空想から科学へ
夢と、魔法と、記憶の話です。
『全てのものは実在しており、また、存在しない。なぜならば、万物は流動的であり、常に変化し続け、絶えず形作られ、絶えず消滅し続けていくからである。』
――F.エンゲルス
***
《1934年2月・ソビエト連邦首都・モスクワ市某所》
その日は、ひどく雪の降る冬だった。少なくとも、そういう記憶がある。
この日の夜。少し前に党大会が終わって、今の私がモスクワにいられる最後の日。
明日にはまた私のいるべき、いや、「そこにいろ」と命じられた場所に、帰らなければならない。
何故ならば私は、この街にいる自由も、権利も、失ってしまったからだ。
数年ぶりのモスクワは、ひどく懐かしかった。しかしそれでも、大きく変わっていた。
ただ、その変化を、私は控えめに言っても好ましいとは到底思えなかった。
出発が朝に迫る中、それまでの最後の自由な時間。
私は自然と親友の、コーリャの家を目指して、無心に歩いていた。
折角だから、会いたかった。顔を見たかった。話したかった。
かつての若かりし自分が聞いたら、顔をしかめるような、革命家に似つかわしくない感傷。
理由も分からず、孤独を慰めようとしていたのだ。
一歩、一歩、また一歩と雪を踏みしめる。顔に吹き付ける夜の冷気。肌に触れる雪の冷たさ。
感覚が鋭敏になる。むしろそれの方が良かった。
今の自分の惨めさを、過去の屈辱と現在の絶望を、直視しないで済むからだ。
勝手知ったるクレムリン、私のかつての職場。そして私たちの家族の家。
訪ねたい人物の部屋は、私がモスクワ旧市街の接収住宅に住んでいた時と、場所も何も変わっていなかった。
事務員であろう若い女に要件を伝え、先導する彼女の後ろを歩み上階へと至る。
二人きり故に直視せざるを得ない分厚い化粧と、充満する安っぽい香水の香りに吐き気を覚えそうで、それ以外のことが漠然として感じられた。
どのくらいの時間が経過したのか分からないが、目的地の扉にたどり着き、住人を呼び出す。
「すみません。コーリャ――ニコライ・イヴァノヴィチはここにいらっしゃいますか?」
「はい、どちら様でしょうか?」
扉のうちから聞こえてきたその声は女性のものだったが、どこか聞いた記憶があった。
ただ、記憶にある彼の妻ではない。ナデジダ・ニコラエヴナでも、エスフィリ・イサエヴナでもなかった。かなり若い上に、どこか甘く、浮かれていた。声だけ聞けばそんな印象だった。
「あー、そうですね。”男爵令嬢”が来てやったぞ、とでも言ってくれませんか?」
「はあ。……分かりました。少しお待ちください。」
そう言い終わると家人は部屋の奥へ行ったのか、沈黙が戻った。
なぜか、自分でも感じたことのない感情が、一瞬心のなかに生まれた気がした。
とはいってもせいぜい三分も経っていなかっただろう。男は少し急いでドアを開けた。
「やあ、ソフィー!久しぶり!よく来てくれた!我らが男爵令嬢!」
彼の昔からよく見知った子どものような無邪気な笑顔が、外の気温から私を温めてくれたような気がした。
「相変わらず騒がしいわね。……遅いわよコーリャ、連絡したでしょ。」
「ごめんごめん。ちょっと色々あってさ。ささ、上がってくれ。」
「うむ。よろしい。」
昔のような砕けたやり取りをしながら、部屋へと入ることができた。
「あなた、その人は?」
最初に問答をしていた若い女が、部屋に入ってきた私を見てコーリャに問う。
「ああ、言ってなかったっけ。ソフィーだよ。ソフィア・アレクサンドロヴナ。」
「えっ、ソーニャおばさん?」
二人のそのやり取りに面食らっていたのは、むしろ私だった。
「……コーリャ、彼女は?」
外套の雪を払い終わるなり尋ねると、予想外の答えが返ってきた。
「おいおいソフィー。君のご自慢の記憶力は一体どこに行ったんだよ。中年になって衰えたか?アンナ・ミハイロヴナだよ。ラーリンの娘の。」
「はあ?」
思わずかなり大きな声が出ていた。
「いやだから、ミハイルの……」
「いやいや、そういうことじゃないわよ、あのアーニャでしょ?まだ子供じゃ……」
コーリャは目の前の若い女を「我々の同志の娘だ」と主張していた。
ただ、私の記憶では、その彼女を最初に見たのは幼児の頃だった。そこから知っているので、子どもの姿ばかり思い浮かび、目の前の若い女と一致しない。
「もう20歳、立派なレディだよ。ねえ、アニュトカ。」
「そんな……。誕生日なんて先月来たばかりだし……。」
アンナはひどく照れていた。顔の赤さが照明で妙に目立って見えた。
