失ったもの 残ったもの -イザベル-
苦しい。
頭がぼんやりしていて、体は熱を持ちすごく辛い。息が苦しくて眠ることさえできずに、寝台に横になっていた。早くこの熱がなくなればいいなと思いながら、ぼーっと天井を見上げていると誰かが入ってくる。
誰?
お母さまだろうか?
それとも侍女?
誰だかわからないけど、近寄ってくるのはわかる。しかも一人じゃない。ぼそぼそと小さな声が聞こえてきた。
「陛下、本当に飲ませるのですか?」
「ああ。このような力は不要だ」
どうやら侍医とお父さまのようだ。薬を持ってきてくれたのだろうか。その割には診察されるような雰囲気はないし、何よりも侍医が躊躇っているようにも思える。この苦しい熱が下がるのなら早くクスリが欲しいのに。
そちらに目を向けようとしたが、すっと目が塞がれた。体中が熱いせいか、目を塞いだ手がとても冷たく感じる。苦しくて少し開いている唇に冷たいガラスが当てられた。薬を飲ませてくれるのだろうと、流し込まれるのを待った。
「……!」
流し込まれた薬のあまりの苦さに咽る。広がる苦しさに目を隠している手を振り払い吐き出そうともがいた。ところが手は外れてくれず、吐き出さないようにわたしの体を寝台に押し付けてきた。熱があり、力の入らない体はいくら抵抗しても自由にならない。さらに口の中に注がれる薬を飲み込めば、その効果がすぐに現れてきた。
体中が痛くて痛くて痛くて。
助けて。
苦しくて、涙が自然と溢れてきた。
苦しいよ、痛いよ。
誰か助けて。
痛みにのたうつわたしの体は知らないうちに開放されていた。痛みと苦しみと疑問を抱えながら、わたしの傍らに立つ人を見上げた。焦点が定まらないが、何故か必死に見ようとした。かすむ視線の先にはお父さまと思われる影。表情は全くわからない。わからないけど、憐れみのこもった視線を向けられているのを感じた。
「……すまぬ。だが、お前……不要なのだ」
ところどころ聞こえないところがあるが、かけられた声からお父さまだと認識した。そしてその言葉の端々から、わたしはいらないのだと理解した。
どうして。
苦しさと痛みにヒューヒューと変な音を立てて息をしながら、胸が痛んだ。体をむしばむ痛みとは違って心も痛みを訴えてくる。
どうして、いらない子だというの。
わたしがお兄さまたちよりもずっと魔力が多いとわかってとても喜んでくれたのに。
お母さまだって、すごいわねと褒めてくださったわ。
痛い、痛い、痛い、イタイ……。
体も心も痛くて痛くて、最後には意識が途絶えた。
******
「美しいだろう? イザベル姫、どうぞお受け取りください」
そう言って差し出された一凛の薔薇はとても大きくて鮮やかな赤い色をしていた。にこりと笑ってわたしに薔薇をくれるのは、辺境伯だ。彼は40歳も年下のわたしを実の孫のように扱う。今日はいつもとは違ってわたしに敬称をつけ、舞台俳優のような気取った仕草に面食らった。
辺境伯はその名の通り、国の端に領地を持ち、一番厳しい領地だ。何が厳しいかと言えば、砂漠さすぐそこまで迫っており、砂漠には巨大な害獣が沢山いる。その害獣を討伐しながら、厳しい環境を少しでも良くしようと奔走していた。だから、とても厳つい顔と大きな獣のような体をしているのだ。外に出かけるときはいつだって大きな剣を持っていた。とても薔薇を手に持って捧げるような優男ではない。
辺境伯の態度に目を白黒させていると、くすくすと笑う声がした。
「あなた、イザベルはまだ気分がよくないのに薔薇は匂いがきついわ」
「そうなのか? 折角8歳の誕生日だから、庭園で一番いいバラを持ってきたのだが」
そう言って窘めてくれるのは辺境伯夫人だ。わたしが去年、7歳の時に流行り病を悪化させたため、療養と称して辺境伯夫妻に預けられた。死にかけたわたしは色々と不自由なことが多く、未だに自分の足では歩けないし、声もあまりでない。
流行り病が悪化してと言われているが、本当は違う。お父さまに飲まされた薬が原因だと思う。どちらかというと、生き残ったのが不思議なぐらいだ。きっと殺すために飲ませただろうから。恐ろしくて理由を聞けないが、一人では食事すらできなくなったわたしにそれ以上のことはしてこなかった。食事は何か毒が入っているのではないかと恐ろしくて口にできないだけなのだけども。
だからこうして王都を離れて辺境伯夫妻の所で暮らすのはとてもありがたかった。事情を知らない二人はとても暖かく、わたしに愛情を向けてくれる。彼らに敬称をつけずに名前を呼んでくれるように頼んだのもわたしだ。こうしてイザベルと呼ばれると、本当の家族のような気がしてとても嬉しい気持ちになる。
「あ、りが……と、う」
上手く声が出なくて途切れ途切れとなったが、満面の笑みを浮かべて言えば彼らは嬉しそうに笑った。優しい空間を楽しんでいると、楽しげな声が割り込んできた。
「今日の気分はどうかな?」
