二十一
影が光に呑まれ、消滅する。そのまま光の風は、影の大樹をも吹き飛ばすかに見えたが、大樹は風を受け止めていた。光と影が鬩ぎ合い、甲高い歌声と悲鳴の合唱が空間を伝って、凄まじい振動を引き起こす。
「――打ち破る……!」
一真は、光と影がぶつかり合うその中心に向かって跳んだ。気を足に集中させての大跳躍。縮地とは言い過ぎであろうが、常人にはまず真似出来ない。勢いのまま、一真は金色の刃を突き立てた。ぐぐっと今度は刃が少しずつだではあるが、中へとめり込んでいく。
――このまま行けば……!
だが、剣を影の中に沈めれば沈める程、刃を伝って何か得体の知れない感触が伝わってくる。例えば、それは濁った海の中に手を突っ込んだ時と似ている。自分の体を穢されるような不快さを無視して、一真はより一層霊力を高める。
ボンっと内側から破裂し、影の大樹が吹き飛ぶ。元となる母体を失って枝が、刃のような葉が地面へと落ちる。ぐちゃっとまるで血肉を投げつけたかのような音が響き、床に溶け込んでいく。
その様子を影夜は、ただじっと見ていた。何の反応も示さないので、こちらとしては相手に余力があるのかどうかすら、分からない。だが、勿論これで相手が降参してくるだろうと思うほど、一真も楽観的ではない。
「君達は連戦で疲労困憊だ。にも拘わらず、私の『影呼ばい』『曙光喰らい』の力を凌いだ。さすがと言える」
彼の表情は読めないが、敗北者が勝者を称賛するようなものでないことは分かる。善戦した対戦相手を労わるかのようでいて、その言葉の根底に潜む侮蔑が見え隠れし、影夜の怨嗟染みた内側が見てとれる。
――なんだ、感情の無い奴だとばかり思っていたが
違うらしい。ただし、これは一真の直観に過ぎない。相手が単に自分達を見下しているだけかもしれない。
月の実力は現陰陽寮の中でも突出しているという話は、何度か聞かされてきた。その実力を妬んで……いやこれでも、やはり相手に感情があることになる。
そもそも、何故影夜は表情を出さないのか。感情を剥き出しにすれば、勝てる戦いも勝てなくなるからか? 単純に性格の問題か? どれも違う気がした。彩弓の名を出した時、彩弓と影夜の関係を一真が推測した時、確かに影夜の仮面は「崩れた」表情を変えたとかいう次元ではない。見えない仮面を今もあの男は被っている。
「影を地下から呼び、天より挿す光をも喰らうってこと?」
月は下段に構えた。その表情はいつも通りの無表情。刃の光が仄かに彼女の頬を伝う汗を照らし出す。厄介だとは思っているらしい。月には分かったらしい。あの影の性質を。
――影を地下から……あの亡霊が放つ邪気か? 光ってのはつまり……
遅まきながら一真も結論に至る。月の太刀は邪気を浄化して、自分の霊気とする。が、この男が使う影の術はその逆なのだろう。
――光を喰らって影とするのか
月の太刀の力と拮抗したのもそれが原因だろう。同じ力を持つ者同士でぶつかった為。先程の一真が相手の霊術を崩した戦法は間違いではなかった。連携すれば勝てる。その思考を読んだのか、影夜は笑った……気がする。それは、目の錯覚かと思うほどの一瞬だった。
「二人でならば倒せる。だったら、二人で戦えないようにすれば良い」
床から最初に一真を襲った人型の影が沼から這い上がるように生まれ、或いは天井から重力のままに落ち生々しい音を立てる。人型が前線に立ち、一方で影夜の周りには円を描くようにして四本、影の剣が飛び出した。
真っ先に飛び掛かってきた一体を、月は袈裟斬りで一刀……しきれずに腕で防がれる。『曙光喰らい』が働いているらしい。影がぱっくりと口を開き、月の顔を呑み込もうとする。月は人型の影の腹を蹴り、その攻撃を飛びのいて躱す。床に足が付いた途端、月は再び前に脚を蹴りだす。月影の光が一瞬揺らめいたと一真が思った時には、その光刃は影の胴を一閃。上半身が部屋の隅まで飛び、下半身が遅れて床に突っ伏す。
「霊術を変更したか」
影夜が短く呟く。月の太刀からは仄かに白い煙が上がっていた。
「あなたの邪気を喰らうのは難しいと判断したから。だから、純粋に私の霊気だけで切り裂く」
「こちらとしては大助かりだ。で、陰陽少女の底というのは、どこまで深いものなのかな?」
沙夜との戦いで得たのは、邪気を喰らう術だ。『清風明月』と月は呼んでいる。今、彼女はその技を使わずに、純粋に刃の攻撃力をのみ高めている。物の怪相手では便利だった『清風明月』だが、今ここでは役に立たないからなのだが、それでも相手の『曙光喰らい』を止めたわけでもない。ただ喰らわれるよりも先に、敵を倒しただけに過ぎない。先程一真が感じた不快感を月も感じているのだろうか。