率直に言って意味がわからなかった。といっても今や年齢のことではない。
確かに、聞いてから逆算すれば、計算上合っていた。確かに、よく見れば、かつての面影がその女にはあった。
あの子供が大人になったなら、こうなるのだろうと理屈では納得できた。
しかし、問題は最早そこではない。晩餐の時間はとっくに過ぎたような時間、彼とアンナがなぜ二人でここにいるのか、ということだった。
コーリャは私と同い年。なので今年46歳のはずだ。
身も蓋もないことを言えば中年盛りのはずの彼が、20歳の女と共に夜に二人きりでいるのは、この形容を使うのは本当に大嫌いなのだが、”普通ではない”。
「ちょっと待って。なんであなた達、こんな夜中で二人でいるのよ。」
「ああ、もうすぐ結婚するからね。」
彼の答えは実にあっさりとしていて、それが私たちを困惑させた。
「えっ?」
「いや、だから結婚……」
「えっ?」
完全に頭の回転が止まっていた。
「そうなんです。ソーニャおばさん。私たち、もうすぐ結婚するんです。」
「というわけで、君の疑問の答えがそれというわけだよ。お分かりかね、シャルロッテ・ヘレーネ。」
「嘘……でしょ……。」
驚愕のあまり、本来好きではない自分の本名を、かつて捨てたはずの名前を呼んでからかってきたコーリャに、反応することすらできなかった。
初めて出会ったのはもう20年以上前。昔っから、この少年のような男は、妙にモテていた。
自分は特段、恋愛のことについて詳しくない、経験もろくにない、そもそも基本的に好きではないのだが、それでもすぐに分かった。
人を引きつける何かがあるのは、私だって彼の美徳であると思う。だからこそ、彼という友人は私にとってかけがえのないものだった。
しかし、それにしたって、いくらなんでもコレは年齢差というものがあるだろう!
――と、そのように思っていたが、二人の親しげな、だがどこからどう見ても深い仲の男女のそれである様子を見て、二人は夫婦になるという現実を受け入れざるを得なかった。
やがて客間に通された。アンナは婚約者に促され紅茶を淹れに行く。
「……いやー、しかし本当に久しぶりだねソフィー。5年くらいか?それくらいは会ってなかったよね。」
「まあ、お互い色々あったから。私は党のために、地方をドサ回り、ってとこかしら。」
「ふっ。君の勤勉さには、いつも頭が下がるよ。」
少しだけ、本音と言うにはお互い取り繕った部分が多かった。私たちは互いに、クレムリンに君臨する主にひどく打ち負かされた身だからだ。
そして今の私は、目の前の彼と違って、残りの人生に希望を見出せていなかった。
笑い方が、昔と違ってぎこちないし、声もかすれていた気がした。
「あなたこそ、今回の党大会で『イズべスチヤ』の編集長になったんでしょう。……良かったじゃない。素晴らしい仕事よ。」
どうにか誤魔化そうとしたのか、自然と話す方に意識が向いた。
「ああ、そうさ。本当にとてもホッとしたよ。……まあ、だからアーニャと結婚しようと思えたのだけれどね。」
「正直、まだ飲み込みきれてないけど……本当に、色々あったのね。」
紅茶が食卓の上に来て、一口飲んで、同時に何か別のものを流し込んだ気がした。
しばらく、しかしそれなりに長い時間、他愛のない色々な話を、延々としていた。
会ってなかった日々の話。二人の馴れ初め。最近読んだ論文の話。過去の思い出。
本当に話題は尽きなかった。
コーリャは実によく喋った。彼はいつもそうだった。思想と理論の人間は、言葉が止まらない。しかしそれを抜きにしてもこういう人物なのは、昔から付き合っているのだから良く知っている。
私はかつてのように相槌を打ちながら、この部屋の空気を、この男の声を、ただ吸い込んでいた。
ふとコーリャが机を立つと、相変わらず山のような蔵書がある本棚の前で立ち止まり、振り返った。
「……なあ、ソフィー。マルクスとエンゲルスの、あの草稿。読んだか?最近出た。」
ソフィアは首を振った。
「……手に入らないわよ、あんなもの。今の私には。」
言葉にしてから、改めてその重さを感じた。かつては、こういう本の話をするのに、こんな言い方をしなくて済んだのに。
「そうか。……じゃあ、読めたら、読むといい。役に立つかは兎も角、興味深かったよ。」
コーリャは静かにそう言って、本棚から取り出して渡してくれた。
本棚の前の、その笑顔が、窓から漏れ出る薄い月の光に照らされていた。
――あの本は、果たしていつ読み終わったのだろうか?
