伍
別れはあっけないものだった。
「お家に帰りたい」
そう言って、ホウギを沼へ連れ出すのは簡単なことだったから。
月明かりに照らされたヌワの瞳は真っ青に染まった。みなぎる力を前にして、ヌワがひっそりと笑う。
「ごめんね。ホウギ」
「謝るなよ」
ホウギの声は震えていた。
「俺、わかってたよ。ヌワは違うって、言い聞かせてただけだ」
「やっぱり知っていたんだね。……だったらもっと、ごめん」
ヌワはやっぱり後悔した。
ホウギに辛い傷を残してしまった。ホウギは一生、罪を背負って生きていかなければならない。
青の国の娘に種を残し、捕り逃したことを――。
「私たち、関わるべきじゃなかった」
ヌワがホウギの元から離れる。
待ち伏せしていた兵士が茂みのなかで弓を引く。
「待て、ヌワ。俺と共に来い」
「駄目よ、ホウギ」
「俺と暮らそう。不自由はさせない」
「駄目よ。ホウギは綺麗なお嫁さんと、幸せになって」
ヌワのその言葉にホウギは少し間を空け、やがてこう言った。
「結婚、しない。ずっとヌワを待ってる」
茂みがざわつく。
「駄目よ、ホウギ」
「待ってる」
「ホウギ、やめて。待っていたって、あなたのその美しい顔が干からびるだけよ」
陸と海をつなぐ通り池には百年の時の歪みがあるのだから。
見ていられず、ヌワがホウギから目を反らし最後に視界に入った人間は、繁華街でホウギを呼び止めた男だった。男の弓矢はヌワの心臓を狙い、迷いなく放たれた。
「ホウギ様……!」
矢が貫いたのは、ホウギの手のひらだった。
「ずっと、待ってるから」
地に崩れるホウギに背を向け、ヌワは沼へと飛び込んだ。
振り返らなかった。
ホウギの着物を着たまま、一度も立ち止まることなく、通り池を突っ切った。
「さようなら、ホウギ」
通り池を抜ければ、海の世界。陸と百年の時差ある、深い深い海の底。
今から戻っても、もうホウギは生きていない。
瞬くたびに陸のホウギは早送りで老いていく気がして、ヌワは体を休めぬまま青の国を目指した。
「言ったでしょう。待っていたって、干からびるだけだって」
城まで半日もかからなかった。
ヌワはホウギの死を悼みながら、玉座を前に頭を垂れた。
青の王は娘の早い帰りに機嫌よくにっこりと訊ねた。
「可愛いヌワ。赤い石は沢山とれたかね」
「申し訳ございません、お父様。ヌワにはできませんでした」
「できなかった……、だと?」
王は一瞬にして形相を険しいものへ変えた。
「可愛いヌワよ、この国の掟を破ったというのか」
「はいお父様、その通りでございます」
「ヌワよ、なぜだ。この国で誰よりも美しく強いそなたが――」
玉座から腰を浮かせた王に、周りの従者が槍を持ってざわめきたつ。
「なぜ、愚族ひとつ滅ぼせなかったのだ」
隣の椅子に体を預けていた王妃はヌワへの蔑みに、ばかな娘と眉をひそめた。
青の国は海を荒らす人間を嫌う。
世界を平和に保つために陸の人間に罰を与えるのは王族の務めだ。
その初仕事が沼のほとりの住人を殺すことだった。
祖母の代では稲畑の小さな農村だった。
祖母は村民を畑ごと焼き尽くした。
母の代は、風車小屋の建つ田舎街。風車の羽に毒を塗り、ねずみ一匹逃さなかった。
その土地の住民は赤子ひとり残らず殺しても、どんなに時を経ても、瞳の色が赤い。だから、赤い石。
成人を迎える皇女は住人からくり抜いた目玉をひとつ残らず冠に嵌め込み、戴冠式を望む。
それが青の国の試練だった。
「お父様、お言葉ですが、あの者たちに罪はありません。海と何ら関わりのない者たちです」
ヌワは街を歩き、人々に触れ、その温もりを知った。海の底にはない、日の光のように明るい国。
燃やしたくない、汚したくない。
海を汚さぬ種族ならば、尚。
「その幼い目で采配を下したとでもいうのか。愚かな、それは玉座に座る私の役目だ」