「地獄よりも深いとしか、言いようがない、かな」
月の紫水を溜めこんだかのような瞳が微かに揺れる。彼女の言葉が含む意味を一真は知っている。ここにはいない人と物の怪の間にいる少女の事が、頭を過る。
「地獄を語るか」
軽蔑と共に切り捨てすぐにでも襲い来るかと思いきや、フッと殺気が途絶えた。亡霊達のさざめきが嫌に耳につく沈黙。
その意図が読めず、と言うよりも相手が余りにも無防備に身体を晒している為に、逆に攻撃の機会を逸してしまう。下手な一手を打たれて戸惑う将棋の指し手のように。
「お前の家は、代々物の怪の討滅を生業としてきた。いや、生業とせざるを得ない呪いを受けていたのだったな」
唐突に語られ、一真はますます怪訝な表情になる。今斬りに掛かれば勝てるぞと、心の奥底で何者かが囁くのを、必死に押し返す。月はと言うと、清楚な顔に微かな憂いを浮かべていた。
「どんな気分だ。陰陽寮に使い潰しにされる気分は」
唐突に怒りが沸点を超える。飛んできた金色の刃に、影夜のすぐ手前にいた人型の影が頭を吹き飛ばされる。着地すると同時に逆手に持ち替え、背後の影を貫く。撥ね上げるように順手に持ち替えて影夜を貫く――よりも前に影の刃が防ぐ。
「血の気が多すぎるようだな、君は」
「まるで、年寄みたいな言い草だな、血の気が足りないんじゃねーか?」
凄みのある笑みで一真は影ごと術者を押し切ろうとする。が、その前に横合いから別の刃に斬りかかられて、一真はやむなく退がる。が、周りは人の形をした影に囲まれていた。熱が冷め、一真は自分の軽挙な突出を後悔した。
「人の話は黙って聞けと教わらなかったか、いや……今すぐに黙らせてやろう」
「殺して黙らそうとするな!」
一真はいっそ笑い出したくなりそうな程のツッコミを入れたが、敵も非情だ。取り囲む影が指示に従って動き、四方から腕を伸ばして突っ込んでくる。殆ど捨て身、たとえ一体、二体と斬り捨てられても、他の影が一真を掴む。掴まれたら最後、どうなるか等、考えたくもない。
「躱せ!!」
手元で天が怒鳴る。「無茶言うな!」と返したいところだが、一真は突然失神したように後ろへと倒れ込んだ。影と影の合間をすり抜け、左の掌を床につく。瞬間、手首と背に耐えがたい負荷が掛かる。今にも悲鳴を上げて折れそうになるのを、踏みとどまる。身固め〈内丹〉を使い、身体の内部を強化し、衝撃を受け止めきる。くるっと後ろ宙返りを打ち、同時に影の脚を斬る。
「一真っ!!」
後を追って、影の集団に今まさに突っ込むところだったらしい月とぶつかる。怒り心頭の彼女の顔を見て、一真は気まずそうに視線を逸らした。まただ。また、怒りのままに動いてしまった。
進歩のない自分を罵りつつ、一真はふと、眼前に影の刃が迫っているのに気づいて、月を突き飛ばす――つもりが、逆に月に押しのけられる。
護身之太刀黒陰月影が、刃を受け止めた。すかさず、一真が破敵之剣白陽天ノ光を振るい、影の刃の中程から断つ。闇が鬻がれ無へと帰していく。
「キリがないな」
生真面目な声は月影からのものだ。目の前では、欠けた防御の陣に新たな影の刃が補充されていた。一真が倒した人型が黒ずんだ床から這い出てくる。
突っ込む前と全く変わらない陣形に一真は歯噛みする。せめて月と連携を取っていれば良かった。これではこちらが消耗しただけだ。身固めの術を使った反動からか、貧血にも似た気怠さを感じる。傷を治した程ではないが、余裕は無い。
「全くもって分が悪いとしか言いようがねぇな。相手は無尽蔵に呼び出せる」
籠城戦において最も重要なのは、鉄壁の守りでも相手をまとめて排除できる大火力でもない。どれだけ長く戦えるか、持久力こそが最大の守りとなる。相手が攻める手だてを失い、地にへばり付くまで戦えるだけの備蓄があるかどうかこそが、勝者と敗者の境目となる。
影夜には『備蓄』がある。今も地下で怨嗟を撒き散らすあの亡霊達の邪気がそれだ。その限界が一体どこまであるのかは、一真には分からない。もしかしたら、彼が無表情を保つのは相手に自軍の『備蓄』を悟らせない為なのかもしれないとすら思う。
「君の家系は呪われていると言う者すらいるな」
今しがたの戦いが目に入っていなかったかのように、影夜は話の続きを始めた。
「だが、私にしてみれば失笑物だ。君は少なくとも、陰陽寮の庇護下にある。いずれ使い潰されるのだとしても、だな」
「何の話だ、一体」