ただ一つ確かなことは、玄関まで送り出してくれた彼らに、
「お幸せに。」
なんてありきたりなことを言って帰途についた時、あまりにも奇妙で複雑な、少しだけ苦い感覚があった。それだけだった。
眠気なのか、楽しい時間が終わる寂しさなのか、それとも別の何かだったのか?
今でも、分からない。
――そして同時に、今思えば、これが彼との最後の時間だった。
***
《大陸暦688年収穫月23日・クリヴィア王国・ミルネージュ伯爵領》
「――夢、か。」
そうこぼすと目覚めたソフィアは、2度目の人生で11歳となったばかりの少女の肉体を起き上がらせた。
親友の声の残響、その笑顔、あの日の記憶。妙に印象に残って、妙に鮮明であった。
しかし、懐かしい過去を再現した夢にずっと浸ることはできない。
何故ならば、今の彼女は、死した後になぜか別の星で、別の人間の人生を生きているのであったからだ。
異世界、ではなく異星だと思っているのが彼女らしいが、それは些末なことだ。重要なのは、今の彼女が公的には「ミルネージュ伯爵令嬢シャルロッテ」ということである。
転生から、ちょうど一年が経った。
もちろんソフィアは「転生」とはまだ思ってない。とはいえこの”死の後の人生”は、今のところ、少なくとも彼女の主観の中では、長いような短いような、そんな日々だった。
なにせ大人として子供を過ごしているのだ。基本的に一日が変わり映えしない。
子どもとして子どもをやるなら、変わり映えしない毎日どころか、毎日何をして遊ぶか?どの友達と何を話すか?今日の夕飯は何か?などを考えられるのだろう。
だが、ソフィアは前世で”本当に子どもだった”時から内面は子どもらしくない早熟な少女だったし、何より大人になり既に48年もの人生を終えているのでなおさらだ。
そもそも、あまり普通の人間の楽しみを解さない。それこそが、ソフィアが目指し至った、大人としての終着点、”革命家”だったのだ。
「さ、お嬢様。皆様お待ちですよ。」
「うん。分かってるわ。」
起こしに来たメイドのエルマに、いつものように身支度をしてもらいながら、ソフィアは変わらず思考を回し続けている。
ちょうど一年。良い機会として、彼女は今までの日々の整理を、”総括”をしていたのだ。
(クリヴィア語――日常会話において大きな支障なし。まだ語彙は少ないが、翻訳現象に頼らずともできる場面も増えた。来年までの目標に向けた折り返しとして極めて良好。)
(世界の輪郭も、少しずつ見えてきた。地球と変わらないと処理できるものはやはり大きい。ただ、この世界で説明されていることを”事実”に翻訳することに関しては留意が必要。)
(シャルロッテとしての生活も、随分と自然になった。家族の話を聞く限り、遊びに対する集中力が、知ることに向いたと解釈されているみたいね。家族としてはこの程度なら止める理由もないし、むしろ良い変化だと思われている。この調子ね。)
――ちなみにもちろん、「この程度の変化」に留めるために、ソフィアが顔から火が出そうなほど恥ずかしい思いをしながら「たまには子どもらしく遊ぶ」ことをしているのは言うまでもない。
(そして、本題。結婚の回避について。最終的には行動の自由を得る、そのための目標なのだから、短期的にはじわじわ先延ばしにするのと合わせて、長期的には完全に実家を振り切らないといけない。)
本当に声が出そうになるのを抑えて、少し唸った。
(……この両立が、なんとも難しいわね。けど、少なくとも肉体が完全に大人になりきれていない以上、身体的・経済的自由を最初から目指すのは無理筋。あくまで当面は、実家が”売り惜しみ”をして、相手側が”買い渋り”をするように誘導するで良さそうね。これでいくなら、私は今の「勉強が好きになりつつあるシャルロッテ」の方向性を伸ばしていけばいい。)
