二十二
「ハハハハハハハハハ!!」
絶叫とも哄笑ともつかない、狂気を極限まで高めて吐き出すかのように、影夜は刃を滅茶苦茶に振るう。刃に宿る亡霊達の邪気に自身の狂気が加わり、削岩機のようにその場にある物を呑み込み、粉砕する。勿論、そこに何かがあればの話だが。
跳躍した一真が影夜の頭上を飛び越える。影夜は獣的な本能で以て、振り返り様に刃を水平に振るった。それは一真の頭上の宙を抜けた。がら空きになるその胴へと一真は突きを入れた。咄嗟に身を捻り下がった影夜の判断は賢いが、彼は月の存在を忘れている。
「百の妖を討ち、百の魔を滅し、百の病を癒さん――清風明月」
影夜はそれが自身に対する攻撃であると思ってか、右の刃で防御の構えを取った。構わず、月は刃を刺した。闇を溜める床へと。既に綻びの合った結界へと容易くも刃が吸い込まれて行き、そして清風明月が発動する。
白銀の光が床を、壁を、天井を、幾筋にも渡って走り、やがて影夜自身の影にもそれは及ぶ。そして歪な世界が崩れる。ガラガラと音を立てながら、砂が風に吹かれるように、邪気があらゆる物に張り付いていた影が、剥がれ落ちて舞い、月影へと吸い込まれて行く。
月明かりが再び部屋を照らした。防護用の結界が無くなり、偽りの空間でなくなったここは、酷く寂しく静かな所だった。
――まるで、時までもが止まったかのよう
中原一族が追われるようにしてこの地に逃げた時から、ここは時が止まってしまったのだろう。或いは、影夜が陰陽寮へ復讐すると決めた時から。すっかりと影が引き剥がされ、その下にある狩衣姿の少年の姿が露わとなる。唯一残っているのは右手と同化した刃のみ。
あれだけはここに張られていた影結界とは別に稼働していたらしい。だが、それでも刃は肉を削がれたように、薄くなっていた。『燭光喰らい』はまだ発動しているのだろうか。
「春日月ぃいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
影夜が怒りに身を任せて叫び、突っ込んでくる。それは紛れも無く人間だった。自分ではどうしようもない運命を恨み、憎んで、故に歪んでしまった人間。その苦しみから解放しようと、月が決意した時、一真がその間に割り込んだ。一瞬、彼女は淡い期待を持った。一真ならば。一真なら、彼を救う事が出来る。
――だが、彼は一真であって一真ではない
影夜は、邪魔な一真を屠ろうと、刃を振るう。が、それは受け流されていた。破敵之剣を握っていない方の左手で。影夜の瞳が驚愕で見開かれる。左手には先程月が捨てた狩衣の袖が巻きつけられていた。轟っと、左の拳が影夜の顔面へと突き刺さる。よろける彼を一真は蹴り飛ばし、剣を振り上げる。
影夜はその途切れる事の無い連撃についていけない。釣られるように右腕を振り上げたのが、致命的な過ちとなる。金色の刃は影の刃の護りをすり抜け、影夜の肩を喰らう。
「打ち破り、闇を屠れ!!」
一真は勝利を確信し、叫んだ。天はそれに追随しなかったが、しっかりと効果は発動している。あれ程鉄壁を誇っていた影の刃が、破砕された金剛石のように、崩れる。
中から出てきた腕は袖が無く、皮膚が所々剥がれていた。激しく痙攣する血管が浮き出、影夜が呻く。失った左手の代わりに、床と自身の身体を使って右手を抑えこみ、必死に痛みを堪える。
「俺としては、出来るだけ無様に転がって欲しいもんだな」
傍に立った一真が、逆手に破敵之剣を持ち、嗤う。影夜は屈辱に身を震わせた。
「またか!! また、貴様らによって僕達はァあああ!!」
「履き違えるなよ。お前は月を殺そうとした。だから、俺はお前を殺す。沙夜が同じ目に遭ったら、きっとあいつだってそうすんだろ? お前のご先祖様は」
一真の顔に、温かみが戻ったような気がした。だが、目の錯覚だったかとすら思う程に、次の瞬間には冷たい瞳で影夜を見下ろす。
「恨む相手を間違えたな。お前に呪いを掛けたのは月じゃない。沙夜でもない。お前のそれは単なる僻みでしかねぇよ?」
