38.意志決定
突然の政府の報道が終わってから数日。
内容の全く同じ放送は数回あったものの、続報はただの一度もなかった。
ラジオという媒体は緊急時のための手段として広く用いられる。そのラジオで何も続報がないのだ。
普通に考えるなら、怪しい。
ワクチンができました。
それはすごい。それで、どうしたらいいのかが全くの不明なのだ。
この放送を流した奴は頭がおかしいとしか思えなかった。
しかし、そう思っているのは俺だけだった。
黒川もエリシュカも嬉しそうにしていた。
エリシュカは、桑水流が起きたら北に行こうと言っていた。
黒川は俺に任せるという風なことを言っていたが、言葉の節々から普通の生活に戻りたいという思考が感じられた。というか普通の生活に戻ったとしても俺と一緒にいる前提で話していた。
北に行くのはダメだとは言えなかった。
数少ない知り合いと情報交換しようと病院へ行くと、そこはもぬけの殻だった。
横山の部屋に行くと、「ラジオの情報を聞いた。北海道へ移動する」というメモ書きと共にいくつかの医療品が置かれていた。
俺へのメッセージかどうかは知らないが、包帯などはありがたく貰っておいた。
このイケメンっぷりで相田を籠絡したのだろう。
しかし、横山は思慮の深そうな奴だった。その横山がすぐに移動したというのは衝撃的だった。
なんのことはない。全員、ワクチンが開発されるのを待っていたのだ。
俺だけが、不審に思っていた。
もしかしたら俺が3人と別れたくないのだけなのだろうか。
自分では絶対にありえないと思うが、ここで頑なに移動を拒むのは明らかにおかしかった。
だからこそ、その疑念を断ち切るために、3人がマトモな生活を送れるようにと、北への移動は必要なものだと思い始めていた。
続報がないことが、俺を焦らせていたのかもしれない。
人を殺したことを黒川に言う気もなくなっていた。
言ったところで、意味がない。
エリシュカには桑水流が起きてから言うと伝えたが、それは嘘になってしまうだろう。
……
待てど暮らせど続報は来ないが時間は過ぎる。
桑水流が寝てから一週間はあっと言う間に過ぎて行った。
桑水流が起きる予定の日、俺は桑水流の部屋で漫画を読んでいた。
病院に行ったら医者が主人公の漫画がたくさんあったのだ。
今読んでいる本の主人公、メスを投擲するのが上手い医者とかファンキーすぎる。
桑水流の眠るベッドに腰掛け漫画を読んでいると、いつの間にか桑水流は目覚めていた。
以前の教訓を生かし、今回は起きそうな時間に胸は揉んでいない。
ただなんとなく普通に起こしたくはなかった。
気付いていないフリをすることにした。
桑水流の方から布団のずれる音が聞こえる。少しあからさまな音だ。
それでも俺が起床に気付いていないのを見て桑水流は少し不満げな表情を作り、すぐに俺の服をチョイとつまんで上目遣いで喋りかけてきた。
「……あの、おはようございます」
「ん? ああ、おはよう」
漫画から目を切らずに答えた。
今いいところなんだ。みたいな感じで。
「あの……? 起きたんですけど?」
「そうだな。ほら、体温計」
体温計を投げて渡す。再び本を読み始める。
視界の端で、桑水流が体温計を服の中に入れたのが見える。
ただ、あえて何も反応しない。
「……」
「……」
無言の時が少し流れるが、すぐに体温計が音を鳴らす。
桑水流が体温計の表示を見ているのを横目に、漫画を読み進める。
「あの、平熱でした」
「だろーな」
桑水流の方を一切見ないまま、適当に答える。視界の端にギリギリ顔が見えるくらいだ。
血を飲ませている以上、発症しないことは予想していた。
それでも少し緊張していたので、少しほっとする。
「あの、その漫画、面白いですか?」
「それなり」
桑水流が明らかに俺と話したいです、みたいな雰囲気を出している。
その雰囲気がなんとなく面白いので、続行する。
「その漫画、医者がメス投げるんですよね。私も昔読んだことがあります」
