ノクスの物語(完結)
紙に描かれた顔のようなものを目にした瞬間、私は心臓が止まるかと思った。
あの日、鏡の中に映っていたこの素顔。
なかったことにしようとしたあの顔が、寸分違わずその紙の上に存在していたのだから。
「これは……一体……」
絞り出した声は、震えていた。
怒るわけでもなく、責めるわけでもなく、ただ事実を知りたいという必死さだけが滲んでいたのだ。
ハミダクは、明らかに動揺していた。
視線を彷徨わせ、言葉を探すように唇を噛みしめていた。
しばらくの沈黙のあと、彼は静かに語り出す。
「……その……。ある、仮説なんだけどさ……」
その声は、ひどく小さいものでもあった。
「この世界が……俺が描いた物語、そのものだとしたら……」
一言一言、確かめるように続けていく。
「俺が描いたから、この世界があって……。俺が描いたから、ノクスが生まれた……」
それは、あまりにも残酷な可能性であったのだ。
この世界の全てが、彼の創作物であり、私という存在も彼の手によって生み出されたものであるのだと。
息が、うまく吸えなくなる。
現実を、受け入れることができなかった。
物語の都合で現れ、役割を終えれば消える存在。
名前すら、作者であるハミダクにつけられなかった程度の占い師。
視界の端で、ハミダクが崩れるように頭を下げる。
「ごめん……本当に、ごめん……」
その声は、私以上に震えていた。
そのような顔を、させたいわけではなかった。
ただ、真実を知りたいだけであったのだ。
私は、問いを投げかけた。
「……なぜ、占い師を登場させた」
驚くほど、静かな声が出てしまう。
「なぜ……私以外の人間が、結ばれるような物語にした……」
ハミダクは、苦しそうに目を伏せた。
「……ごめん。深く、考えずに描いたんだ」
苦し紛れの、言葉であった。
「主人公たちを後押しする存在として、物語を進めるための役として……」
一度息を吸い込んでから、なおも言葉を続けていく。
「……でも、まさか……。ノクスだとは、思わなかったんだ。本当にごめん」
私は、何も言うことができずにいた。
責めることさえ、できなかった。
今さら何を言っても、この世界が変わるわけではない。
***
その夜、私たちは初めて別々の場所で眠りについた。
ハミダクは、寝台へ。私は隣の部屋の床へ。
硬い床に横たわり、窓の外を見る。
見慣れた夜空、何の変哲もないような星。
──この景色でさえも、彼の創造物であるというのか。
そう思った瞬間に、胸の奥がひどく痛む。
私は初めから、都合のいい存在であったのだ。
作者ですら、名前をつけ忘れてしまうほどの。
しかし、あの石鹸の香りがないと、眠りにつくことができずにいた。
その温もりがないだけで、大きな不安に苛まれる。
嫌いになど、なれない。
憎むことも、できずにいた。
紛れもなく、私はハミダクに惹かれていたのだ。
ただ静かに、朝陽が昇るのを待っていた。
翌朝。
顔を合わせれば、ハミダクもまた一睡もできなかったらしいことがすぐにわかった。
互いに気の抜けたようなあくびをこぼし、なぜだかそれが可笑しく思えてしまい、私たちは静かに笑った。
「……ノクス」
ハミダクが、真剣な顔をして口を開く。
「これまで、本当にごめん」
一歩、その距離が近づいた。
「でも俺……、こうしてノクスに出会って……。ノクスのことが、好きになった。それは、本当の気持ちだよ」
その言葉に、胸が熱を帯びていく。
「だから……」
その先を聞く前に、私は彼を抱きしめていた。
「私もだ、」
声が、震えた。
「私も……。ハミダクのことが、好きだ」
強く、腕に力を込めていく。
「もしかしたら……。私が、勝手に名前や設定を付け加えたせいで……こうなってしまったのかもしれない」
「そんなこと……」
「私の方こそ、すまなかった」
ハミダクは、強く私を抱きしめ返し、胸元に顔を埋めていく。
「ノクスは、何も悪くないよ」
優しい手つきで、この髪を撫でていく。
「……だから、謝らないで」
「だが……」
「俺のこと、好き?」
そう見上げる顔は、目元がわずかに赤くなっており、どこかいじらしいようにも見えていた。
「……好きだ。好きなんだ」
その瞬間、ハミダクは、心から嬉しそうに微笑んだ。
「なら……、それでいい」
私たちは、強く強く抱きしめ合う。
互いの存在理由ではなく、その想いだけを確かめるかのように。
「俺、描き直すよ。ノクスと俺の……、愛の話を」
それから、ハミダクは時間をかけて、私たちの物語を丁寧に描いていくこととなる。
幾度となく、描いては消す作業を真剣な面持ちで繰り返していた。
時折その手元を覗き見れば、仮面を外した私の素顔が忠実に描かれていた。
そのたびに、私は無意識のうちにこの仮面を外し、彼のことを見つめてしまう。
すると決まって、ハミダクは頬を赤く染めるのだ。
「もう、ノクス……!やめてよ、目に悪いから……」
ペンを持つ手が、止まってしまった。
どうやらこの素顔は、互いに心臓に悪いらしい。
「……すまない。つい……」
すぐさま仮面をつけ直し、私はその黒い髪を撫でていく。
「はぁ……。かっこよすぎて、どうにかなりそうなんだよ……?」
そのような愛らしい言葉をこぼす唇を、そっと塞ぐ。
そして、穏やかに笑い合う。
私は、ようやく幸せを見つけることができたのだ。
私のフラグは、確かにあった。
運命の糸は、最初からなかったわけではなかったのだ。
自らが行動しなければ、決して物語は進まない。
長い時間をかけて、ついに物語は完成した。
最終ページには、このような言葉が記されていた。
「二人の幸せは、まだまだ続く……」
「続けていこう、ノクス」
私は今日も、仮面越しに、この笑みを交わす。
物語の中で。
そして、物語の先で。
END