彼の一族は呪われ、春日の一族は彼を含めて数多の犠牲の上に、今日まで生き残った。血塗られた歴史、理不尽を恨まれるのはむしろ当然のことのように月は思えた。
一真がちらっと横顔を月に向ける。
「お前は何も気に病む必要はねぇよ。こいつは今始末する」
「一真……!!」
月はたまらず、叫んだ。だが、一真は止まらない。振り上げた剣は止まらない。毒づくように彼は、月にも聞こえない程の小声で言った。
「向こうに閉じ込めた“俺”だったら、もっとマシな言葉を掛けられたのかもしんねぇな」
そして刃は憐みの欠片すらも乗せず、無常に貫いた。
†††
空が青く澄みきった気持ちの良い朝だった。一真はいつものように、栃煌神社へと訪れる。日課である碧との鍛錬は憂鬱ではあったが、月や神社にいる皆に会えるのは楽しみだった。石段を登り、鳥居を潜った先に、陽に煌めく神社が見える。右を見ると、ミズナの大木が風に揺られていた。ふと気配を感じて、近づく。見上げると、枝と葉で造られた螺旋階段の一つに、彼女が腰かけていた。
「月、どうした……んでふ!?」
奇妙な叫びと共に一真は、飛び降りてきた少女に押しつぶされる。
「ねぇ、一真」少女の笑顔が視界一杯に広がる。力が入らなかった。少女の手が一真の身体を抱き、両脚の間を割って太腿が入る。巫女装束の衣越しに彼女の体温を感じる。
少女は微笑み続ける。どうしたんだという言葉は、漆黒の髪に塞がれる。耳元に口を近づけ、彼女は囁いた。
「ひとりにしないでよ」
顔を上げた月は微笑んでいた。瞳を涙で一杯に溜めながら、微笑んでいた。微笑みながら遠ざかっていく。
「……月!!」
暗闇の中で一真は叫び、目を覚ました。目を覚ましたという表現がここで適切かはさておき、思考出来る程度には意識を戻していた。混乱する頭で彼は何が起きたのかを考える。
――影夜が何かをして……
身体の中をこじ開けられるかのような感覚、その中に閉じ込められ……言葉にしてみると正気を疑われそうだが、今一真は“自分の中”にいるらしい。
――すれ違ったあいつは……
入れ替わるようにして出て行ったのも、一真自身。これまた正気を疑われそうだ。身体を乗っ取られたわけではない。
何故ならあの一真も自分自身。そう考えると妙にしっくりと来る。影夜が何をするつもり――したつもり――かは分からないが、自分はまだ生きている。
『内なる幽暗』そこに閉じ込められていたのは、得体の知れない化け物ではなかった。これまで、一真は怒りを感じる事で躯の内の怪物が反応しているのだと思ってきた。だが、違うのだ。閉じ込められていたのは紛れも無く自分自身だったのだ。
――沙夜みたいに「わざと」逃がすつもりかよ? なぁ、それで本当に月を守れるのか?
自身に問われた事が頭を過る。月を守れるのか。その事ばかり自分は考えてきた。だが、同時に相対する敵を問答無用で滅する事が出来なかったのも事実だ。それが月にとってどれだけの脅威になるのか。
それをもう一つの人格は分かっていた。月の事を思うのであれば、全てはあれに任せ、自分はここにいる方が良いのかもしれない。あれは、ずっと一真の副次的な人格としてここに閉じ込められてきた。次は自分の番なのかもしれない。ふと目の前にぼんやりとした光が広がる。そこに映し出されたのは月、それに影夜だ。戦っている。影夜は追い詰められていた。一真が容赦なく剣を振るい、月の霊術が発動する。
――俺はこんな戦い方をしない
ぼんやりと思った。出来ないと置き換えても良い。自分という躯の中に埋め込まれ寄生しているかのような錯覚を与える恐ろしさ。それに横で戦う月はまるで人形のようでいて、見ていられない。
――だけど、月を守るにはこの方が良い
――俺では甘すぎる。だから
――いっそ、このまま眠りにつくのも悪くない。
「見つけた」
ふと自然に掛けられた声に、一真はしばらく反応出来なかった。振り向くと、そこにいたのは彩弓だった。蝶の羽のように結った髪をひらひらと舞わせながら、走ってくる。
――これは、目の錯覚か?