幸いにして彼女は前世と同じく今世も末娘であり、シャルロッテに若干甘い今世の父ロベールは、今年次女イザベルが”適齢期”になったのもあって、彼女の婚約をどうするかの方に今は焦点が向いている。なのでどうしても視線がそれてしまう。当主たる彼に合わせて家全体がそうなる。
それもまたシャルロッテの中身たるソフィアにとっては好機だったのだろう。
(14歳で結婚、か。本当に醜悪で反吐が出るわ。……まあ、あの女は、”素敵な王子様との恋物語”に浸らせておけばいい。本人がそれで幸福だと思っているのだから、知ったことじゃないわ。それにしても、どうでもいいおしゃべりに付き合わされずに済むのだから、いっそ清々するわね。)
泥舟から自分だけまずは降りる、という冷徹さでほんの少しの哀れみを片付けていたところ、中年のメイドが主の身支度を終えた。
「さ、お嬢様。終わりましたよ。」
「ありがとう。エルマ。」
「いえいえ、とんでもないことでございます。……シャルロッテ様、今日は頑張ってくださいね。」
「うん、分かってるわ。」
少しだけ生唾を飲み込んで、ソフィアは部屋を出た。
今日はシャルロッテの11歳の誕生日。つまり『天啓の儀』から1年が経過した。
それを機に、この儀式で目覚めた”神々の祝福”、つまり個人の異能や適性の修練に入るのである。
もちろん、神秘の衰退が著しいという現代の都合上、かつてほどはこの結果が生きるか死ぬかにつながってはない。だが、少なくとも、魔法の訓練開始と合わせてやる以上、気が抜けないのは変わらない。
幸いにも時代と社会の都合上、今はそもそも適性と才能に対するハードルが低い。
それに一般常識として
「初期段階の訓練でつまづく人間はその後に進めないからどうしようもない」
「今の時代、そもそも持っているモノが大したことない規模である事が多い」
「貴族の令嬢にとっては魔法や異能はそこまで重要ではない」
などなど、できないから諦めるための言い訳のしようも山程ある。
だが、この世界の人間でないソフィアにとっては、ボリシェヴィキの彼女にとっては、話は別だった。
――なぜならば彼女は、当事者であるからだ。
20世紀のロシア、千年を超える歴史を誇るロシア正教が国家権力を結びついて農村に君臨し続けた国。
そんな国で、宗教、奇跡、魔術、呪い、オカルトなどなど、それらを全て「詐欺、まやかし、ペテン」だと、科学と理性の力で粉々に叩き壊すことに執念を注いだ。
財産を没収し、教会を破壊し、司祭を銃殺し、強大な政治勢力としての正教会を数年で根絶やしにすることを本気で実行したという歴史を、リアルタイムで指導者側として経験した、当事者であるのだ。
そんな彼女にとって、「魔法と異能の修練の開始」など、ついに来てしまったある種の試練だったのである。
無論、この世界の実態をどう受け入れ、そしてどう誤魔化すかという意味だったが。
もちろん本音を言えば「どうせ嘘よ」と切り捨てたかったのだが、ソフィアは二つの月を見て、”地球ではない星”にいるという前提を受け入れてしまった。
まず内実は科学的に説明できるはずだという前提だが、地球ではないという変数のせいで、少なくとも現在の自分にとっては超常現象にしか見えないが起きるという万が一の可能性くらいは覚悟していたのである。
この1年間、もちろん普通に過ごしてきてろくに目にしなかったせいもある。
世界の全てが未知になったので、”普通に一日一日を生きていく”上で優先すべき学習と観察の対象が山程存在したせいもある。
あるのだが、まず何より自分からその可能性を直視したくないので、空想的なフレーズのあらゆるものから若干意図的に目を背けてきたのは否定のしようがない。
(……今のザマを知ったら、『ソーニャ、現実を直視しろ!』なんて、イリイチにこってりと叱られちゃいそうね。)
否応にも今日、結果はどうあれ直面するので、ため息をつきたかった。