「お、ようやく来たな。どうだ、薬は手に入ったか?」
軽い口調であいさつしながら入ってきたのは、辺境伯の息子だ。こちらもわたしと22歳も年が離れており、わたしを娘のように扱ってくれる。彼自身は少し離れた館に妻と子供と家族3人で暮らしていた。武骨な辺境伯よりも辺境伯夫人に似ていて男性だけど柔らかい雰囲気だ。
「ようやく手に入りましたよ。この薬ならイザベルの体もよくなるはずです」
そう言って見せてくれたのは綺麗な小瓶に入った液体だ。指一本ぐらいの大きさの瓶で、薬のように見えない。
「これ、く、すり?」
途切れ途切れ気いてみれば、彼は頷いた。
「北の国の薬はとても優秀でね。症状を伝えたら、魔力が体内で暴走したのだろうと言われたんだ。特別に調合してもらったから、とても時間がかかった」
それはお金も大変だったのではないかと息を飲んだ。北の国の薬はとても高価で効き目がいいことで有名だ。その上、わたしの症状に合わせて調合だなんて、どれぐらいお金がかかったことか。王家からもらわないといけないほどではないだろうか。心配なのは王家に奏上したところでわたしの治療費として薬代を出してもらえるかどうか。
「お金の心配はいらない。大量に害獣を持っていったから」
よくわからず首を傾げれば、彼は愉快そうに笑った。
「どうやらここで害獣と言われている獣は北の国にしたら非常に貴重なものらしくてね。用途は教えてくれなかったけど、10体で請け負ってくれたよ」
そう言いながらわたしに手渡す。しばらく手のひらにある小瓶を見つめていたが、恐る恐る蓋を開けてみた。鼻を近づけて匂いを確認する。無臭で何もしない。心配そうな3人に見つめられながら、勢いよく飲み干した。
クスリの苦みを覚悟していたが、無味無臭の液体だった。こくりと飲み込めば、体が熱くなる。この熱さにクスリを飲まされたときの記憶がよみがえってくる。
「大丈夫よ。力を抜いて」
優しい辺境伯夫人の声がする。抱き寄せられるまま体を預けた。
******
北の国から取り寄せた薬はとてもよく効いた。体調も良くなり、起き上がれるようになった。1年も寝たきりだったから筋力が衰えて、思うようには動かなかった。同じく1年をかけて、徐々に体力をつけ、最近ようやく自分の足で歩くことができるようになった。声も元に戻り、滑らかに話せるようになっていた。
まだまだ病気する前に比べたら完全に回復したとは言えないが、それでもよくなっていることが実感できる。
今日も庭を訓練を兼ねて辺境伯夫人と一緒に散策をしていると辺境伯がやってきた。いつもなら領地を見回っている時間なので驚いてしまう。辺境伯夫人もいつもとは違う様子に怪訝そうだ。
「どうかしたの、あなた?」
「イザベル王女」
辺境伯はわたしの前で膝をついた。畏まった態度に眉が寄る。嫌な予感に胸がどくりとした。
「一か月後に王都に戻ることが決まりました」
「王都に?」
震える声で聞き返せば、辺境伯も渋い顔をしている。
「王族とはいえ、一度も見舞いも様子伺いもよこさないような家族だ。できればこのままここに留めておきたかった」
「辺境伯」
彼の気持ちが嬉しかった。思わず笑みが浮かぶ。辺境伯は苦々しい表情で立ち上がった。そして手をわたしに差し伸べる。
「知っておいてもらいたいことがある」
「あなた……!」
驚いて声を上げたのは辺境伯夫人だった。夫に非難の目を向けた。
「イザベルは王女なのだ。本当のことを知ってほしいのだ」
「ですが、イザベルが背負うものではありませんよ」
「わかっている。だが、そうも言っていられん」
辺境伯夫妻のやり取りを聞いていて、重要な何かであることは理解できた。だが、それをわたしに言ったところで何になるのだろうか。
「わたしが知ったとしても何もできないと思うわ」
「それでも。この国のことを正しく知ってほしい」
正しく知る、ということがなんであるかはわからないが、辺境伯が必死であることだけは伝わってくる。
「わかったわ。教えてちょうだい」
わたしはこの国の魔道具について知ることになった。この国自体が魔道具によって支えられている。ここ数十年で魔力を持つ貴族が減り、さらには国の要でもある魔道具の作り方や使い方は失われた。魔力の低下により魔道具を使いこなせなくなってきたのだ。突然失われるわけではない。誰もが問題に気がつかない程度に徐々に情報が落ちていき、気がついた時には遅かった。今では魔道具を作ることさえできない。
魔力が少ない貴族が増えているのは知っている。事実、わたしのお母さまがこの国に嫁いできたのも魔力の持つ子供を期待してのことだ。そして、先祖返りだと言われるほどの魔力を持つクラウディお兄さまが生まれた。わたしはさらにそれ以上の魔力を持っていた。
そこまで考えて苦しくなった。息が上手くできない。
魔力がこの国に必要だというのなら、どうしてわたしは魔力をたくさん持っていたのにいらないと言われてしまったの?