あるいはこの世界では、こんな幻は日常茶飯事なのか。混乱する一真の耳に、今度は聞き慣れた怒鳴り声が飛び込んでくる。
「こら、一真ぁああああああ!!」
気が付いた時には、飛び蹴りを喰らった。その余りに暴力的でしかしどこか日常的な行動に一真は思わず叫んだ。
「痛ってェええな!! 何すんだよ!!」
「うっさいわね! 彩弓ちゃんが、あんたが助けを呼んでいるって言うから、来てみたらなんか塞ぎこんでいるし!」
彩弓が? 驚いて、一真が見ると、童女は恥ずかしげに両手を組み頬を赤らめた。
「助けって、いや、そんなことより、お前らどうやって……?」
「私が繋いだの」
彩弓がぽつりと言った。繋いだ? 何を? 顔を向けられた未来は肩を竦めただけだった。こう何度も異常な事が続くと、考える事すら放棄してしまいたくなるのか。そのサバサバした所はいつも通りの未来だった。
「心と心を夢の中で繋ぐ……とか、なんとか。白虎さんはそう言っていたわ」
海馬の式神。ふと、海馬達は無事なのだろうかと心配になる。だが、ここでは確かめようも無い。“一真”が影夜を倒し、下の階に行けば分かる事だろうと、どこか他人事のように思う。
「そんなことより、あんたはここで何をしているのよ? 月は? あんたどうして一緒にいないのよ!」
何故、未来にそこまで感情的に怒られなければならないのかは、分からないが、一真は顎でしゃくって見せた。ぼんやりとした光を。そこに映る自分が見ているものを。
「これ……は?」
「俺だ。俺は今もちゃんと月と一緒にいる」
「はぁ? え? あの、つまりどういうことよ……?」
かなり端折ってではあるが、一真は簡潔に『内なる幽暗』について、未来と彩弓に説明した。未来は淡々と説明を聞き、一真が話し終えると、つまりと要約する。
「二重人格ね。もう一人の自分」
「あぁ……、まぁそう。そういうことだ」
大分投げやりに答える。半分でも伝われば上々だ。一真とて聞かされれば同じように答えただろう。実際に経験してみないと分からないものだ。特にここまで異常な現象は。
「で、ここはその幽暗とかいう場所なの? あんたの心の中?」
「影夜のやつは地獄とかなんとか言ってたけどな」
ここが死者の行き着く場所なのだとすれば、自分一人しかいないのはおかしいような気もする。が、だからこそ『内なる』なのかもしれない。心の中の闇の空間。すると彩弓がさらっと確信を持ったように言う。
「ここは地獄じゃないよ」
「え?」
一真と未来の二人がぽかんと口を開く。彩弓は自信満々に胸を張る。
「ここは一真お兄ちゃんの夢の中――だから、早く起きてよ」
ややあって、未来がぷっと吹き出した。虚空に笑い声が木霊を残し、彼女は思いっきり一真の肩を叩いた。いつもと変わらないその輝きが、この闇の中では一段と美しく見えた。それ以上は見ていられずに一真は俯いた。
「あそこにいる俺は……」
知らず声が荒くなる。認めたくなかったのだ。
「月を絶対に守るだろう。どんな手を使ってでも」
或いは否定してもらいたいのかもしれない。思わず反吐が出そうになるような考えだった。
「あんたは」
一転、未来は怒りに顔を真っ赤にして詰め寄る。影夜や物の怪達が浮かべる物とは根本的に違う怒り。
――誰かの為に本気で怒っている顔だ
溜めるように息を吸い、そして彼女は低い声で聞いた。
「あんたは、それでいいの?」
「あいつは月を守って――イデ!!」
未来が思いっきり一真の頭に拳骨を落としていた。後ろで彩弓が小さく息を呑む。
「良い子はマネしちゃダメよ、彩弓」
「お前が言うか……」
痛い。ひりひりと頭が痛んだ。眼頭に涙を浮かべながら見ると、殴った当の本人も手の甲が腫れていた。続けて出そうとした文句が喉の奥に引っ込んだ。
「それでいいの?」
再び、未来が問う。人差し指を光へと向ける。月の顔が浮かんだ。ただ唯々諾々と、一真の言うことに従い、太刀を振るって戦う月の姿がそこにはある。