だがそれをこらえて、師父レーニンの活力にみなぎるかつてのその姿を思い出し、彼の側近をやっていた過去の幸福な記憶に少しだけ浸りながら、ソフィアは食卓へ移動していた。
ソフィアは部屋を出て朝食を終えると、マダム・カトルーに連れられ、今回の講師だという壮年の男性に挨拶をした。
修練の始まりであった。
マダムと会話するやり取りを見ながら、いかにも学者だなとその若干偏屈そうな面持ちに対してソフィアは思っていた。だが、同時に学者という連中はこの星でも本当に地球と変わらないという点にやや安心していたのかもしれない。
こんなアンシャン・レジーム期の社会なのだから、中東や欧州の錬金術師みたいに科学の進歩に役立ちそうならまあ許容しても良いかもしれないなんて寛容さを抱く程度には、まずはホッとしたのだ。
とはいえ彼はどうも、会話の流れでマダムから手渡された『天啓の儀』の結果に夢中らしかった。
読み終わると、それを自分で別の羊皮紙に、持参でもしたのかそれに手際よく写し取り、そこからさらに書き込みを始めた。
静寂が一瞬部屋を包んで、サラサラとペンの音だけが響く。
早くしてくれと、それに若干ソフィアは苛立っていたが、数分もしないうちに、ちょうど時計のカチャリとなる音と同時に、彼はペンを置いた。
「あの……ディルカル先生……?」
思わず彼の、講師の男の名前を呼んでいた。
「……シャルロッテ様。」
「は、はい。」
「まず、こちらを見てください。マダム・カトルーも。」
「はあ……」
そうして羊皮紙に記されたものを見せられた。そこにはこうあった。
職業:『占星術師見習い』
常時技能:『集中力』『観察眼』
職業技能:『星見占い』
祝福:『知恵の加護』
もちろん、ソフィアの主観にとっては、ステータスについてこれが初対面である。
なのでまず彼女は、これを「そういうことになっている」と受け入れるしかなかった。
しかし当然、彼女にとっては何がなんだか分からない。書いてある言葉自体が読み取れないわけではない。単純に、何を言っているのかが、さっぱり分からないのだ。
確かに”シャルロッテ”の、この肉体の持ち主の記憶を辿れば、そういうものだという納得は感じてしまう。とはいってもその納得自体が、意味不明としか言いようがない。
「あの……」
「シャルロッテ様。まず確認させてください。今、自分の中に何か感じるものはありますか?」
ディルカル師の問いに、ソフィアは少し考えてから首を振った。
「……特には。」
「そうですか。では、こちらをご覧ください。」
羊皮紙をもう一度示しながら、彼は説明を始めた。
「まず『職業』というのは、その方の魂の根本的な在り方を示すものです。天啓の儀において、神々がその人間の本質を読み取り、それに相応しいあり方と結びつける。もちろん、現世における労働と直接結びつくわけではありませんが。」
(……魂。神々。)
ソフィアは頭を抱えたくなった。
この国の宗教がまるでギリシャやらローマやら北欧の神話のように、人格を持った複数の神々がいるものだということ。
ソフィアは、それ自体に関しては、旧体制フランス的に見えるこのクリヴィア王国の文化との乖離を興味深く思いつつも、そういう信仰が歴史上できて現在存在しているのは客観的事実だと、知った時から受け入れていた。
だが、それとこれとは話が違う。
存在しないはずのものが、存在しないはずの対象に向けて、よく分からない何かをやった、という宗教のお決まりの手口のはずなのに、具体的かつ個別的すぎる。
ますます意味が分からなくなった。
もちろん、「はあ?」と言いたいのを押し殺して、彼の話の続きを聞くしかなかったのだが。
「シャルロッテ様の場合は『占星術師見習い』。つまり、星と天体を読む者としての素質をお持ちと、世界が、神々が示されたいうことです。」
(いつ、誰が、何をして、どうやって、そんな結果を垂れ流したんだ。あのよく分からない儀式は結局何だったんだ?)
