四幕――後編
チョコレートは用意した。
自分で味見もしたし、その後腹を下す様子も無いからおそらくきっと大丈夫。ハートの形なんて恥ずかしいボックスにクッション材と一緒に詰めて、リボンまで飾った。もう客観的に見ても「馬鹿じゃね?」ってくらい、バレンタインのチョコレートだ。
いわゆる本命チョコ。
うわっ、馬鹿じゃね?
――恥ずかしさでもんどりうちながら、あたしは喫茶店【つゆねぶり】の木製扉の前で大きく息をついた。
神様が優しければ、きっとあの人と「偶然」会える筈だ。
カロンっとカウベルを鳴らして店内に入り、あたしは神様が底意地悪いことに嘆息した。
「おや、おかえり」
マスターが朗らかな声を掛けてくれる。あたしはカウンター席に自分の鞄をおきながら肩をすくめた。
「最近、影浦さん来てないんですか?」
「昨日は来ていたよ?」
「そっかー……忙しいのかな」
あたしは何でもないことだとでも言うように軽く呟き、鞄から四角いボックスを一つ取り出してカウンターの上に置いた。
「大好きなマスターに」
「バレンタインチョコかい?」
「お菓子作りが上手なマスターに渡すのはちょっと恥ずかしいですけどね。どうぞご笑納下さい」
それから他愛ない会話を交わしながら、あたしはいつもと同じようにアイス珈琲とマスターからのサービスのケーキをつつきながらしばらくの間影浦さんが来ないものかと待っていたけれど、生憎と来る様子がない。
元々十四日に会いたいなどと言ってはいなかった。だってそんな直球ドストライクな日に会いたいなんて、ソレ以外に思いつかない。
つまるところあたしは未だに往生際悪くあがいていたりする訳だったのだが、吐息を一つ落とし、携帯を引き出した。
マナーモードに切り替えて、眉を寄せて一文字一文字打ちつけていく。
たかがメールだというのに、まるで今現在告白でもしているかのように自分の気持ちがたかぶり、意味も無くぶるりと身震いして打ち込んだ文字は、バレンタインのバの字もなし。
――秋都です。今【つゆねぶり】にいるんですけど、影浦さんは今日は来ないんですか?
本当に往生際が悪くてごめんなさい。
素直に「チョコ作ったんですけど!」くらい言えたらいいのにと思う。それだって、なんというか自分から積極的にバレンタインを押し出して無いけど。
数分後にマナーモードにした携帯が小さく明滅し、その後にぶるっと一度だけ震えた。
あたしは手の中で動いた携帯を一旦きゅっと握りこみ、冷静さを装って開いた。
――少し遅くなるけどいけますよ。そのまま待っていてもらえますか? 夕食一緒に食べましょう。
相変わらず絵文字の一つないメッセージ。けれど実はそれはあたしも一緒で、絵文字一つも気恥ずかしくて使えない。
でもその素っ気無さが嬉しいとすら思うんだから、わりと重症。
あたしはさっそく返信メッセージを送りつけた。
――バレンタインに女性と予定もないなんて可哀想だから夕食に付き合ってあげます。
一度冗談でそう打って、ニヤニヤしながら全消去。マスターが見ていたらきっとギョッとしたことだろうけれど、あたしはそんなことはお構いなしで「じゃあ、あとで」とだけ素っ気無く返した。
返した途端にばったりとカウンターテーブルに突っ伏した。
「秋都ちゃん?」
あーっ、もう本当にあたしって可愛くない。
素直さはいったいどこに落としてきたのだろう。好きなら好きってきちんと言えばいい。チョコレートを手渡して、好きって……いえる、かなぁ。
情緒不安定で暴れているあたしをマスターが心配気に見ているものだから、あたしは慌てて顔をあげて「アイス珈琲もう一杯お願いしますっ」と元気一杯注文した。
本当にへんな客でごめんなさい。
カウンター席から左手の奥の席に移動し、本を読みながら影浦さんの到着を待っていたあたしはいつの間にかゆらゆらと揺れる安楽椅子の揺れに転寝をしていたようで、気付くと影浦さんの忍び笑いで目覚めてしまった。
かぁっと体温があがる。
「おはよう、秋都ちゃん」
いつもとは反対のポジションだった。