「あんたが守りたかったのは、戦うだけの人形? それとも、月?」
「それは」答えようとして口を噤んだ。恐らく次に出るのは言い訳めいた自暴自棄的な御託だ。どうしようもなく、みっともない類の言葉しか出てこない。
「あの娘だって、そうよ。一緒にいたいのは“あいつ”じゃないわ。あなたなのよ」
そっと肩に手を回し、未来は囁く。
「力が何よ? それで、あの娘からあの面白い表情が無くなるんだったら、私は断固反対」
「面白い?」
目をゆっくりと開閉し、一真は返すと、未来は頷いた。
「そ。皆で帰ったら散々からかってあげようと思うの」
未来が笑い、一真もつり込まれて笑う。――本当、こいつには敵わない。
未来はゆっくりと手を放した。まだ一真は不安だった。不安なまま、光の中の月を見上げる。その背後に向かって未来は思い出したように、付け加える。
「自分をもっと信じなよ。あんたが弱いのは、信じる力が弱いからなんだから」
「そう思うか?」背後で、未来と彩弓が遠ざかっていく。
「だぁ、もう! 四の五の言わずにさっさと戻ってきなさい!――私も……今のバカなままのあんたの方が好きだから」ハッと一真は振り返った。二人の姿はもうどこにもない。虚空に落ちた最後の言葉は「じゃなきゃ、からかい甲斐がないし」だった。
一真は短く苦笑し、そして光に顔を戻した。ぼんやりと映る月の姿を。
――分かってはいる
例えこの先あらゆる物の怪から守りぬけたとしても。あんな抜け殻のような――未来に言わせれば人形――表情のままであっては、それは生きているとは到底言えない。
――それに、俺だってここから覗いているだけなんて嫌だ
すっと光に向かって手を伸ばす。どこか遠くのもののように感じていたその現実に、いとも容易く指が触れる。
――彩弓が言うには、ここは夢の中
夢から現実へと戻る方法はただ一つ。
――目を覚ませばいい
手の触れた先から温かみが増し、周りを取り巻く闇そのものが揺らいでいく。触れたそこから光は夜明けを告げる曙光のように広がる。一真はぐっと力を込める。気を抜けば取り残されてしまいそうだった。
ぐっと光を引き寄せる。
初めはぼんやりとした感覚が、徐々に手足へと廻る。
短く響いた光刃の音。
ゆっくりと目を開ける。そこには恐怖に慄く少年が倒れていた。
「なんだよ、もう戻ってきたのかよ、雑魚が」
一真は言った。まるで別の誰かが口を借りて喋っているかのような感覚。だが、同時に自分が喋っているのだという感覚もある。酷く矛盾した、だがどちらも本当の自分なのだ。
「あぁ、そうさ。悪いな。お前も俺も一緒だ」
「ごめんだね。そういうことなら眠るぜ、俺は」
自暴自棄に吐き捨てて、彼は眠りにつく。そしてようやく、体全体に感覚が回った。ゆっくりと起き上がり、一真は床から破敵之剣を抜いた。
「ただいま、天」
「俺よりもまず先に言うべき相手がいるだろ」
反発的な言葉は天なりの気遣いだったのだろう。一真はようやく彼女を見た。月は既に泣いていた。ボロボロと涙を零し、そして。
「一真のバカ!!」
思いっきり抱きついた。床に押し倒してしまうくらい強く。
「痛!! おま、もっと加減しろってか、状況を考えろってか……」
隣では、茫然自失とした影夜が倒れていた。
「うるさい! 一真のバカ!!」
再びどやされて、一真は黙った。そう彼女の言うとおり、自分はバカだった。
「もう勝手にどこかに行こうとしないで……」
ボロボロになったシャツの胸に、月の顔が蹲る。その淑やかな黒髪を優しく撫でながら、一真は内に閉じ込められた相棒に、感謝しそして謝る。
――俺は強くなる。だから、それまで待っていてくれ
月の体越しに見える窓の向こう。夜の帳、灰色の雲の合間に星がいくつも輝いていた。――夜が明けるのはまだ少し先の事。