影夜は失笑すらしなかった。だが、一真には彼がその先に何を言わんとしているのか想像出来た。これは沙夜が正体を明かした時の感覚と似ている。時を何倍にも引き伸ばしたような、凍りつくような感覚。
「我が祖先、中原常社が禁忌を犯し、栃煌の外れにまで追放されたのは知っているな」
「あぁ……。沙夜を蘇らせようとしたんだっけか?」
彼女の名を叫ぶ常社の声は、今もなお脳裏に焼き付いている。
「そして、私はその子孫だ。ここで、ある疑問が浮かばないか?」
「常社の家族はどうなったのか、か?」
例えば彼に妻が、子どもが、或いは親兄弟がいたとして。果たして彼らはどうなったのだろう。罪を犯した者の家族に罪が無いとするのは、現代の人間の感覚だ。家その物を取り潰されてしまう事や、ばらばらの場所に島流しにされてしまう事等、当時だったら幾らでもあっただろう。だが、常社が受けた罰は人としてのそれではない。立てた社の中に封じ込められる。物の怪がそうされるのであれば、まだ分かる。だが、彼は人間だ。その成れの果て、亡霊を見て、むしろ一真は一層強くそう思う。
一人の少女の為にもがき苦しむ気持ちを影夜は分かっているのだろうか。
「沙夜の、陰陽少女が行った事は護国の為の“尊い”犠牲だった。それを蘇らせようとするのは、すなわち、国への叛逆。彼とその家族は『まつろわぬ一家』の呪いを受けた」
闇の色に染まった腕を持ち上げ、影夜は自身の顔に触れる。闇はあっさりと腕から掌、指の先を伝り、顔を染め上げた。顔の輪郭を沿って、彼自身を影の色へ染め上げる。
「『まつろわぬ一家』に対する迫害はここ栃煌に逃げ込んだ後も、呪いはその後何代にも渡って、何百年と続いた。呪いと誹りは一家の者を不幸に陥れたが、同時に力も与えた。神官ども、陰陽師どもが『邪気』と呼ぶこの力」
目を爛々と光らせ、頭蓋骨を直接墨で塗り固めたかのように、引き裂けるような笑みを湛えていた。闇を全身に着込んだ影夜が手を振るう。亡者がぱっかりと口を開く。
「この地に乗り込んだのが、過ちだ。この地に限って言えば、私は陰陽師百人にも匹敵するだけの霊力を持つ――さぁ、聞け。まつろわぬ民の歌を、贄と捧げられた者共の悲劇を」
カタカタと震え、その喉から絞り出されるように出たのは歌だった。空間その物を震わせ悍ましい歌が響く。怨嗟を奏で、苦楚を弾じる。その歌に意味は無かった。
軛に掛かったかのように、或いは毒で感覚を奪われたかのように、身体の動きが鈍る。歌を止めさせようと斬り掛かるが、影は歌い続けつつも、斬撃を躱し逆に腕で掴み掛かられる。その攻撃を、必死にいなしつつ、一真は奥で守られている影夜を見る。笑った顔……というよりも骨格が剥き出しになっているだけのようだ。その彼の視線の先には、掲げられた手の先には月がいた。「寄越せ」というような仕草に、月の顔が苦悶に歪む。
「やめろっ!! 影夜!!」
押し寄せる焦燥に手元が狂う。今こそ、力を発揮すべきところだというのに、内なる幽暗は開かない。影の頭を割り、飛び狂う刃を受け止める。だが、歌は止まない。
「月、こちらに来い」影夜が囁き、
「行くな、月!!」一真が叫ぶ。
一瞬、白銀の光が月の身体を包んだ。あの日、博人が月の神を卸した時と同じ光。あの時と同じ事が起こるのかと、一瞬思考が凍りつく。が別の光がそれを遮る。刀印を結んだ左手の前にに銀色の円が浮かび、右手の太刀がそこに浮かんだ紋様を突いた。
「妖の呼び声を、魔の誘いを、病の熱を、撥ね返さん、鏡花水月――急々如律令」
歌が聞こえる。いくつもの澄んだ少女の声を重ね合せた高らかな一節。一人一人の声が波のように寄せては離れ、離れては寄せ合い、旋律が優しく輪郭を作る。闇に向かって月は歌う。
立ち尽くしたまま、一真はその歌に聞き入っていた。月の肌に直接触れているかのような温かさが胸を満たした。彼女が抱く希望と力強い決意――そして、僅かながらの迷いもある。誰かを想うが故の迷い。
影が呻きを発し、唐突に歌が止んだ。次々に膝をつき、頭を抱え、喉の奥を引っ掻き回したかのような声で苦痛を訴える。その中心をふらついた足取りで、影夜が無言で近づいてくる。足元に転がる影を蹴飛ばし、道をこじ開けながら。無表情は保たれていた。
「貴様、僕の術に何をした!!」
ただ、怒りに滾る瞳を除いて。
一人称が唐突に変わった事に驚きつつ一真は、影夜の黒く染まった右腕が肥大化しているのに気が付いた。同時に周りに展開していた刃が消えている事にも。
