二十
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月明かりに照らされて、森林の影が揺らめく。夜は相変わらず静かで、時折聞こえる鳥や獣の声と風の音が、今もなおこの世界は動いているのだという事を知らせてくれる。この世界は未だ平穏だと。だが、永田未来は知っている。この現実が、一瞬にして覆るその時を。温かみのある色も音も匂いも無く、邪気の渦巻く闇と虚無と残酷な現実がある世界。人間が決して見ようとはしない、幻として切って捨てたモノの住む世界。
影夜邸は、栃煌市の外れの森林の奥深い所にある。その森林の入り口から少し離れた所に海馬が運転してきた車は停めてある。もしも、二時間して誰も帰って来なかったら、速やかに撤退し、栃煌神社に連絡。それが未来達というよりも、笹井が受けた命令だった。その彼は運転席に座り、窓からじっと影夜邸があるであろう方角を眺めていた。流石は大人と言うべきなのか、それとも肝が据わってきたのか、彼はその顔に緊張の色を浮かべつつも、じっと黙って待っていた。しかし、彩弓はそれ程、忍耐力が無い。後ろの席で未来と一緒に座っているのだが、隙を見ては逃げ出そうとする。
「やっぱり、見てくる!」
「あ、こら!!」
未来が止める間もなく、彩弓は飛び出した。が、その小さな肩を大人の手が止めた。
「これで五回目だよ、彩弓ちゃん。せめて十分以上は待てるようにしないと」
小さな脱走はこうして、儚くも終わる。勿論、笹井の手を振り切った所で、ここには海馬の残した護衛がいる。彩弓もそれを分かっている筈だが、この年の少年少女というのは、危険というものを知らない。あれだけの事があった後でも。
「真っ白な虎さん、皆は無事かなぁ」
彩弓は護衛の毛を撫でつつ、訊ねた。そこにいるのは巨大な白い虎だった。普通の虎がどれだけの大きさだったかは、覚えていないが今目の前にいるそれは、立ち上がると車を超える位大きい。力強いその体には筆で描かれたような黒い体毛が走っている。その「真っ白な虎さん」は、童女を黄色い瞳で見やり、矍鑠と笑う。
「虎さんはよして貰えぬか。私には白虎という名がある」
威厳に満ちたその声は、しかし威圧するでもなく深く落ち着いている。同じ式神でも、日向が放つ雰囲気とはまるで違う。ふと未来の頭には祖父の顔が思い浮かんだ。
「私の今の相棒は、今まで会った中でも狡猾な方だ。上手くやるだろう」
明確な答えにはなっていないが、彩弓はそれを聞いて安堵の笑みを漏らした。その言葉は聞けばどうとでも解釈出来そうなものだったが、未来は何も言わなかった。
これ程、苛々とするのは、確かな事が何一つとしてないせいだ。白虎ですら、憶測でしか物を言えない。
一週間前のように、日向に頼んだように白虎に「連れて行って」と頼むわけにはいかない。ここにきて今更のように、自分が如何に非力なのかが分かり、心が痛む。あの少女のようであれば、とつい思ってしまう。彼女の前では決して言えないような事だが……。
「お若いの。何か思いつめておるな」
白虎の瞳に射止められ、未来は肩を強張らせた。この白虎は人の心を読めるのだろうか。彩弓は未来の顔をじっと見たが、何も言わない。未来はそっと車を出て、寝そべったままの白虎に歩み寄る。こうして、近づいて見るとその威容さは明白だった。
単なる猛獣は相手を寄せ付けない畏怖を発するだけだ。白虎には相手を受容しつつも、互いの立ち位置を理解させるだけの力がある。
「その、ただ待っているだけって辛くない?」
それを理解した上で、あっけからんとした口調で話しかけられるのは未来の徳かもしれない。変に臆する事も無く、だが無礼過ぎない程度のタメ口。