「イザベル。顔色が悪いわ。これ以上は聞かなくていいのよ」
胸を押え黙り込んだわたしに辺境伯夫人が優しく声をかけてくれる。辺境伯もそれ以上は何も言わなかった。
「大丈夫よ。ちゃんと聞くわ」
「でも」
心配そうな辺境伯夫人から目の前に立つ辺境伯へと視線を向けた。彼はわたしの視線を静かに受け止めた。
「……魔道具。聞いたことはないわ」
「そうだろう。秘匿されているはずだ。だが、この国を支えるための大きな魔道具がある」
「その魔道具がなくなったらどうなるの?」
言葉だけで想像ができない。辺境伯は物わかりの悪いわたしに丁寧に答えた。
「国が消滅する。この国は暑い国だ。害獣を弾く結界、水、緑、すべて魔道具があるから保てている」
「え?」
「この辺境は魔道具へ注ぐ魔力が足りない。それゆえにこのように年々砂漠が広がっている。害獣が近くまで寄ってくるのも結界が弱まっているためだ」
苦しげな表情で辺境伯が告げた。辺境伯夫人がそっと夫に近寄り、慰めるように彼に手を添える。
「この領地は夫とわたし、そして息子の3人で魔力を注いでいるの。わたしたちでは今を保つのが精一杯なの」
「……わたしが注いだら、少しは良くなる?」
今のわたしにどのくらいの魔力があるのかはわからない。体調を崩してから考えないようにしてきたから、彼らの力になるのかもわからない。でも何もしないわけにはいかなかった。
少しだけ躊躇ったようだが、辺境伯はわたしを抱き上げると魔道具のある場所へと連れて行ってくれた。
******
不思議な小さな空間。
沢山の模様の書かれた壁に、中央にある台。その上には薄っすらと色のついた魔石があった。この部屋自体が魔道具なのだと説明されなくともわかるぐらい、異質だ。その異質な魔石から目が逸らせない。
「この魔石に魔力を込めると徐々に色が変わってくる。過去の領主の日記から、十分な魔力がある場合はとても濃い色になるらしい」
そっと近寄り、手を乗せた。わたしの手でも魔石はすっぽりと隠れた。冷たい感触が手のひら一杯に広がる。同時に、ぐっと中から引っ張られる間隔がした。短時間にごっそりと魔力が抜かれ、足に力が入らない。ふらつくわたしを辺境伯が支えた。ゆっくりと力の入らない手を握りしめ、魔石から離した。
「気分は悪くないか?」
「大丈夫。すごく持っていかれたけど……」
確認するように魔石を見れば、先ほどよりもわずかに色がついている。魔石の状態があまり変わらなかったことに愕然とした。わたしはクラウディオお兄さまよりも魔力が多い。あの薬を飲まされた後、魔力が減っているとは思っていたが魔石ぐらい簡単に満たせるものだと思っていた。
「王族の魔力でも満たすことができないのか」
期待外れだったのはわたしだけではなかったようだ。辺境伯の途方に暮れた声に胸が痛んだ。
「ごめんなさい。前のわたしだったらきっと……」
「ああ。すまない。責めているわけじゃないんだ。もうこの国も滅びに向かっているのかと思ってしまったんだ」
「どうしてそう思うの?」
辺境伯が未来に期待していないことを不思議に思った。だが、微笑むだけでそれ以上のことは教えてくれなかった。
王都に帰るまで一カ月ある。その間にここに魔力を注ぎ続けよう。そのぐらいしか辺境伯夫妻にしてあげられることが思いつかなかった。
待ち望んだ手紙が届いたのは、王宮に戻って十カ月のことだ。
一か月に一度、辺境伯夫人からは近況を知らせる手紙が届いていた。その手紙だけが楽しみで、与えられた離宮で一人暮らしていた。ここに戻ってきたことを報告する時に面会しただけで、両親とも兄達とも顔を合せなかった。
食事も一緒に取らない。体調不良で離宮に引き籠っていた。見舞いさえ来なかった家族だ。わたしが離宮に引き籠っていても誰一人来ない。お母さまでさえ、顔を見せたり呼び出したりしないのだ。
やはりわたしはいらない子供だった。事実がとても痛くて痛くて、何度も辺境伯夫人の手紙を読んでいた。これだけがわたしを愛してくれる人がいる証だ。