一言言われる度に、十の分からないことが増える。そうとしか言いようがなかった。
「次に『技能』です。これは職業に付随して生まれる、より具体的な能力です。2種類あり、常に発動されるものと、自己の意思では発動するものがあります。」
(随意筋と非随意筋みたいな話ね。)
あくまで科学の建付けで比喩を使い飲み込もうとする。
「シャルロッテ様の場合だと、前者は『集中力』と『観察眼』となります。何かに集中した時の持続力、そして物事を細かく観察する能力——これらが天啓の儀によって顕現した、ということです。」
「……顕現、というのは?」
思わず口から出ていた。
「元々その方の中にあった素質が、儀による職業の発現によって紐づいて明確な形を与えられる、ということです。素質は魂に眠るものですが、潜在的なそれらが、儀式の過程、つまり魔力によって魂へ干渉された結果覚醒し明確に励起すると言っていいでしょう。おそらくシャルロッテ様は、天啓の儀の前から、ある程度これに通じるものをお持ちだったはず。儀式はそれを確認し、名前をつけた、と考えれば分かりやすいかもしれません。」
(……なるほど。)
ソフィアは、その説明を頭の中でどうにか整理しようと試みた。
(魔力、彼らがそう呼ぶ何かしらのエネルギーは、存在していると仮定する。まるでX線検査か何かのように、脳を読み取っているのかしら?儀式は個人の社会配置をシステム化した分類法?……もしかしたら私の死後の意識の連続という超常的な現象も、そのエネルギー干渉の意図せぬ結果?)
何かが引っかかった。しかしそこまでは言語化できなかった。
「最後に『加護』——『知恵の加護』は、職業や技能とは少し異なります。これはより直接的な、神々からの授かりものでございます。知恵の女神、四代神エルピメートからの、祝福です。」
「本当に久しぶりに、この加護を持つ子供を見ましたよ。やはりシャルロッテ様は素晴らしいです。」
マダム・カトルーが口を挟む。
「具体的にどうなるの?」
「知恵の加護をお持ちの方は、学習や思考において、常人より少し……恵まれた状況に置かれる、と考えていただければ。」
「恵まれた環境、というのは具体的に?」
若干演技が剥がれている気がしなくもなかったが、聞かずにはいられなかった。
「そうですね。例えば、何かを学ぼうとした時に、理解が早まる。あるいは、考えがまとまりやすい。非常に微妙なものですが、長い目で見れば大きな差になります。マダム・カトルーからも伺っておりましたが、シャルロッテ様はこの一年で随分と変わられたとか。それも、この加護の働きかもしれません。」
「……そう、なのかしら。」
マダム・カトルーが、傍らで満足そうに頷いていた。
(都合がいい解釈ね。……この私にまるで「フクロウがいるからお前は優れているのだ」と言うなんて、バカにしているとしか思えないわ。まあ、”シャルロッテ”の肉体に、もしかしたら開花の機会を失っただけで本当にそうであったという可能性は否定できないから、一旦置いときましょう。)
神の名前は兎も角、やはり欧州知識人としてソフィアによぎったのは、アテナあるいはミネルヴァと呼ばれる、ギリシャ・ローマの女神のことであった。この国の国教においても、知恵や戦争を司る神格は女性神なのに驚いた記憶がふとよぎる。
(それに、尺に障るけど、一般的な学習を超えたり、観察や実験をするにも公的に都合の良い言い訳になりそうね。学究的な人格になった変化に見せかけるのも、これで説明できるかしら。)
ソフィアはこう内心で思いながら、先生の説明を聞き続けた。
「少々順番が前後しましたが、『技能』のうち任意で発動できるもの——シャルロッテ様が現在お持ちなのは『星見占い』です。これは『職業』に紐づいたもので、一番最初に与えられたものです。この『任意技能』の具体的な使い方こそが、修練を通じて習得していただくものです。」
「そうなんですね。」
「ただ今日はまず、魔法の修練との兼ね合いもありますし、自分のステータス、状態を内側から確認することから始めましょう。そもそも、一朝一夕でできるものではありませんし。」
そう言いながら、彼はソフィアに向き直った。
「目を閉じて、意識を自分の内側に向けてみてください。ゆっくりで構いません。」
ソフィアは目を閉じた。言われた通り、意識を内側に向けようとした。
もちろん、まだこんなもので思い込みを作らせようとするのは、ありふれたオカルトの手口だという懐疑はあったが。
そして——何かが、展開した。
(えっ?……これは、何?)