「それなー」
「……」
ついに桑水流も黙り込んでしまう。俺は演技の止め時を失ってしまった。
しょうがないので漫画を読み続ける。なかなか面白いので持ってきてよかった。
そのままついつい一冊を読み終えてしまう。
本を閉じ、ようやく桑水流の方を向くと、彼女は布団の上で正座して待っていた。
礼儀正しい。でも少し泣きそうな顔だ。
「さて、気分はどうだ」
「……」
何事もなかったかのように話しかけるが、無言の抗議を受けてしまう。
まぁやりすぎたことは否めない。それっぽい言葉を言わないと泣いてしまいそうだ。
「綾乃が起きるのを、ずっと待っていた」
「……」
何度も使った手だったが、今度は効かなかった。棒読みすぎたのだろうか。
それとも、桑水流は既に俺が適当な言葉をすぐに口から出すことを看破していたのか。
どちらにせよ、俺には謝るしか道はなかった。
「悪かった」
「……」
許さないという視線を送ってくる。睨んでいるみたいだが、あまり怖くはない。
むしろ微笑ましいくらいの弱睨みだった。
これは許してくれるまで待つしかないのだろうか。
「どうしたら許してくれるんだ」
「…………なまたまご」
「ん?」
「生卵、食べたいです」
弱睨みのままそんなことを言ってきた。腹が減っているのだろうか。
何を言っているか全く意味不明だったが、桑水流は生卵が好きなことはわかった。
ただ、生卵などあるわけがなかった。
鶏など東京では見たこともなかった。
「……乾パンで勘弁してくれ」
「……」
「飴もやるよ」
これでもかとハッカ味の飴を見せてみた。
桑水流は許してくれた。
……
桑水流に謝った後、体調を少し確認する。
見る限り問題はなく、俺の血液の効果について確信を得る。
銃創については消毒と包帯の取り換えを行っていたためか、既に傷は塞がりかけていた。
包帯の取り換えをしていると、桑水流が口を開いた。
「あの、私が寝ている間、何かありましたか?」
「……少しな」
桑水流の目には心配の色が浮かんでいた、
桑水流が聞いているのは、エリシュカ達のことだろうか。
ワクチンの報道のような、状況変化についてだろうか。
俺の様子の変化についてだろうか。
「……? あの」
「数日前に、ラジオで政府の報道があった」
「え?」
「蟻の毒のワクチンができた、だと」
桑水流は大きく眉を顰めた。
驚いたのは間違いないのだろうが、少し違和感のある反応だった。
「具体的には……?」
「大したことは発表されていない。続報もなしだ。ただ限定的に効果のあるワクチンができた、だと」
「……?」
首を捻っている。
疑いの濃い俺から聞いたからかもしれないが、桑水流の反応は芳しいものではなかった。
そのことが、少し俺を安心させる。
あの発表を直接聞いたらまた変わってくるのかもしれないが。
「それで、どうするのですか?」
「……綾乃の意見はどうだ」
「……様子を見たいです。情報が少ないと思います」
ワクチンができたと聞いて、エリシュカと黒川はその先の生活を想像していた。
桑水流は自分たちのこれからの動きを考えている。
この辺、桑水流はしっかりしていると思う。
もちろん、感染の恐怖がないからというのもあるだろうが。
「悪いが、俺達は続報をそれなりに待った」
「……でも」
「黒川とエリシュカが乗り気だ。ワクチンの数を心配している」
「……」
「足りなくなるかもしれない」
「白沼さんは、どうしたいのですか」
行きたいわけがなかった。
しかし、3人にこれ以上こんなサバイバルか略奪しかない世界で生活をさせたくなかった。
そこから脱出することを、止めたくはなかった。
それを止めることが、冷静な意見ではなく、俺のエゴのように思えてならない。
現状で不満がないのは、幸せのハードルの低い俺だけなのだ。
「北に、行こうと思う」
冷静な意見ではなかった。
天邪鬼さと自分への冷静過ぎる観察が、俺の冷静な意見を封殺してしまった。