今しがた彼が蹴飛ばし転がした人型の影に向かってそれは伸び、絡み付く。影が呑み込まれて腕が一回り大きくなる。それが、腕と同化してしまった巨大な刃であることに遅れて気が付く。それを引き摺るようにして影夜は歩き……が、数歩歩いたところで、膝をついた。
「ただの呪詛返し――そうそう同じ手に引っ掛かるつもりは、ない」
返す月もまた、動悸が激しくなっていた。瞳は険しく、肩で呼吸している。太刀を握る手も力んでいる。――鏡花水月、それが月が取った対策だった。その術の効果については一真も聞いている。
「ふざけるな!! ただの呪詛返し如きで、術の性質を塗り替える等出来る筈が無い!!」
流石と褒めるべきか、影夜は術の効果を見切っていた。そう、月が行ったのはただの呪詛返しでは――と本人が言っていたので、一真としては信じるしかない――なかった。
呪詛返しの基本は、呪詛そのものを跳ね返すことだ。陰陽師にとっては必須であると同時に高度な技でもあるという。
まず第一に、相手がどんな術、呪詛を放ったかを見極める必要があるのだが、これが一番の基礎であり難関だ。余程の反射神経があるか、もしくは最初から相手が特定の術を使ってくると踏んでいなければまず不可能であるという。次に自分の霊力で跳ね返せるかどうか、有体に言えば相手に匹敵するだけの実力があるかどうかが鍵なのだという。
影夜の先程の言葉が嘘でないとすれば、陰陽師百人を前にしてなお、月は純粋な霊力では劣らないのかもしれない。無論、百人を相手にするのと百人分の力を込められた総量とでは、意味が大分変ってくるのではあるが。
それらの基本を踏まえつつ、鏡花水月は、その更に上を行くのだという。一真は先ほどの光景を思い出し、月の説明と照らし合わせ、一人納得していた。
「私が放ったのは、魂呼ばいだった!! だが、跳ね返ってきたのは」
「引導渡し。彼らは亡霊の邪気で出来ている。だから、自分のいるべき居場所を教えてあげた」
影は蹲り、あるいは、のた打ち回り、自分がどこにいるのか、どうすれば立てるのかも分からない様子だった。自分が何者なのかを知った瞬間、彼らは自分の足ですら立てなくなっていた。
恐怖と彼らを憐れむ気持ちが混ざり合い、一真の胸中を渦巻く。その苦しみから今すぐに解放してやりたかった。たとえ、それが複数の亡霊の邪気から成る怪物なのだとしても。
「彼らを、もう還してあげて」
月もまた苦しむ物の怪を見て、心を痛めているようだった。常社と同じだ。この物の怪達もまた、眠りから覚まされて呼び出され、自分が何の為に動いてたのかすら忘れていたのだ。だが、影夜は彼らの帰還を許さなかった。
「ふざけるんじゃない!! 僕は、僕の一族は貴様らのせいで貶められた!! ここにいる亡霊共もだ。厄災を鎮める為の道具として使われ朽ち果てた者達。怒りを鎮めるには、貴様らを一人残らず地獄に落とすしかない。それこそが、彼らにとっての鎮魂歌となる!!」
ぎらぎらと光る瞳、黒く躍動する影の体。人の面影も無く、彼の姿は周りで転がる影となんら、変わりが無かった。発する言葉がかろうじて人間としての体裁を保っている。何故、こうなるまで誰も彼を救えなかったのか。
「お前たちの一族は……何代にもわたって、こんな風に仇を恨み続けたのか?」
彼は「貴様ら」と言った。それは陰陽寮全員に対する言葉なのだろうか。一真の疑問に、影夜は呻きとも嘲笑ともつかないものを吐いた。
「中原家は……幾度となく分裂した。およそ千年の時を経て、他の家と交わるうちに、『呪い』も分散されたという。だが――今でもなお続いている。時たま現れる強い霊気を持つ者には、特に強い呪いが発するという、そうこの僕みたいにねぇえ!!」
ゴッと横なぎに影の腕が振るわれた。上半身を限界まで逸らし、背骨を見固め〈内丹〉で支えつつ、躱す。逸らした勢いのまま、上半身を戻し一真は剣を構えた。
「時たまって事は、ひょっとしてお前最初から知っていたわけじゃないのか? 一族に『呪い』が掛かっているって事を!!」
「あぁ、そうだねぇえ! 幼い頃は身内の不幸も、夜に見る悪夢も、その正体が分からず怯えたものさ!! だが、あの方が変えてくださった!! すべてを教えてくれ、呪いを力とする方法まで授けてくださった!! 中原家が建てたこのお屋敷まで与えてくれた!!」
人が変わったように饒舌になる影夜は、自分でも何を言っているのか分かっていないのかもしれない。唯一、生気を感じさせる瞳は焦点が合っていない。ここに来て、一真は何故彼が感情を押し殺していたのか、考えた。
――もしかして、力の制御が出来ないのか?