その手紙が届かなくなった。一か月を超えたところで忙しいのかと思った程度だ。二カ月になった時におかしいと思った。仕方がなく侍女に頼んで辺境伯の様子を聞いてもらったが、手紙は届いていないとの返事しかもらえなかった。三か月目になってようやく手紙が届いた。
待ち望んでいた手紙。
だけどその手紙は辺境伯夫人の書いた手紙ではなかった。
「嘘でしょう?」
書かれた内容に体が震えた。何度も何度も読み返しても、変わらない。
辺境伯領地内で害獣の暴走があり、その鎮圧に行った辺境伯は亡くなった。辺境伯夫人も領民を逃すために最後まで残っていたため消息不明となっている。
重傷を負いながらも生き残ったのは辺境伯の息子だけだ。彼の妻と子供も避難している途中で命を落としたらしい。
手紙を書いてくれたのは辺境伯の息子だ。自身も怪我がひどいのだろう。所々、字が乱れている。
辺境伯領地は一夜にして壊滅していた。
泣いて泣いて泣いて。
辺境伯の言葉を思い出した。魔力のある人間がいればきっとこんなことにはならなかったはずだ。
二人が命を懸けて守りたかった辺境伯領地を、優しい思い出のある地を元に戻したい。
そんな気持ちでわたしは自由になる時間で魔力と魔道具について調べ始めた。
******
閉じ込められた静かな部屋の扉が開いた。
わたしが連れてこられた場所はよくわからない。馬車に乗せられ窓を閉ざされての移動だったからだ。
王宮から出されて10日目。
豪華とまでいかないがそれなりの質の良い部屋に押し込められた。宿泊施設ではないことから、ここが最終目的地だ判断した。声をかければ侍女がやってくるので特に不自由はない。
馬車に乗っている間も誰も行き先を教えてくれない。先のことを心配している自分がおかしくて笑った。
もうどうでもいいのに。
結局、わたしは何もできなかったのだ。辺境伯の憂いを取り除くこともできなかった。国のために、と思ってとった行動は国には不要なことであった。ひっかきまわすだけで、唯一わたしを慕ってくれたエデルミラを不幸にした。これからのことが、エデルミラへの償いとしての罰なら甘んじて受けよう。わたしの存在意義などその程度しかないのだから。
扉が開いたのでそちらへと視線をやれば、驚きに息を飲んだ。
「どうして?」
辺境伯の息子だ。前辺境伯がなくなった後、一人生き残った彼に爵位が継承された。彼も重傷を負い、左足を失っている。杖を突きながら茫然と座っているわたしに近づいてきた。
溌溂として、少ししゃれたところのあった彼ではなくなっていた。10年以上の月日が二人の間には流れたのだと感じた。初めて会った辺境伯と変わらぬ年になった彼は貫禄があった。彼の中にも色々な葛藤や苦悩があったのだろう。どちらかというと明るい表情しか浮かべなかった彼の眉間には深いしわが寄り、眼光も鋭い。そして何よりも目を引いたのが頬にある抉られたような傷痕だ。
目の前で立ち止まると、彼はじっとわたしを見下ろした。どういうことか全くわからず、狼狽えた。
「どういうことなの?」
「イザベル、僕が君の夫になる」
「夫?」
そういえば、最後の方はよく聞いていなかったが結婚がどうのとクラウディオお兄さまが言っていたことを思い出した。クラウディオお兄さまは怒って色々言っていたが、あまり気に留めていなかった。不安と少し戸惑いながら、彼を下から見つめる。
「そう。こんな足が一本ない醜い傷痕のある年配の男の後妻になるのが君に与えられた罰になる」
これは罰なんかじゃない。
涙が溢れてきた。
お兄さま達にしたら王女であるわたしが王都を離れ、暮らすのが厳しい領地を持つ彼の後妻になるのは罰であろうが、わたしには全く違っていた。
「この結婚は君には不本意だろう。だから夫婦ではなくて、家族になってもらえないだろうか」
彼の方に手を伸ばした。
彼はわたしの手を取り立たせるとそのまま優しく抱きしめた。抱きしめた腕は力強く誰よりも信用できる。
その温かさに声を上げて泣いた。
Fin.




