第三十一話 再会
胡蝶は馬上にいる。
風丸より一足先に秀康の屋敷の外に出、彼が追いついてくるまで夕暮れの中に佇んでいるつもりだった。
彼女の目が鋭く夕日をにらみつけている。
彼女は兄を思い出していた。
兄、つまりは元のことである。
元は胡蝶を風丸に押し付けるようにして行ってしまった。
胡蝶にしてみれば、正直なところ、薄情な話である。
この元の行動によって、彼女の拠り所は風丸以外にはなくなってしまったのだ。
(……不満があるわけじゃないけど)
薄情であった。
もう顔もおぼろげにしか思い出せない。
「……どうしてるのかな」
と、その時。
背後の茂みに何者かの気配を感じ、胡蝶ははっと身構えた。
「誰!?」
返事はない。
しかし胡蝶には確信があった。
馬に向きを変えさせ、右手の茂みをにらみつけた。
「誰だか知らないけど、隠れることもないでしょう。こんな小娘に怯えているんですか?」
(ぬかせ)
茂みの中の男はそんな風に挑発されて黙っているわけにも行かず、逆光の只中にいる少女の前に出てきた。
武士である。
旅装しているらしい。
鎧はつけていない。
彼は手をひさしのようにしてまぶしそうに胡蝶を見ている。
顔はよく見えない。
ともかく大柄である。
彼は苦々しげに言った。
「……どこの誰かは知らないが、ずいぶん失礼なじゃじゃ馬だな」
「あら」
危ういにおいがしたが、胡蝶は強気に笑った。
「名も名乗らず影から覗き見ているようなお方に示すような礼儀はありませんよ」
いざとなれば、隠し持った小太刀で斬りかかるつもりだった。
男から見えないほうの左手をゆっくりと回し、その柄を掴んだ。
武士はゆっくりと円を描くように移動し、光を避けた。
視界が一瞬暗くなり、それからじわじわと「馬上の小娘」の顔が識別できるようになる。
(……ほう……)
皆がそうであるように、この男も驚いた。
(……太陽がなくとも後光が差しているようではないか)
まさか、と思った。
「……お主……胡蝶か?」
胡蝶ははっと目を見開き、その男の顔を見つめた。
口ひげといい、頬の刀傷といい、筋肉の鎧をつけた体付きといい、猛々しい野武士、といった風貌である。
見覚えはない。
「胡蝶、だな?」
武士はニタリと笑った。
胡蝶はぞっとして身を強張らせた。
瞬間、武士が一歩で距離を縮め、がしりと胡蝶の右手首を掴んだ。
「痛!?」
胡蝶はとっさに手を引っ込めようとしたが、男の力が強く、振り払えない。
「俺だ!!」
その声と同時に、どうやったのか胡蝶の身体がぐわりと持ち上げられ、足が荒々しく大地の上に叩きつけられた。
そのせいで胡蝶は自ら立っておれなくなり、男の胸に飛び込むように寄りかかるような形になった。
すかさず男の腕が胡蝶の腰に回り、彼女を抱きすくめた。
胡蝶が声を出せないほどの一瞬である。
おぞましい悪寒が走った。
ほとんど瞬間的な空白の後、胡蝶の手が後ろに動いた。
信じられぬほど早く動いた。
左手にはすでに小太刀が握られている。
それを後ろ手で抜刀しようというのだ。
彼女はこの間合いのない状態から、小太刀の切っ先を男の喉に一気に突き上げ、己の身を守るつもりだった。
彼女が鞘を払いかけたその時。
「俺だ、胡蝶!」
男の血生臭い息が顔にかかり、胡蝶は息を詰まらせた。
「元だ!」
(……えっ)
胡蝶は息を止めて男を見上げた。
そんなまさか。
驚いて見上げると、彼はまた胡蝶をぞっとさせるような笑みを浮かべた。
「なんじゃ、お前、たった一人の兄の顔も忘れたのか!?」
そうかもしれない、と思った。
どこにも昔の面影を見出せなかった。
胡蝶の戸惑いを見て、男は自分の頬の傷に手を当てた。
「あぁ、この傷か? これは戦場で負うた傷じゃ。このお返しにその無礼もんの喉を貫いてやったがな!」
豪胆というよりは無神経な笑い声。
兄を懐かしむ気持ちより嫌悪感が勝った。
笑い方だけではない。
一物を押し付けるような抱きすくめ方、今にも身体を撫で回しそうな手付き、すえたような臭い。
笑い終えた後にもその口元に残る下品な笑み。
(……嫌だ)
とはいえ胡蝶は、小太刀をそっと帯に戻した。
いや、戻さざるを得なかった。
身は強張ったままである。
彼女は息を止めて男を見上げた。
「……元兄さん?」
「なんだ?」
「手を離してください」
しかし、彼はニタリと笑っただけで手の力を緩めようとしない。
「まぁ、もう少し待て」
胡蝶の言葉を封じ込めるように、彼はさらに続けた。
「風丸は達者か?」
胡蝶が顔を背け、口から息を吸い込んでそれに答えようとした時だった。
「手を離せ」
抜き身の刀のような冷たく鋭い声がした。
胡蝶は男の身体が強張るのを感じた。
見上げると、彼の喉元に太刀の切っ先が突きつけられていた。
風丸である。
彼はいつの間にか男の真横に立っていて、その刀傷を憎悪の目で見つめていた。