影夜の右腕がまるで本体とは別の生き物のように動き、傍に倒れていた影を呑み込んでいく。
膨れ上がるその怪物と狂ったように千鳥足で歩いてくる影夜を、物恐ろしく思いつつ見比べる。
「ハハハ!! 陰陽少女よ、思った以上の力を見せてくれたねぇ!! だけどけど、こうなってしまっては止まらんよ!! 亡霊ベースの物の怪を従えるのも楽じゃなくてねぇええ!! だから、だからから、こここうして、感情を消しししし、ていたんだよぉおお!! やつらららは、邪気を糧としているる、感情を表にしたががが、さい、ご」
唐突に電源の切れた機械のように、或いは糸の切れた人形のように影夜が床に突っ伏した。
あまりに一瞬の出来事で、一真は呆然と影夜を眺めることしかできなかった。見ると、月は青ざめた顔で影夜の体を凝視していた。彼女を抱きしめ慰めてやりたかった。出来れば、ここでの出来事全てを忘却の彼方に追いやって……だが、それは出来ない。
何故なら二人とも分かっていた。これで終わるわけではないことを。別の見方をすればここから始まると言っても過言ではない。
一瞬にして訪れた沈黙は、来たときと同じように一瞬で拭い去られる。ゆらりと、影夜の体が重力に逆らうようにして立ち上がる。
「物の怪と同化してしまう……」
ゆらりと上がったその姿は異様だった。人間から皮膚を丸ごと剥いでしまったら、こんな姿になるのだろうかと思う。ただ、その血管は黒ずんだ紫色、全身の筋肉は黒、灰色の薄い膜が覆っていた。
「っつ……待て、影夜!! お前は恨む相手を履き違えている!!」
通じる筈がないと思って掛けた言葉は、やはり通じない。肥大した右腕が杭打ちのように振り下ろされ、一真は危うくその攻撃を避ける。周囲には、あの右腕に吸収されずに済んだ影が立ち上がっていた。
――一度、物の怪と同化して……それで制御を取り戻した?
人間の身では操るのにも手に余るそれも、同じ物の怪の身であれば容易いのだろうか。単なる想像だが、それが当たっているか外れているかは、この状況ではさして助けにはならないだろう。
「沖一真……今なら感じられるよ、君が抱えるものも」
影夜に呼びかけられて、一真は戸惑う。このタイミングで声をかけられたその意味が分からない。先程、術を弾き返した月に向かって、話しかけるのならばともかく。同時に言い知れないが、妙に親しみの湧く感覚が蘇る。内に閉じ込めたものが、扉を突き破ろうと暴れている。
「何の話だ。一体、何を言っているんだ、お前は」
影夜はじっと一真を見つめ、それから、
「内なる幽暗。あの方はそう言っていた。地獄への扉を身の内に宿していると。お前もそうなんだろう?」
告げられるや否や、一真は斬り掛かった。上手から振り下ろした刃が、影夜の巨大な右腕で受け止められる。煙のように邪気を上げるその合間から、異形のような影夜の顔が見えた。
「叔父の事を知っているのか」
「知っているも何も、僕の師だったんだ」
それを、と影夜が憎しみを込めて吐き捨てる。理不尽な怒りだと、一真は思ったが相手がそれを理解出来るとは思わなかった。
――倒すしかない
ぱっと後ろへと跳ぶ。左右から影が腕を伸ばす。倒れるように上半身を逸らし、後転。すれ違い様に影の脚を斬り捨てる。立ち上がると同時に、背後に気配を感じる。破敵之剣を逆手に持ち替え振り向きもせず、背中越しに突き刺す……が、影は大きな口を開いて肩口へとかぶり付こうとする。舞うように脚を動かし、その場で回転。影は口を開いたまま、上半身を床へと突っ込ませた。
自分でも驚く程、俊敏な動きだった。が、気を抜いたその瞬間、死角から影が飛び掛かってくる。気付いた時には遅い。目を瞠る一真の目の前で、影の胴体をくの字に曲げ、護身之太刀に胴体を切り裂かれる。くるくるとブーメランのように回りながら太刀は空を舞って、落ちる。空へと手を伸ばした月の右手に。
そこで一真は気が付いた。『清風明月』が発動している。斬られた影の邪気が霊気へと還元されて、太刀の刃に吸い込まれる。
いや、影夜の『曙光喰らい』の方が発動していないのか。月が白銀に輝く太刀を振るう。刃から放たれた光が風となり、周りにいた影へと叩きつけられた。悍ましい悲鳴を上げながら。影が光の風に焼き尽くされる。
光が止んだ後に残ったのは、一真と月、そして影夜だけだった。