相手がその程度で態度を急変させる程、小さくはないと分かっての事だが、白虎はそれら全てを見抜いたように、「ほう……」と感心した。
「こう千年以上も生きているとな。時間の流れという物はあまり、気にならなくなる。それに、先程も言ったが私の使い手は狡猾なのだ。心配はいらぬ」これだけでは余りに素っ気ないと思ったのか、白虎は頭を上げて付け加えた。
「君の心配は、沖一真の事なのだろう?」
「えぇ、そうです」未来は反射的に答えた。答えて顔を赤らめた。思わず、視線が泳ぐ様子を白虎の柔和に細められた瞳が捉える。白虎が笑いを堪えるように前脚で口元を抑え、未来は顔から湯気が出るかと思った。
考えてみれば、最初に栃煌神社で宣言した時も、なんであそこまで大見得張れたのか。今更ながらだが、恥ずかしい。勿論、一真は友達だし大事な剣道部のメンバーでもあるが……。
「あれは、心配はないとも。影夜は彼の手には余るが、首尾良く行けば一撃で終わりに出来る」
あの作戦会議の中での事を言っているのだろう。一真が出した影夜を捕える為の一手。彼があんな大胆な作戦を提案したというのも、驚きだが、それ以上に海馬が真っ先にその作戦に賛成したというのが未来には信じられなかった。
――正面と地下道二つのルートのどちらにも、月を入れないってのはどうだ?
相手が最も警戒しているであろう敵を隠す。それが一真の提案した作戦だった。成程、確かにそうすれば、敵はこちらが何か策を仕込んでいると考えて、そちらに気を取られる事だろう。
――いつ、月は現れるのか。どこからどのようにして襲撃してくるのか相手は警戒するはずだ
それは相当のプレッシャーになる筈。だが、一真の仕込みはそれだけではない。
――俺と日向で奴に挑む。あいつの気が俺達に向いた所で、月が奇襲を掛ける
白虎の言う通り、全て上手く行けば影夜を楽に倒す事が出来るだろう。数と策略の勝利。一真があまり好みそうにない戦い方だ。だが、あえてそうしようとした理由は分かる。
月の為――
何故か、その事を考えると胸が痛んだ。それも、とても醜い痛み。身勝手な痛みだ。
――一真は決して、月のことを裏切らない。私よりも彼女の事の方が……。
そこまで考えて、未来は頭を振った。自分は一体どうしたいのだろう。自分でも良くはわからないが、ともかく今すぐに彼の傍に行きたい。行って助けになるのならば。
「成程、君の心配は合理的なものに依るのではないな? 感情、気持ち、情の問題だな」
白虎にそう断言され、未来はますます視線を下げた。間違ってはいない。だが、そう言われると自分が、ただ駄々を捏ねているかのようだ。そして、それも間違っていないことが未来にとっては腹立たしかった。握りしめ震える拳を白虎の瞳が射止める。
「ふむ、君は至って普通の少女だ。それが、こんな怪異に巻き込まれるとは、何の因果なのか……と考えてしまうな」
未来にとっては余り心地の良い話ではない。出来る事ならば耳を塞いでしまいたかったが、彼女は黙ってこの老獪な白虎の言葉に耳を傾ける。
「……普通の道を歩むというのは、一番厳しい道なのかもしれぬ。強者は、その優れた力でもって切り進む。弱者は、助けの手を伸ばす者を慕う事で導かれる。だが、『普通』の者はそのどちらも無い。何かを為すには必死に足掻く他無いのかもしれぬ」
「その、何が言いたいの?」
白虎は決して、未来を見下し蔑んでいるわけではないようだ。嘘を言っているのでなければ、この式神はもう千年以上も生きているのだ。そのうち何百年を人間と過ごしたのだろう? 自分と同じような悩みを持った人間は何人いたのか。彼らはどんな答えを出したのか。