座っている席も、そして――寝ていたあたしと、起きていた影浦さん。
「寝心地いいでしょう?」
「……意地悪ですね。来たなら起こしてくれればいいじゃないですか」
今日は絶対に喧嘩などしてはいけないというのに、あたしは思わず軽く相手を睨んでそんなことを言ってしまった。
「秋都ちゃんは私を起こしてくれたことは無かったようだけれど」
さらりと返された言葉にまた赤面してしまう。
そう、いつも見ていただけだ。こうして二人で同じテーブルについている時も、影浦さんを無理に起こしたりしたことは無い。
だって寝ていると――すごく、好みなんだ。
あたしは更に引きつりながら、
「今度からは起こすことにします」
と唇を尖らせた。
「ごめん。怒らせるつもりは無かったんだよ――ただ、いつも君はこんな風に私を見ていてくれたのかなとか、いろいろ考えることが……だから、そう睨まないで」
クツクツと肩を揺らし、影浦さんは席を立った。
「じゃあ、行こうか」
その言葉に慌てて席を立ち、荷物を手にテーブルの上の伝票を探したけれどそれはすでに処理された後だった。
「もぉっ、払わなくていいのにっ」
かっこ悪い。
あたしがぼそりと言う言葉に、影浦さんが笑う。
「じゃあ、社会人になったら奢ってもらおうかな」
「三月の後半からきっちり社会人ですよ。覚えていて下さい」
「がんばってね」
少しも本気にとっている様子もなく笑いながら言い、影浦さんは近くのパーキングに止めてある車を示した。
「いつも思うんですけど」
「ん?」
「どうして毎度車が違うんでしょう?」
あたしはキーレスエントリーで、かこんっと音をさせた車をしげしげと見た。本日は赤いX-トレイル――RV車だ。
影浦さんはクっと喉の奥を鳴らし「オトナの事情です」とさらりと流そうとする。
「そのうちに判るようになるよ」
「……なんか後ろ暗い感じでないことを願います」
「さぁ、どうだろうね?」
助手席に座ると、車高が高い。こういう車は是非とも遊びに使いたい感じだ。
あたしはシートを軽くなでたり車内をきょろきょろと眺めつつ「ミーハーで悪いですけど、お馬さんとか牛さんマークな車とかは乗らないんですか?」と尋ねれば、影浦さんは肩をすくめた。
「乗りたいなら用意するけど、でも後悔するよ」
「え?」
「―― 一般道エンストという恥ずかしい思い出と踏み切りで立ち往生まがいのスリリング体験。ついでに長時間運転は腰を痛める。しょっぱなであれは物凄い衝撃だった。ちなみに私はもう運転する気は無いから、秋都ちゃん運転どうぞ」
声を潜めて実に楽しそうに言われ、ぶんぶんと首を振った。
「音は素晴らしくいいけどね、やっぱりああいうのは海外ハイウェイ向きだと思う」
影浦さんは運転がへたくそなほうでは無いと思うのだが、過去にそんなことを仕出かしたかと思うと彼自身トラウマになっているのかもしれない。
「食事には少し早いかな。じゃあ寄り道しようか」
***
今日の寄り道は公園――巨大な風力発電の羽が回る海沿いの公園は、沿岸に釣り人。
上空を時々通る飛行機が驚く程大きく見えて、その先端を明滅する赤いライトの通過に小さく息をつく。
「カップル向けではないけどね」
くすくすと笑う相手に、あたしは思い切って声を掛けた。
「あの、ですね」
「うん?」
「今日――バレンタインって、知ってます?」
小心者のあたしはまだそんなことを言っている。
あたしは薄闇の下、人がいない場にさしかかってやっと持参した紙袋をぎゅっと握り締めた。
気付いている筈――だって、もう見ただけで贈り物とわかるような、小さな紙袋。青いリボン。
気付いていながら、そ知らぬフリをしている。
「要りません」
影浦さんはかつりと足を止め、軽く瞳を眇めて微笑んだ。
「チョコレート? 残念ですが、受け取る気はありません」
ざっくりと切り捨てられた言葉に、あたしは胃がひり付くような気がした。
「子供や会社の付き合いではありませんよ。ココロナイものを受け取るつもりはありませんから。どうぞお気になさらず」