幻覚にしては鮮明だった。目をつぶるをのやめても、目を開いても見えっぱなしだった。
意識の中から、何かが現れた。今や空中に文字が見える。この世界の文字だ。もちろん”翻訳現象”とソフィアが勝手に思っているもの、すなわち自動翻訳スキルの結果意味はわかる。
とはいえ、そこに書かれているものは——先ほど言われたものとは全く違ったのだ。
ソフィアは、息を飲んだ。
一番上の職業の欄には占星術師見習いではなく、別の言葉があった。
――『革命家』である。
そして、技能など次以降の欄も、何もかもが先述の説明と違う。
原因はすぐに分かった。『ステータス自動偽装』と堂々と書かれているそれだ。
これが、周囲に見える結果を改ざんしたのだ。少なくともそうとしか思えなかった。
(危うく私は、偽装パスポートの内容を本当のことだと自分で使っておいて思うところだったのね。いや無意識なのだけど。)
ソフィアにとっては、認めざるを得なかった。確かに、この儀式とやらは、”本質”を見抜けている。
そしてその中に——見たことのない言葉があった。
(……『赤い書庫』……?)
その言葉に意識が触れた瞬間、何かが切り替わった感覚がした。
慌ててソフィアは反射的に意識を引き戻した。
「……シャルロッテ様、いかがでしょうか?確認できましたか?」
「……ええ。」
ソフィアは、静かに答えた。声が、思ったより落ち着いていた。
(今は、無理。後で。一人になってから。)
「重要なのは、これからの人生において、『技能』に関しては追加習得の可能性もあることです。例えば、致命的な毒物を摂取して生還した人に『毒物耐性』が与えられる、みたいなものです。……少々例えが悪かったですね。申し訳ありません。なので、その時はその時です。幸いにも、ステータス閲覧は慣熟すれば、説明が読み取れるようになります。
そして彼はぎこちないが笑顔を作った。
「では、気楽に行きましょう。」
何事もなかったように彼の話に答えながら、ソフィアはその日の午前中を乗り切った。
もちろん、占っているふりをするというのを数時間やるという、本当に滑稽すぎる行動が伴ったが。
天の星を実際に見て学ぶのも修練にとっては重要です、と言われてソフィアの本心では物理学を検証するために天体観察をするための、最高の”言い訳”を手に入れるという結果がなければ、投げ出していただろうが。
精神的な疲弊によりソフィアはやや憮然としながら、昼食もそこそこに、今度は魔法の修練の時間となった。
上手く行かなかったからご機嫌斜めという解釈をしてくれたのが幸いである。
と言っても今回の場合はそこまで大それたことではないらしい。
だがもちろん、今日は魔法を使えるか?を確かめるだけだと言われた時、「早くこの茶番よ、終わってくれ!」と彼女が内心叫んだのは言うまでもない。
「ではシャルロッテ様、まず私の手元をご覧ください。」
「はい。」
「今から、あちらでマダムが本を投げてもらいますので、浮かんだそれを私が手元に引き寄せます。本当は火球の一つでも放てたら良かったのでしょうが、素早くできるものがなくて申し訳ありません。」
(……そんなものが、魔法!?)
叫んでしまうところだった。
「流石アカデミーの講師様ですわ。陣地も儀式も魔導具も魔石もないのに……!」
こうマダムが言わなかったら、そうしていただろう。
(落ち着きなさいソフィア。地球のそれが火を吹いたり空を飛んだりだったのは、中世においては説明のつかない現象を誤魔化すためだったり、近代においてはあえて誇大広告をして顧客の期待を煽るためだったりよ。さっきのみたいに説明のつかない現象がある以上、もしかしたら本当にあるかもしれないわ。)
そんな内心をよそに、彼はカウントダウンを始めた。
もう50代はいいところの痩せぎすの彼が、妙に腰を据えて右手に力を込めていたのが、ソフィアには若干滑稽だったがそれでも目を離すことができなかった。
タネも仕掛けもあるかもしれないし、事実かもしれないので、いずれにしろ集中しないといけない。
「はあっ!」
まるでものを投げるスピードで、しかしどう考えても明らかに”引っ張られた”動きをして、放物線を描いて重力で落下していたはずの本は、いきなり直線的な横移動をして、ディルカルの手に収まる。
(何も……見えない!)