「しかし――」
跪きながら懐を押さえるヌワ。その小さな手のなかに白いかたまりと赤い刺繍をみつけると、王は豊かな髭の奥で青ざめ、そして立ち上がった。
「愚かなヌワよ。お前の王位継承権を剥奪する。皆の者、この娘を国から追い出せ」
「そんな……! お父様、お母様!」
母である王妃は蔑んだ目をぴくりとも動かさず、背もたれから動かない。
ヌワは城の兵士に鋭い槍を向けられ、あっという間に城の外へと追い出された。待っていたのは海の住人。海の住人は海を裏切る者を許しはしない。ヌワはうた歌う魚たちに突かれ、仲良しの蟹にはハサミで斬り付けられ、深い深い海の底を執拗に追いかけられた。闇雲に逃げていたはずなのに、気付けば通り池。
その行き先はひとつしかない。
――ホウギが生まれ育ち、土に還ったあの国で、私は生きていけるだろうか。
でも迫り来る追っ手を前に他の逃げ先が思いつかず、ヌワは通り池へと滑り込んだ。形見となったホウギの着物を着たまま。一心不乱に。
泳ぎきれば残酷なことに、沼は相変わらず光の粒を集め、きらきらと輝いていた。
「なんて美しんだろ……」
ヌワはきれいなものが好きだ。
この水面も、その向こうの陸の世界も。
ホウギも。
「ホウギに……会いたい」
もう二度と会えない、美しい人。
ヌワはホウギを抱くように、着物の袖を握り締めた。
「ぼくは! ぼくのこと忘れてない!?」
ヌワがぼんやりと水面を見上げていると、岩陰から声がした。
「スバル!? 見違えたわ!」
スバルは岩陰そのものだった。大きくなったヒトデ柄の模様をかつかつ叩くと、ばあっ、と首が、四肢がでる。ヌワがすっぽり入るほどの大きな大きな甲羅、すごい貫禄だ。
「大人になったんだね」
やはり百年の時の歪みは変わらず、こうして現実となって目の前に現れた。ヌワは途方も無く溢れ出す悲しみを笑みに変え、スバルとの再会を喜んだ。
「前はこの頭ひとつぶんもなかったのに」
「ふふ、成長したのさ、がぼぉっ」
「わあ、きれい」
成長したのにまだ水に溺れるの?
ヌワが一段と大きくなったスバルの泡に見惚れていると、スバルの大きな体が水面へ吸い上げられていく。
「がぼがぼぉっ」
「スバル!」
追いかけたヌワもまた網に腕をとられ、みるみるうちにほとりへと打ち上げられた。
「さすがに竿が折れるかと思った」
頭上の木の枝から声がするが、見上げてもお日様の眩しさで目が開けられない。
それでもヌワはその声で誰だかすぐにわかった。
大好きな声。
少しだけ、垢抜けた。
「ホウギ……?」
「ようヌワ、百年ぶり」
一瞬、ヌワがホウギ会いたさに時空を遡ったのかと錯覚に陥ったが百年。確かに百年と聞こえた。人間なら今頃、土のなかで骨になっている。
しかしまぶた裏に映る影も声も、若きホウギそのものだ。ヌワは現実にありえるべき答えを影に求めた。
「ホウギのこども、それともまご?」
ずっと待ってるだなんて言って、ちゃっかりお嫁さんを貰っていたんだわ。真に受けた自分が馬鹿みたい。
ヌワは嬉しくて笑った。
ホウギの人生が幸せだったのならそれだけで、海へ帰った自分を誇りに思える。
「相変わらず失礼な女だな。約束は破っていない」
しかし影はどこまでもホウギだった。
「百年は長かったぞ。なあ、スバル」
まるで一日、二日のことのように言うと、木の上の人影はスバルの硬くなった甲羅の上に飛び降り、絡んだ網を外し始めた。
「おかげですっかり大人になっちまった。赤蛇族は陸亀と寿命が同じなんだ」
「赤蛇族……?」
涙を潤滑油にして目をこする。少しずつ、少しずつまぶたを開ける。
影は今、ヌワの手に絡む網も外そうと、肩が重なる距離まで近付いていた。その瞳がきらりと、赤色に輝く。
「そうだ、ヌワ。俺は人間じゃない。でもそれは、ヌワも同じことだろう?」
ヌワは素直にこくん、と頷いた。