「ふん、僕の力が無ければこの様か」
影夜は巨大な右腕が光を喰らったおかげで、助かっていた。見た目にも喰ったのだろうとわかる。もはやそれを腕と呼んでいいのかも分からない。肩口から生えた刃状の怪物。刃は中ほどから裂け、割れ目にはびっしりと小さな突起が生えていた。それが無数の虫のように蠢いている。
「まぁ、いいさ。決着をつけようじゃないか。陰陽寮の切り札とまつろわぬ民の末裔、どちらが生き残るか」
影夜が跳ぶ。宙で身体を捻り、抉り出すようにして床に刃を叩きつける。斬撃というよりは、押しつぶし。紙一重のところで一真は避けた。月も同様に避けて見せたが、狩衣の袖が引き裂かれる。防護用の結界が込まれた狩衣を切り裂くとは、どうやら見かけ倒しではないらしい。
月はじっと、無残な姿になった袖を眺め、それを中ほどから引き裂いた。二の腕どころか、肩や脇が露出するのも気にせず、月は袖を床へと捨てる。
「大丈夫か、月?」
「うん」
それ以上の言葉は必要無かった。二人は息の合った動きで左右から影夜に向かって飛び掛かる。床に根を生やしたように、刃を突き刺したままの態勢で影夜は動かなかった。だが、刃が届こうというその瞬間。彼は動いた。宙に体は舞い、巨大な刃が破敵之剣と護身之太刀を弾き飛ばす。一真が無様に背中から転ぶ横で、月は受け身を取りつつ転がった。その彼女に向けて、影の刃がぱっくりと咢を開き、喰らいつこうとする。転がりながら、月は躱す。
口の中に生えた動く牙がすぐ横に振り下ろされてなお、月は平常心を失わない。パッと飛び上がるように起き、その刃の横っ腹に向けて水平に太刀を振るう。が、刃は既に、頭上高く振り上げられていた。サッと顔を上げる月の眼前に、牙が上下から迫る。その美しい顔が頭蓋ごと噛み砕かれる直前、月は護身之太刀を突き出した。それは狙い違わず、影の咥内へと突き刺さる。
光刃がつっかえて、影の刃は口を開けたまま、身を捩った。月は足をぐっと沈ませ、太刀を振るった。ギギギっと口の中に白いチョークで曲線を引くように、傷が広がる。
背中の痛みを押して、一真は立ち上がり、金色の刃を振り上げて駆けた。眼球だけ動かし、影夜がこちらを見据える。護身之太刀を突き刺したまま、影の刃は強引に口を閉ざそうとしていた。ギリギリと嫌な音を立て、唐突にバクンっと口が閉じる。刃を折られたわけではなかった。月の手元で懐剣が輝いている。ホッとする間もなく、影夜は刃をそのまま、横に回転させる。
考える間もなかった。前転で刃を躱し、勢いのまま立ち上がり、影夜に斬り掛かる。が、捨て身に近い攻撃にも動じず、影夜は咄嗟に後ろへと下がった。刃が空振りし、立ち上がる一真の横手から刃が返ってくる。それを破敵の剣で受け止めた。吹き飛ばされそうになるのを、足に霊気を込め腰を落として踏み止まる。刃越しに影夜と目が合う。
――こいつもまた、沙夜と同じ
世界に振り回され犠牲にさせられた人間。だが、同時に自分の復讐の為に犠牲を用いる人間でもあった。彼が一族から受け継いだ呪いは、他人を蝕みそして、恐らくは自分自身をも蝕んでいるのだろう。
――こいつが月に何をしたか思い出せ
一方で、体の底からそう叫ぶ声が頭に響く。これまでに無いほど激しい衝動が一真を衝き動かそうとする。破壊的な渇望と彼に対する慈悲の合間で揺れる一真に、影夜は忌々しげに目の端を歪めた。
「貴様は後で、とも思ったが。この場で解放してあげるよ」
ぞくりと背筋に戦慄が走る。が、当の影夜から感じられるのは殺気とも違う。どこか嗜虐的で、ある意味においては純粋。非人道を素で進むような、歪んだ純粋さがそこにはあった。
「最後に伝えておいてあげよう。僕はね、君みたいな正義感で動く奴が大嫌いなんだ」
瞬間、床全体に広がっていた闇が波打った。全身の毛が逆立ち、反射的に一真は飛び退った――つもりだった。実際には足を動かすことすら出来なかった。眼球一つ、指ひとつ動かない。
「一真!?」
天が驚愕と焦燥から声を上げるが、一真は答えられなかった。そもそも聞いてすらいなかった。危機を鋭敏に悟った月がこちらに向かって走ってくる。が、別方向から新たに生まれ、飛び掛かってきた人型の影に阻まれる。
――沙夜みたいに「わざと」逃がすつもりかよ? なぁ、それで本当に月を守れるのか?
