1話
ある日の放課後。
進路指導室の隣にあるカウンセリングルーム前には、静かな緊張が漂っていた。
ドアの前で深呼吸をする生徒・田中。
ノックをする。
「どうぞ〜」
中からのんびりした声。
スクールカウンセラーの佐藤先生だ。
「……失礼します」
「こんにちは、田中くん。今日はどうしたの?」
田中は椅子に座るなり、真剣な顔で言った。
「先生、僕の犬が……存在してるのか、してないのか分からないんです」
「……はい?」
事情を聞くとこうだ。
田中の飼い犬・ポチは、家に帰ると「いるときと、いないときがある」という。
ただし、家族はみんな「いる」と言うし、エサも減っている。
でも田中が見ると、いない。
「つまり、僕が観測した瞬間だけ、ポチが消えるんです!」
「それ、単に嫌われてる可能性は?」
「量子力学的な問題です!!」
佐藤先生はメモを取りながら頷く。
「なるほど。いわゆる『シュレディンガーの犬』だね」
「そうです! 箱に入ってるかもしれないし、入ってないかもしれない!」
「いや普通の家で犬を箱に入れないで」
「先生、僕どうしたらいいですか」
「まず落ち着こう。ポチは実在する可能性が高い」
「でも、僕が見ると消えるんです」
「じゃあ、見なければいいのでは?」
「それはそれで寂しいです!」
しばらく沈黙。
佐藤先生はふとひらめいた。
「じゃあこうしよう。スマホで動画を撮ってみて」
「動画?」
「田中くんが直接見ない状態で観測するんだよ」
翌日。
田中は興奮気味にカウンセリングルームに入ってきた。
「先生!! 撮れました!!」
「おお、どうだった?」
「映ってました!! ポチが!! めちゃくちゃ元気に!!」
「よかったじゃない」
「……でも」
「でも?」
「動画を再生した瞬間、消えました」
「え?」
田中は震える手でスマホを差し出す。
再生ボタンを押す。
そこには──
誰もいない部屋と、空の餌皿。
「……」
「……」
「……先生」
「うん」
「僕の犬、概念かもしれません」
「それはそれで哲学の領域に来ちゃったね」
そのとき。
カウンセリングルームのドアがガチャっと開く。
「すみませーん、迷い犬が……」
事務員が顔を出す。
その腕には、めちゃくちゃ元気な柴犬。
「……ポチ」
「ワン!」
田中が見た瞬間、ポチは事務員の腕からスッと消えた。
「えっ!? 今いたよね!?」
「……いましたね」
「消えた!?」
「……消えましたね」
二人は顔を見合わせる。
佐藤先生はゆっくりメモを書いた。
『ケース:観測者依存型犬』
「……田中くん」
「はい」
「これは長期戦になるね」
「……はい」
カウンセリングは、しばらく続きそうだった。