「春日月は確かに、君とは違う。物の怪と戦うに当たって、これから先傍らには彼女を守る少年の姿があるだろう。だが、彼女の望みとはそれか? 戦いの時に自分の好きな人間が傍にいるのが、彼女の望みか?」
未来は答えられなかった。栃煌神社で、未来は「一真を戦いから引き離したい」と言った。その時の月の表情は忘れられるものではなかった。だからこそ、常社神社で二人きりになった時に思いきって尋ねたのだ。
――一真と初めて会った時の私は、寂しさを感じてた。
切なげに揺れる瞳が語るのは、それが単なる一時の感情ではないということ。
――そんな時に一真は『一緒に遊ぼう』って言ってくれた。
微笑みを讃えたその口からは、希望が満ち溢れていた。ひょっとしたらという。
――今でも憶えてる。
――あの娘はふつうの女の子になりたいんだ。きっと。あんな顔をされたら、一真じゃなくたって……。
「あいつが、なんで月を守ろうとするのか。それは分かるわ。誰だってそうしたくなるわよ……」
口に出してから、未来は驚いた。一真の事だけが心配なのではない。月の事も同じくらい心配なのだという事に。
「沖一真への想いと同時に、春日月への想いもあると。人の心というのは誠、難儀だ」
「本当にね……でも、私一真の事は――」
心配、不安、恐れ、それはどんな感情からくるのかと言えば。若い未来には一つの事しか浮かばなかった。だが、それを口にするのは――
「好きなんだよね、おねえちゃん」
「ふわっ!?」
にゅっと首から先を車の窓から出しながら、彩弓が笑顔で聞いた。このやり取りは栃煌神社でもした気がする。あの時は月に対して彩弓が言ったのだが。そして、そう直球で疑問でもなく殆ど確信したかのように言われると、困る。が、彩弓はむしろ不思議そうに瞳を泳がせて、追い打ちをかける。
「お互いに『好き』って思ってるのにね。なんで、どっちも言わないのかな? 月のお姉ちゃんもそうだけど」
「その、それは……」
上手く言えない。童女の言葉はまさしく、真実を言い当てているし、その疑問もご尤もだ。だが、現実は彩弓が思うほど単純ではないのだ。
――上手く言葉にできないけど。
白虎がふわっと欠伸を噛みしめた。呆れつつもこの老虎は、穏やかな助言を彩弓にした。
「人間とは厄介なものでな、彩弓。男と女は常に一対一ではないと、睦事も、おご!?」
それ以上言わせまいと、未来は顔を真っ赤にしてその口を両腕でもって抑え込みにかかる。
「え、むつ、何?」
「仲良くってことよ! そう、男の子と女の子はね、一対一! カップルでないと! うん!」
――全くもって、この虎なんて事を言いやがるのよ!
自分でも何言ってんだか分からないが、曖昧に笑って誤魔化す。幸い、彩弓は恋愛方面においては年相応――或いはそれ以上に幼い――の認識しか持っていないようで、何か言いたそうにむすっと頬を膨らませていた。
白虎は、まるでシャワーを嫌がる飼い犬のように、首を振り動かして未来の手から逃れた。その気になれば力づくで吹き飛ばす事も出来ただろうに、彼はただ不貞腐れたように、自分の前足の上に頭を垂れた。
「一つだけ助言をしておこうか、お若いの」
「……また、変な事言ったら、承知しないから」
その変な事が、この虎にはよく分からないらしく、首を捻られてしまう。どれだけ年を経ていようともそこらへんの感覚だけは、虎なのだろうかと未来は思う。
「沖一真への認識として、君はひとつ大きな勘違いをしている。私は、彼が月と共にあると契を結んだとは聞いているが……恋人としての契を結んだとは聞いていない。君はどうかな?」
聞かれて、未来は押し黙る。確かにそうなのかもしれない。だが、「共にある」という言葉はどうとでも取れてしまうわけで……。
――あぁ、もう! 私はどうしたらいいのよ!!