心の中の声が一段と鮮明に聞こえる。いや、違う。眼下に溜まる闇、そこに薄らと自分の顔が浮かんでいた。泥で塗り固めたかのような自分の顔が口を開き、話しかけてくる。
――お前が守らないなら、俺がやる。お前なんざに任せていられねぇ
轟っと、影の水面が内側に沈み、そして飛び出したのは腕だった。鉤爪のように指を折り曲げた右腕と左腕の二つ、それが一真の胸へと吸い込まれる。
十の爪が肌を抉り、十の指が肉の中を這い、そして二つの手の先がその奥にあるものに触れた。
喉の奥から叫び声を出した。一真自身の意思ではない。彼の体その物が何かを求めるように……。
そうして、雄叫びと共に霊魂が体の外へと飛ばされる。それも刹那の事。今度は吸い込まれる。
――何処に?
一真の胸の辺り。そこに細い隙間が開いていた。影の手がその隙間を広げようと左右に強引に引っ張っている。
闇を矯めた深淵が、あらゆる物を取り込もうと、その貪欲な口を開く。一真はその中へと入った。飛び込んだのか、落ちたのか、上下左右の感覚すらないままに、進む。ふと、前から何者かが、近づいてくる。それが歩いてきているのか漂ってきているのかは分からないが、ただ、ゆっくりとした速度であることは分かった。
ゆっくりと近づき、ゆっくりとすれ違う。
すれ違い――入れ替わり、光の中へと出ていったその時、一真は初めて振り返った。
「待て!! お前は……!?」
――……!!……!?
叫んだつもりが言葉にならない。光が閉ざされる。そして、一真は闇へと取り残される。
†††
一真が倒れた。不意に広がった視界、見開かれた瞳の中に敗北した少年の姿が映し出される。糸の切れた人形のように彼は動かない。
「あ……あ、」
一真が揺れる否、瞳が、箍が外れたかのように揺れている。体の底から込み上げてくる物を抑えきれず、月は太刀を落とした。刃が光を失い、コツンと床に刺さる。狙い澄ましたかのように、影が左右から飛び掛かってくる。彼らが唐突に月との戦いを止めて、左右に離れたのもこの為だったのだという事は、今の月には考えることすら出来なかった。
「いやぁあああああ――!!」
叫びが迸り、光が彼女を中心として放たれる。飛び掛かってきた影は、飛んできた時と同じ速さで後方へと吹き飛び、手足を光にもがれながら失せる。影の結界に罅が入り、外へと光の筋が伸びる。が、それも数秒。彼女が叫び終える頃にはすっかり元の暗闇に戻っていた。
「やれやれ、大した物だ。地獄を身の内に宿している彼もそうだが、すっかり邪気の巣窟と化してしまっているここの結界を破る君も君だ」
一真の体を踏み越え、影夜が近づいてくる。ゆらりとした足取りはおぼつかない。先程の「叫び」は彼自身にも相当な効果があったに違いない。だが、同時に月自身も動けなかった。
霊気をすっかり押し出してしまったかのようで、指一つ動かせない。代わりに悲嘆が毒のように彼女の心を満たしていた。思考することを他の何かを行動することを許さない。
「“彼氏”も大変だね。自分の持つ闇の中に魂を吸い込まれるなんて……さて、僕の目的は達成された。思う存分に戦おうと言いたいところだけど、君はそんな様だ。それじゃ戦えないだろうね」
その瞳は既に『無』を保つ事を放棄していた。自身の持つ呪いその諸悪の根源を見つけた影夜は歓喜している。目の前の敵はすっかり壊れてしまった。そのまま刃で持って喰らうか、或いはと考えるように影夜の目が嗜虐的に歪む。
「僕としては出来る限り無様に、転がって欲しい」
月の瞳は一真しか見ていない。目の前の敵が自分をどんな目に遭わせるのか等、考えてもいない。不思議と月影は何も言わない。もはや、これまでと諦めてしまったのか。
「どこから貰おうか。君の事だ。手足をもいだ所で平然としていそうだよね。それじゃあー」
咢がぐわりと開く。口から邪気が涎のように垂れ、今獲物へと喰らいつく。
「まずは腕から頂こうか」
宣告通り、左腕が引き裂かれる。
「あ……?」
引き裂かれた本人はポカンと、今更のように声を漏らした。或いはまだ腕を失くした事にすら気が付いていないのか。
「だ、れ……?」
血が雨のように降り、月の、雪のような顔に朱の花を咲かす。宙を舞った左腕を空いた腕で掴み、少年は凶悪に笑んだ。
「俺は俺だよ。沖一真だ。お前が大好きな」
取り落とした左腕が、生々しい音を立てて床を転がる。愛しむように一真と名乗るその少年は、月を見た。
――違う。これは誰?