ヌワは青の国の王家の血、青蛇族の血をひいている。青蛇族は海亀と同じ寿命だ。
「赤の王に聞いた。世界には陸を司る赤蛇族と海を司る青蛇族がいる。でもふたつの種族は相入れることはない。陸と海には時の流れに百年もの時差があるからって」
両者を隔てるものは時間だけではない。海は海を侵す陸を嫌い、陸は荒む海を嫌った。
陸が海に魅せられ水に足をつけるたび、海は人を拐い、船を沈める。
だから赤蛇族は海を捨て、海を離れた。
それでも人間たちは海を諦められず、侵略の手をとめない。
青蛇族の怨みは募るばかり。
やがてその矛先は赤蛇族へと移っていった。陸を司る赤蛇族を滅ぼせば陸は衰え、人間たちは苦しむ。一度赤蛇族を殺してみれば、なんとその血は青蛇族の魔力となるではないか。
青蛇族の魔力は女だけのものだ。その力の成長も十五歳で止まる。赤蛇族の血を知った青蛇族は王族にその力を蓄えんと、戴冠式前の皇女へ試練を与えることに決めた。
こうして生まれたのが青の国の試練だった。
一方で、赤蛇族は青蛇族に滅ぼされ続けた。
創り上げた村や街は千年経たず跡形もなく消されてしまう。それでも赤蛇族は長い長い歴史のなか、石を削り、紙に残し、その凶事を語り繋いでいった。
青蛇族は第一皇子の戴冠式の前日、満月の夜に現れる。碧い瞳をもつ若い娘たったひとりが、沼から現れる。それを学んだ赤蛇族は滅ぼされる前に沼で娘を殺そうと、待ち伏せることにした。
娘が油断するよう、同年の者に託そう。
皇子が国を救ったとなれば箔がつく。
こうして生まれたのが赤の国の試練だった。
「お姉様が帰ってこないのは……もしかして」
赤蛇族に殺されたから。
それも、ホウギと同じ血が流れた王族の手で。
ぞくり、ヌワの背筋が凍る。
「ああそういえば、百年前に沼から現れたヌワの姉は俺の叔父と駆け落ちしたぞ」
「えっ」
「駆け落ち先はぼくに聞いてね、なんせ仲人はぼくの父ちゃんなんだから」
スバルがにょい、と首を伸ばす。
「また百年後の戴冠式には妹が試練にやってくる。どうかこの素晴らしき赤の国を青空の下、自分の目で確かめさせて。これがヌワの姉ちゃんからの伝言さ」
「では、スバルは最初から私を陸へ上げようと……?」
「溺れたのはマジだ。ぼくは陸亀だからな」
自慢げに言うので、ヌワは吹き出してしまった。笑い声と一緒に涙も吹きこぼれる。
頰に流れる涙を拭うその指の感触を、ヌワは知っていた。
「ヌワの姉が赤蛇族の国を滅ぼさなかったため、この百年で赤の国は最盛期を迎えている。ゆえに赤の王――父も二度目となると寛容になってな」
――幸せになって。
ホウギはヌワが残した言葉を、父である赤の王に告げた。
ヌワはホウギの幸せを、未来を願った。ヌワは二度と国を滅ぼしに来ることはしないだろう。
それを聞いた赤の王はホウギにある提案をした。
赤蛇族の国を滅ぼせなかった娘は海の底へ帰ったところで、王に追放されるだろう。娘はきっと沼へと戻ってくるが、陸と海には百年の歪みがある。
「だから父は言った。俺が百年待てたら、許すってさ」
涙に濡れたヌワの瞳は光に馴染み、黒く輝いていく。
瞳が黒くなるにつれ、影は色付いていった。
涙の奥でホウギの姿があらわになる。
「それにしたって百年は長かったぞ、若い男にひどい拷問だ」
そして煌めく赤い瞳。
ホウギは百年老いたようにはとても思えない、それでいて精悍な青年へと成長していた。
「きれい……」
ホウギはきれいだ。この世界の誰よりも輝いてみえる。
ヌワは恐る恐る懐に入れたふたつの膨らみをホウギに見せた。ひとつはもう、ひびが入り始めている。
それをみたホウギは美しい顔に満面の笑みを浮かべ、手を広げた。
「陸の世界へ、ようこそ」
ヌワは自らホウギの胸のなかへ飛び込んでいった。
‐おわり‐
最後までお読みいただきありがとうございました。