作者の主張
俺は、非常に焦っていた。
自分が描いたBL漫画の中に、異世界転移していたのだから。
否定したくて、何度も目をこすってみた。
けれど粗末な木の天井も、薬草の匂いが残る部屋も、冷たい石床の感触も、すべてが確かな現実としてそこにあったんだ。
いや、正確には少し違うのかもしれない。
ここは、俺が描いた世界とひどく似ていた。
けれど、完全には一致していなかった。
行間に書かなかった生活、描写を省いた日常が、勝手に息づいているような。そんな世界。
「……落ち着け、まずは……深呼吸だ」
そう自分に言い聞かせるように呟いた声は、驚くほど弱々しかった。
俺のことを保護してくれたのは、作中に出てくる占い師の男。
いわゆる、名もなきサブキャラだった。
主人公たちをくっつけるにあたり、大きな役目を担う存在。
恋に迷った時に、進むべき未来を示す案内人。
それ以上でも、それ以下でもない。
麗しい容姿をしているけれども、その顔は仮面で覆われている。
表情を描写する手間を省くために、俺が勝手にそう設定しただけだった。
名前もなく、占いをして、その結果を意味深に伝えるのみ。
信じられるか?
その男が、今、確かに俺の目の前にいたんだ。
「……水だ、飲むといい」
差し出された木の杯を、俺は静かに受け取った。
指が、少しだけ震えた。
「……ありがとう」
喉を潤しながら、そっと相手を盗み見る。
目元だけがくりぬかれた仮面の奥から、静かな視線を感じた。
何気なく書いたキャラクターのつもりだった。
それなのに、この男は俺の記憶にない設定まで淡々と語りだしていた。
孤児で占い師に拾われたとか、その男を追って占いをしているとか。
さらに驚くべきことに、男の名前はノクスといった。
その名前も、俺が知らないものだった。
だから俺は、こう考えるようにした。
占い師以外は全部やけに見知った光景だけど、確かに俺の作品とは少し違う世界なんだって。
もしかしたら、俺は夢か何かでこの世界と交信してしまったのかもしれない。
だからこそ、あんな作品を書くことができたのではないのかと。
「ハミダク、どうした?どこか痛むのか?」
それに名前を聞かれた時、俺は思わずペンネームの一部を答えてしまった。これも失敗だ。
でも、一部なだけまだマシか。”ハミダクつゆたろう”というフルネームを呼ばれるよりかは。
仮面の麗人に変な単語を言わせてしまっていることに申し訳なく思うけれど、俺の本名は少し変わっていた。だから、言いたくなかった。
「大丈夫だよ。ありがとう、ノクス」
ここは、ノクスの家らしい。
聞くところによると、占いをするときはこの家から、机や道具などを一式担いでどこかの街の路地裏に行くらしい。
――通いの占い師、か。
想像しただけで、なぜだか笑いそうになってしまう。
俺の想像力が足りなかったというのもあるけれど、俺が描いたこの作品『ミリュエール商会の若旦那様と平民の俺の華麗なる新婚生活』通称”ミリ商”では占い師は突然姿を現すという設定にしていた。
主人公である”俺”が、恋やその将来に迷った時にノクスによく似た占い師が助言をする。
その裏にもこのような影の努力があるのかと思うと、途端に微笑ましく思えてしまう。
ノクスが仕事に行く間、俺は家で書物などを読んでこの世界について学んでいく。
しかしこの地域の名前や生活様式などは、俺が描いた作品そのものでもあったんだ。
そのことを不思議に思いながらも、足りないページを補うかのように俺は細やかな設定を補完していく。
「ただいま」
「おかえり、ノクス」
無事に今日も、ノクスが仕事を終えて帰ってきた。
相変わらず目元だけがくり抜かれた仮面やフードつきのローブのような衣服そのままに、食事をとるのも湯浴みをするのも俺たちは別々だった。
寝る時も別かと思いきや、寝台が一つしかないために俺たちは肩を寄せ合って眠っていた。
よほど頑丈な仮面なのだろうか、眠っている時もノクスは仮面を外さなかった。
その下の素顔が気にならないのかといえば、嘘じゃない。
でも、こんな身元のわからない俺を拾ってくれたノクスには感謝しかなかった。
それに、仮面があってもノクスの身振り手振りや声のトーンで多少はその感情が伝わった。
おまけに、ノクスは優しかった。
特に深く詮索するようなこともなく、今日も俺は深い眠りに落ちていく。