ガシガシと髪を荒々しく掻き乱し、未来は心中で叫んだ。夜風がそんな彼女の顔を撫でて通り過ぎる。その行先は誰も知らない。
†††
夜空の色に染まる太刀、その輪郭から月の朧な光が発している。張り付いた結界ごと壁を引き裂いたのか、床には障子のなれの果てが無残に散らばっていた。護身之太刀によってぽっかりと開いたその穴から光が挿し込み、風に晒されていた。
月明かりがまるで後光のように、少女の背後を照らす。黒髪が風に流され、影に沈んだ顔の中で瞳だけが薄らと輝いていた。彼女に対峙するように立つ男は逆だ。闇に体の半分を呑まれ、その足元で蠢くは影の化け物。夜の帳の中にあって、その瞳はなお底が知れない程の暗を湛えている。
先に動いたのは影夜の方だった。足元に溜まった影が四つ、鎌首を擡げるように宙へと浮かび、上下左右から月を狙う。月は避けなかった。
前に跳ぶと同時に、護身之太刀を頭上から床下に振りぬいた。四匹の影蛇の頭が宙でバラバラに舞い、地面に落ちて酷く水っぽい生々しい音を立てて滅された。浄化された霊気が宙を飛び、月影の刃へと吸い込まれる。
「冗談ではないな。四匹を同時に打ち落とすとは」
影夜が鉄仮面のような表情で月を指差した。月は何も言わず、太刀を肩の位置に構えただけだった。ちらっと背後の一真に視線を移した。
――折鶴がちゃんと伝えてくれた
幼き頃に月がくれた霊具の一種。「金の折鶴」は、想いを伝えてくれる霊具だ。この戦いの直前、月はその折鶴に細工を施していた。「敵の気が月から完全に逸れた所で、居場所を教えてくれるように」と。因みに逸れたかどうかの判断自体は一真が行う。
――際どかったってか、絶対意図的じゃなかったな
後一歩でも遅れていたら、一真は無残な姿を少女の眼前に晒すところだった。ちらっと見えた月の横顔に、肩の痛み等比にならない程の痛みが襲う。
さてと影夜は両手を広げながら、歩いてくる。一見隙だらけのその仕草は、得体が知れず一真は身構える。
だが、影夜の意識は完全に月に向いている。一真等、毛ほどにも脅威に思っていないようだった。月は月で再び、影夜へと意識を戻していた。振り下ろしさえすれば脳天を真っ二つに出来るその位置まで迫られても、彼女は動じない。
「どうやって忍び込んだ。空にいた警備は倒したのか」
「隠行――霞朧月」
答えると同時に、彼女の姿が蝋燭を吹き消したかのように消える。光の残滓を舞い散る桜のように残して。前もってその術については知っていたにも関わらず、一真は内心ではかなり驚いていた。常社神社で戦った霞とかいう巫女が使った結界にも似ているだろうか。
隠行――隠形術または隠身術とも言うそれは、自身の姿を消し去る有体に言えば、忍術のような技だと思えばいいと、一真は月から聞いていた。
人に限らず此の世の万物は霊気と肉体から成る。霊気は動物の場合、大抵は身体の中の脈を通っているが、身体の表面にも薄い気の膜が張られている。この『気膜』を固める術が身固めであり、物理的な攻撃は勿論の事、霊的な術に対してもある程度の防御力を持つ事が出来る。
逆に、その気膜を絶つ技を『絶気』と言い、所謂気配を消す事が出来るのだが、それはあくまでも気を絶っただけで、人間の五感の理を根本から崩す程には至らない。気配を絶つ位であれば、訓練すれば常人でも使えるようになる。
隠行は更にその上を行く。気を増幅させるとか消失させるのではない。気膜そのものを術で、全く別の性質へと変化させてしまうのだ。
確かに目の前にいる筈なのに、視覚的には何も見えず。