それでも、俺は舵を切ってしまった。
「明日くらいに、出ようと思う」
桑水流は俺に反対意見を言わない。
それを知った上で、選択をした。
情報がないのなら、自分から動いて見に行くしかない。
心の中で、そう言い訳をした。
桑水流は納得していないような表情で、しかし首をゆっくりと縦に振った。
その表情を見ていると、背後のドアが開く大きな音がした。
「もう起きたかやー!」
「寝すぎー!」
元気のいい二人が入ってくると空気が一気に変わってしまう。
俺の思考やその場の空気は吹き飛んでしまった。
というか、黒川の寝すぎって言葉はなんだ。お前も以前かなり寝ていただろう。
「おはようございます」
桑水流は咲き誇る花のような満面の笑みを見せる。
それを見て、黒川とエリシュカが笑顔で桑水流へと突進する。
エリシュカは二人には触れることはできないため、抱き合う黒川と桑水流を見ながら悔しそうに歯噛みをしている。
俺に入る余地はない。
寝起きをシカトしたのはまずかったな。
いつの間にか家族のように仲良しになっていた3人を見ながら、俺はそんなことを考えていた。
少しの間3人がじゃれ合うのを見ていた。
こいつらの脳みそが平和だなと思うが、いい加減話をしないといけない。
「さて、これからのことだが」
3人が姦しくなってしまう前に口火を切る。
じゃれ合うのは俺がどこかに行ってからにしてほしい。
「ワクチンのことじゃな」
「だね!」
二人の態度から、やはり北に向かうことは避けられないと思う。
桑水流には既に説明していたので、彼女は小さく頷いた。
「はい、聞きました。北に移動するんですね」
「そうなのじゃー」
「安全地帯ってどんな感じなのかなー」
元々、若い女性にこの生活はよくはないのだ。
鬱憤がたまっていたとしてもおかしくはないのだ。
「ああ。明日には出ようと思う」
桑水流以外の二人は大きく頷いた。
桑水流は、こちらを意味深に見ながら小さく頷いた。決定だ。
「安全地帯に行ったら、一緒に暮らそうね!」
黒川のその平和な言葉は、俺には叶えられない。
俺は安全地帯には入らない。
検査などもあるだろう。俺の自由が奪われる可能性まであるのだ。
「そうだな」
いつものように、軽く嘘をついた。
自分で思った以上に、完璧な表情と声色で演技をすることができた。
それまでの適当な演技ではなく、本気の演技だった。
俺の言葉に、黒川は嬉しそうな顔をする。
エリシュカはもう誰も失わない未来に目を輝かせている。
桑水流は俺に違和感を持ちながらも、俺のずっと一緒にいるという言葉を信じているのだろうか、2人に見えないように後ろの手を握ってきた。
俺もその光景を見ながら、小さく微笑んだ。
心の中は全く笑っていなかった。
北には行く気がしない。
でも、こいつらは安全地帯に行くべきだ。
そこまでは、俺が連れて行ってやろうと思う。
報道の内容が怪しいことなど、関係なくなっていた。
悪い知らせではないはずなのだから。
ワクチンが足りなかったとしても、東北あたりで順番を待てばいいのだから。
その報道が俺たちに危険を及ぼすなどと、考えもしなかった。
それから荷造りを始める3人は、どこかへピクニックにでも行くかのような様子だった。
あれが必要だ、これも便利だ。持って行こうと。
そうはしゃぐ3人を尻目に、俺は静かに車の様子を見に行った。
現状ガソリンはほぼ満タンなので、どこかで一度補給ができればいい。
車の様子なんて、見るところなど何もなかった。
ただ、一人で静かにタバコでも吸いたかった。
3人が嬉しそうにはしゃぐ姿は目に悪い。煩い。
このような現状なら、なおさらだ。
冷静になって考えをまとめていると、そう言えばと思い出すことがあった。
エリシュカは、北の人間に受け入れられるのだろうか。
他にもいくつか疑問や心配事が浮かぶ。
しかしその全てが、行ってみないとわからなかった。