「違います!」
あたしは咄嗟に声を荒げてしまいそうになり、慌てて潜めた。
「違います。あの――」
どうしよう。
心が挫けてしまいそう。
ぎゅっと紙袋の手提げ部分を握りこみ、あたしは泣きたい気持ちを必死に抑えてゆるりと首を振った。
まるで見せ付けるように言う。
あたしが自分で引いた友人という線を。
あたしに、一歩踏み込めと示す。それはきっと――あたしの被害妄想なのだろうけれど。ふーっと溜息を一つ落とし、影浦さんはそのまま身を翻そうとするから、あたしは慌ててその腕を掴んだ。
言葉でいえなかった。
どう告げたら理解してくれるのか判らなくて。だから、必死になったあたしはぐいっとその腕を引いて、力任せに相手のシャツを掴んで――精一杯、背を伸ばした。
唇が触れ合ったことに、ほっと息をついて、それからすぐにかぁっと羞恥が立ち上った。
一気に、ここが薄暗いといえど外だとか、咄嗟とは言えキスしてしまったとかが頭の中でぐるぐる巡る。
触れ合っただけの口付け。
すっと離れた体温。
「――行こうか」
まるで何事もないように影浦さんは身を引いて歩き出すから、あたしは自分の心が凍てつく様な痛みを感じた。
耳鳴りがするような冷えた心のあたしは、ぎゅっとチョコの入った袋を握りこみ、自分の愚かさを呪った。
手作りチョコなんて作った自分の愚かさを
告白すらきちんとできない幼さを。
ぼんやりとしながら駐車場まで歩き、影浦さんが車のキィをあける音を耳に入れる。のろのろと助手席に乗ろうとするあたしの二の腕をとり、影浦さんはあたしを後部座席に乗せた。
助手席に乗せるのもイヤになったかと思えば、そのまま彼自身まで後部座席に入り込み、ぼんやりと瞼をまたたくあたしの手から紙袋を取った。
「失礼」
「……」
スェード調の後部シートは広くて、なんだか居心地が悪かった。
音をさせて梱包を解き、ハートのボックスからチョコレートを一つ摘み上げると、影浦さんはそれをあたしの口元に差し出した。
すでに思考能力の弱いあたしは、ただ差し出されたものを口に含む。
いつもであれば、毒見ですか? くらいの突っ込みができたであろうが、その時のあたしはどうしたらこの人に理解してもらえるのか、もう全てが遅いのか――そればかりに侵食されていて、寂しくて、辛くて、仕方が無かった。
口の中にあるチョコをそのまま舌先で舐めようとした途端、影浦さんは囁いた。
「私にくれるんですよね?」
問いかける言葉に、のろのろと顔をあげる。
でも、受け取らない――要らないと言ったのに。
そう思った途端、あたしは泣きたい程気持ちが高ぶり、小さく呻いた。
影浦さんの手があたし頬にふれ、顔を近づけて微笑む。
だから後先考えることもなく、あたしは唇を寄せて自らの口腔にあるそれを相手の口へと移し入れた。
頬に涙が伝い、感情の高ぶりが相手に縋らせた。
羞恥も何もなく、ただ相手が欲しいという感情だけがあたしを突き動かして引き寄せる。
リキュールの利いたチョコが溶けて喉の奥を嚥下する。離れた唇で、あたしは掠れる声で囁いた。
「好き……好きなの」
「友達だものね?」
クッと意地悪い口調で言う言葉に、あたしは唇を噛んだ。
「ちがくてっ。友達じゃなくて――……好きなの。一緒に、いたい」
あたしは必死に食い下がった。気持ちの高ぶりと、意味不明な程の焦燥が本来の自分をかなぐりすてさせる。
「恋人として?」
からかうような口調に、うなずいていた。
「私が――欲しい?」
甘い問いかけに、あたしはかすれるような声で応えた。
「よく出来ました」
影浦さんは喉の奥を鳴らして笑うと、あたしの唇を舌先で舐めた。
「君が自ら私を選んだんだ――もう離してあげられないから、覚悟して」
もうキミは私のものだよ?
甘い吐息交じりに囁かれる言葉に、あたしは小さく幾度もうなずきながら、自分がちっぽけなうさぎであることに気付いていなかった。
囲い込まれた小さなうさぎ。
麗しい眠り姫は、眠ったフリをした狡猾な狐。
――それに気付くのはまだ……少し、あとの話。