確かに音は立てている筈なのに、聴覚的には何も聞こえず。
それが霞朧月。
確かにあるのは宙に漂う光の残滓だけ。今更の事だが、よくこれと同じような敵を相手にして勝てたなと一真は思う。だが、一真に出来た事がこの影夜に出来ない筈はない。隠行の欠点は、攻撃するその時になると姿が見えてしまう事だった。隠行に使われていた霊力が攻撃用の霊術に切り替わるせいか或いは、単純に殺気や闘気が隠行を打ち消してしまうかららしいのだが。
それに隠行の術は行使するのにも相当な力量が要求されるが、その状態をそのまま維持するのは――それに特化した霊具を使ったり儀式を行うのでもない限り――至難を超えて神業と言っても良い領域であるらしい。
一見、まるで動じていないように見える影夜だが、眼球だけがまるで別の生き物のように動き回り、部屋の隅々まで視線を這わせる。
だが、月を捉えた感じはまるでしない。やがて、彼は視線を一点に留めた。見つけたわけではないのだろう。軽い溜息を吐き彼は、見えない敵に称賛を送る。
「『霊視』で以てしても捉えられぬ隠行はこれが初めてだ。外の亡霊どもが文字通り、相手にならないわけだ」
一見打つ手無しに見えた影夜だが、突然失神でも起こしたかのように前のめりに倒れ、手を床に突けた。突いた手が床に暗い影に沈み込む。瞬間、彼の目の前で光を纏った月の姿が揺らめいた。
白銀の光刃が頭上で渦巻き、上手から影夜を叩きつける――その直前、ぞくりとした悪寒がその部屋全体に広がる。続いて、影夜が突いた手、その指の合間から噴き出るように黒い影が飛び出し、月の太刀とぶつかる。霊気と霊気がぶつかり合い、甲高い音を散らす。影夜は顔を上げ月の顔を見た。
「本気で戦うに値する敵というわけだ」
「受け止めた……」
月の光を帯びた刃は、その防御すらも破るかに思われたが、影の刃と拮抗している。先程までは圧倒的な力差であっさりと破られていたにも関わらず。
影夜が何かをしたのだ。そして、それは単に刃の硬度を上げただけではないと、一真は直感していた。部屋の全体の空気自体が変わった。
「月!!」
「一真……怪我大丈夫?」
宙で蜻蛉を切って、月は一真の所まで下がるや否や、目の端に涙を浮かべ顔をくしゃくしゃにする。影夜のあの得体の知れない顔を前にした時の方がまだ余裕があったのではないかとすら思えた。彼女は、自分を殺そうとする相手を前にしても動じないが、大切な人が傷つけられる事を極端に恐れる。月が影女を相手にした時のことが脳裏を過る。そして、今のこの状況は危険なほど、その時に近い。
――俺が負ける事が、そのまま月の敗北に繋がる。
影夜の足元に溜まった影が床に広がり、月が空けた穴を塞ぎ、そこにいる三人のいた空間を呑み込む。そして再び世界は闇へと沈んだ。先程の状況に逆戻り。護身之太刀黒陰月影が発する光と、破敵之剣白陽天ノ光が発する光が、縺れ合いながら輝いて滴り落ち、床を照らし出す。だが、床全体もペンキを倒してしまったかのように、どす黒い色で染まっていた。
――さっきに比べれば、まだマシ……なのか? だけど、あいつは今まで本気ではなかった。
プラスマイナス相殺で0とは言い過ぎだろう。こちらは多少の視界を確保できたに過ぎない。相手は、月の光刃をも受け止めた。
邪気は全て祓い清め自身の霊気へと還元してしまう月影の太刀を。物の怪相手の戦いであれば、彼女の身体能力、飛びぬけた霊術と相まって、敵なしと言っても良い。あの影も物の怪かそれに準ずる類の物だと思ったのだが、違うのか。はたまた、何かからくりがあるのか。
