煤牛かんなという女 弐
「アタシさ、陸上辞めたんだー。」
家から学校までの中腹あたりで、彼女はそう言った。
彼女は、中学時代は3年間陸上部に所属しており、3年次には部長も務めていた。生粋のスプリンターであった彼女は、県大会でも短距離走の大会新記録を塗り替えるほどの天賦の才の持ち主だった。
その彼女が『陸上を辞めた』と言う。流石の俺も、言葉を失った。
「おっ。『なんで』って顔してる。……まぁ、理由はいろいろあんだけどな……。」
彼女は俺の目を見てそう言う。
俺に心当たりは無い。なぜなら、《《あの出来事》》はもう終わったことなのだから。あの、中学2年の冬に。
「……部活はどうすんだよ。ここの高校、中学と同じで、1個以上入んないといけないだろ。」
「そうだなー。どうすっかなー、って。」
「まだ決めてないのか? 入部届の提出、今日までだろ?」
「んー。まだ決めてない。運動部もいろいろ見学したけど、なんかイマイチピンと来ないってゆーか。」
その時、俺は担任の言葉を思いだした。
『あとお前だけだぞ』と奴は言っていた。
だから大人は信用できないのだ。俺を焦らせるために、奴は嘘をついたのだ。ここにも未提出の輩がいるというに。
「……夏瑪はどうすんだ? そう言うってことは、もう決めてんだよな?」
「……まぁな。」
「……。」
「……なんだよ。」
「いや、言えよ!? 何部に入ったか言えよ!? 待ってんだよコッチは!?」
「……そうだなァ……。」
傍からは絶好のチャンスに見えるだろう。
『生物研究部』に入部してくれる生徒を探している俺の前に、まだ入部届を未提出の、さらには顔見知りの、カモがいるのだから。
もし俺の隣に仲間のハンターがいたならば、『何をしている!? 撃て!』と俺を急かすハズだ。
しかし、隣のハンターは『俺』と『カモ』の関係を知らない。この『カモ』は『俺』にとって、並々ならぬ因縁があるのだ。簡単に引き鉄が引けぬほどの、複雑な縁が。
「……美術部。」
「! やっぱそうなのか! そうだよな、夏瑪、絵描くの得意だったもんな!」
俺は『美術部』と中学時代に入っていた部活の名を口にした。ただ、独りごちた。
だから、こいつが何をどう勘違いしようと、俺に責められる理由はない。
「そっかー、中学からだもんなー。アタシ、夏瑪の描く絵好きだからさ、続けてくれるの嬉しいよ。」
「……おう。ありがとう。」
絵を褒められたことには、素直に感謝しておこう。残念ながら、部活として続ける気は無いが。
しかし、中学時代、彼女に俺の絵を観せたことはあっただろうか。どこかのコンクールに出品したのを、一般公開などで目にしたのだろうか。
「……あの……さ。」
「なんだ?」
少しの沈黙のあと、学校の校門が見えてきた頃、改まった様子で彼女は口を開いた。
「その……。」
「……?」
「おはようございまーす!」
彼女が言葉に詰まっていると、前方から挨拶が飛んできた。
校門の前には、なにかしらの委員会活動だろうか、生徒と教師が数名立って、『挨拶運動』というやつを行っていた。
「お、おはようございます……。」
「……おはようございます!」
俺と煤牛がそう返すと、こちらに挨拶してきた女生徒は、ニコリと笑顔を向けてくれた。
「……びっくりしたな。……で、続きは?」
「……ううん。やっぱなんでもない! じゃ、アタシ先に行くわ! またなー!」
「は? おい……!?」
彼女は先ほどの陰気な様子から一転、元気を取り戻して下駄箱に駆けて行った。
あんなやつでも、何か隠しておきたいことがあるらしい。
俺はどこか、積年の肩凝りが和らいだような気がしたが、同時に、えも言われぬ不穏というか、悪い予感のようなものを感じていた。