLAS時刻午後十時三十分。標準時では午後十時十六分。
藤井が死亡したのはATLAS時刻九時二十四分前後。標準時では九時十分前後。
「予約命令を前倒しされた可能性は?」
五十嵐が訊く。
「ある。でも俺のコードなら、無人設定じゃなく全扉開放になる」
「書き換えられた?」
「元コードを知る人間なら」
百目鬼は岡田と長谷川を見た。
次に宇賀神。
彼女は危機広報コンサルタントとして、翌朝の認証発表を担当する。
藤井から三日前、発表延期を求められていた。
「公表しなかった理由は」
二階堂が訊く。
「裏付けが足りなかった」
宇賀神は赤いノック式ボールペンを資料と平行に置いた。
「国外流出の送信元も、口座の名義人も確定していない。疑惑だけで発表を止めれば、制度全体が潰れる」
「制度全体が潰れると、あなたの会社も困る」
「当然です。二年かけた案件ですから」
「藤井さんが生きて会見へ出れば、もっと困る」
宇賀神の指が赤いペンへ触れた。
位置を一ミリ直す。
二階堂はそれを記録した。
「藤井さんを記録室へ呼びましたか」
「呼んでいません」
ペンは動かなかった。
「九番の下に原本があると聞いた?」