だが、それをじっくり考えさせてくれる程、相手はお人よしではない。
黒い刃の柱が新たに十本。影夜を守護するように、林のように聳え立った。不気味に振動し時折人の呻き声と嗚咽を混ぜ合わせたかのような声が中から漏れてくる。呻き声の聞こえる林――まるでお伽噺にでも出てきそうな怪物だ。その「柱」が中ほどから折れて分岐した。二つ三つではない。四つ五つとそれこそ大樹の枝の先のように、分かれては伸び、伸びては分かれた。
その一本一本が、穂先をこちらへと向けた。月だけではなく、一真にも。
「下がって、一真」
「いや、お前だけで捌ける数じゃないだろ」
一真は抑えていた傷口から手を放した。出血は既に止まっている……どころか傷口が塞がっていた。月が驚きと共に一真を見、一真はそんな彼女に、にやっと笑いかける。自然に治ったわけでは勿論ない。
――身固め〈内丹〉身固めの術の応用だ。簡単に言えば、体の内にある気を傷の部分に集めて固め塞いだのだ。言うほど簡単ではない。内に通う霊気は「脈」を通り、臓器や肉体、骨等体を動かす上で主要な部分を流れている。そして体を廻る気は、傷ついた部分に優先的に回されるようには出来ている。
だが、それはあくまでも長時間掛けての事だ。
一時的にであれ傷口を塞ぐ為であれ、いやだからこそと言うべきか、短時間で体内の霊気をどこか一カ所に集中すれば、他のどこかが損なわれる。気功の術に慣れた者であれば、上手くやるのだろうが、一真のそれは付け焼刃の応急措置に過ぎない。
――碧にはどやされるだろうな
通常の身固めを含めて教えてくれたのは、碧だった。〈内丹〉の方は、あくまでも応急措置として習ったものだ。大量出血を防ぐ為の止血行為に過ぎない。そして、これは極常識的な事だが、止血を要する程の怪我人は安静にしているべきだ。血が止まったから、いつも通りに動こう等とすれば、どうなるか。
――わかって……るなら、止めろって話だろうけど
霊気の一時的な集中によって、貧血にも似た症状を一真は感じていた。頭がぼうっとなるのを、天から流れ込んでくる霊気で抑える。しばし、驚いたまま固まっていた月が我に返る。
「一真……でも」
月は一流の陰陽師だ。どんなに誤魔化そうとも、一真が無理をしているという事くらいは分かるだろう。そう、彼女ではなくても誰が見ても分かることだ。ただ、彼女ですら気づいていないことがあった。というより、実にいつも通りの彼女らしくというべきなのか。
――お前だって無理しているだろうに
月の膝が微かに笑っていた。この館に来るまでの間、影夜が放っていた亡霊や式神に一度も、接触せずにここまで辿り着いた。その為に用いた隠行霞朧月は、彼女に相当の負荷を与えているようだった。
「お前も疲れているだろうに」とは言わない。そんな事を敵前でばらす必要はない。相手とて、一流の術師。気づいているかもしれないが、確信を与える必要はない。彼はただ、宣言する。
「あぁ、わかってるさ。だから短時間でケリをつけよう。月」
「うん、任せて」
月の頼もしい答えを気持ちの良い風のように受ける。影夜は何も言わなかった。ただ手を振っただけ。それだけで、影の大樹が二人へと襲い掛かる。
一真と月は殺到する影を前にして、剣と太刀を構えた。
一真が踏込み、月が九字を切る。
影の群集は迷わず、月へと向かう。影自体に意志はないだろう――あったとしても酷く纏まりがないはず――影夜の判断。一真よりも月を倒すことを優先した。
「――光風霽月」
ごっと光の奔流が、彼女を押し包もうとした影の枝を、文字通り風の如く吹き荒らした。