一真を失った時とはまた別の言い知れない恐怖に、月は震えた。その瞳もその口から出る言葉も、どれも彼女を安心はさせてくれない。だが、同時にどこか懐かしい感覚でもある。カタカタと震える彼女の様子に気が付いてか、“一真”はチッと舌打ちする。
「オイオイ、助けてやってこれか。ま、“昔”から俺の事は怖がっていたもんなぁ? 再会した“あの時”は完全に俺のせいかもしれないが」
その言葉に、月はハッと息を呑んだ。“再会したあの時”に心当たりがあった。
――剣道の試合のあの時?
再会したあの夜。栃煌神社で、一真と月は手合せした。一真自身に彼女と共にいられるだけの力があるかを試した――というよりも諦めさせようとしたのだが――あの時?
「あぁ、思い出したか。たっくよ、いつだって俺は嫌われ役……てのは変だな。俺は俺だ」
間違いない。一真の竹刀が月の面を貫いたあの時だ。確かに、あの時、月は一真を「怖い」と思った。まるで別人になったかのような、あの野性的な荒々しさ。あの時は一瞬だったが、今の彼は……。
「あ、え?……フハハハ、おいおいおいおい、なんだなんだこれはぁあああ!!」
びくっと月は振り向いた。見ると左腕を失った影夜が笑っていた。滴り落ちるのは紛れもなく彼の血だ。それとあのぶよぶよとした物は――。
「う……」吐きそうになるのを月はどうにか堪えた。普段であれば、平然としていられただろうが、今はそれだけ弱っているのだろうか。
「ハン、なんだ反応が遅すぎんぞ。てめぇ、そんだけ時間ありゃぁ、何度殺せると思う?」
破敵之剣で肩を軽く叩きながら、一真が甚振るようにねめつける。
――やっぱり、違う
こんな怪物は知らないと、月は心の中で拒絶する。だが。だとすれば、破敵之剣は誰に従っているのだろう?
「あんまし、調子に乗ってると、またやられるぜ? “一真”」
天から信じられない声が漏れた。その声は使い手か使い手だったものにしか届かない。一真にはその声が届いた。届いて、不機嫌な顔になる。
「久々に出れたんだ。浮ついてしまうんだよ、どーしても」
「こいつ、倒したら元の場所になおれ。訳もわからず放り込まれた“お前”が可哀そうでしょうがねぇ」
「うっせぇ。訳も分からずなら、俺も“経験してんだよ”」
何の話をしているのだろう。月は意味が分からず首を傾げた。そんな彼女を叱咤するように月影が激を飛ばした。
「いつまでそうしているつもりだ、月!!」
肩を震わせ、月は惑う。京にいた頃であれば、これ程震えることは無かった。母が影女に取り込まれたその時でさえ、戦う事が出来たのに。あの時は、戦う事だけを頭に叩き込まれていた。味方が倒れようともその死屍を踏み越え、受けた悲愴は怒りの霊力へと変え、そうして戦ってきた。だが、今の月にはそうするだけの力が無かった。
――なんで? どうして?
「手に取れ! 戦え!! それがお前の使命だろうが!!」
月影の言葉に、半ば毒されるように月は柄を取る。床から抜き放つと同時に光刃が蘇る。
「月、こいつを屠るぞ」
「……わかった」
以前の一真ならば決して言わなかった言葉に、月は今すぐ泣き出したい気分になる。泣き叫び、彼の胸倉をつかんで問い質したい。だが、皮肉にも長年培った――或いは毒された――鍛錬でその感情を心の底に押し込む。もういっそ、二度と出てこないように。