シャルロッテの肉体の視力は良い方だとソフィアは思うが、それでも糸一本も見えはしない。
この惑星特有の現象でできた、何か強力な磁石でも仕込んだか?という疑いが次に思いついた。
だが、その本は元から実家にあったものだ。仕込む時間があったのかやや疑わしい。
何より、そんな強力な磁石を仕込んだら質量が増加して、中年女性のマダム・カトルーが片手で放り投げられる程度に収まらないのでは?とも思えたので、なんとも言えない気分であった。
「はぁ……はぁ……いかがでしたか?シャルロッテ様。」
息を落ち着かせるために彼は水を飲んだ。その間も考えていたので、ソフィアの答えは当然しどろもどろになる。
「あ、あの、そうですね。えーっと……」
「ふふ、無理なさらなくても良いのですよ。市井の方々は、まず魔法を下準備などなしで使うことを見る機会すらないでしょうから。お嬢様ならなおさらです。」
「はい、びっくりしちゃいました。」
どうにか誤魔化せたらしい。とりあえず胸を撫で下ろす。
「自然の魔力、すなわちマナから、使う分だけ体内の魔力、オドを錬成し、この世界の至るところに存在するモノ、エーテルに、様々な形で流し込み、意志によって望む結果を引き出す。これが魔法です。」
「確か、その点は人間も魔獣も変わらないと伺ったことがあります。」
「流石マダム、よくご存知で。……この点に関しては、やはりヒトもケダモノの一つであるという神々のご意思なのかもしれませんね。……無論、個人的な考えですが。」
すこし咳払いをする。
「おほん。失礼しました。要は、魔石も、魔導具も、術式も、詠唱も、何かしらの形で先程述べた過程を大なり小なり補佐するものでしかないのです。魔法の本質とは、実に単純でしょう?」
「すごい……ですね……」
ソフィアは、引きつりそうな表情を制御するので、精一杯であった。
「では、これからシャルロッテ様には、まずある程度勉強されてから、微弱なオドを感知することを習得してもらいます。よろしいでしょうか?」
慌てて返事をする。
「う、うん!分かりました!先生!」
(一から十まで意味がわからないのに、実践しろかあ……)
頭を抱えそうになりながら、どう誤魔化すかを思案することを始めるしかなかった。
「幸いにして、ここがまず魔法を使うということの最大の難関でもあります。というのも、まずオドがつまり魔力量が文字通り皆無、という方もいますし、一方で明確にオドがあっても、自分では感じられないという方もいます。」
少し彼の表情に陰りが差す。
「……ここ100年くらい、そういう人間が実に多いのですが、シャルロッテ様は私の見たところ潜在的な魔力量自体はあるようですので、後者でない限り、魔法は使えるでしょう。ただ、その先も難しいですが、まずはここからです。」
「また、魔力感知はできなくても、『常時技能』の使用には問題ございません。その使用に関しては無意識でできるように整えられていますので。」
「安心してくださいお嬢様。お父様もお母様も、できないからといってお叱りにはなりませんわ。ご当主様も、二人のお姉様も、オドが存在しないですがご立派に貴族としての務めを果たされていますわ。」
気遣いが上手いなこの女、と冷ややかに思いつつも全てがハナからどうでもいいソフィアにとっては、どうにかしのぐことだけが気がかりであった。
幸運なのか不幸なのか、ソフィアは先述された類型のうち「魔力はあるけど感知できない」タイプと、午後の修練を通して認められた。
やや落ち込んだふりをするのが大変であったが、とりあえず自分は第三者としてこの魔法という未知の現象を観察できる、というのはソフィアにとってはむしろ良い兆候であった。
とりあえず今日のところの収穫は、この惑星において客観的現実として魔法と名付けられているだけで説明がつかない幻象が存在する。
しかし自分には感知できない。理由が分からない。説明できないことは、今は保留するしかない。
いずれにせよ、結論は一つだ。
地球でないなら、何か不思議なことの一つや二つあっても良い。重要なのは、それが科学的に説明されるはずであるということだ。
唯物論者として、それだけは受け入れられた。
夜。就寝前。
部屋に一人になった。メイドが出ていき、扉が閉まる。
なぜか、ふと夢を思い出し、コーリャの横顔が、まだどこかに残っていた。
(……まず、これを確かめなければ。)
意識を集中させ、ステータスと呼ばれていたものを再び呼び出した。
今度は、ゆっくりと、一つずつ見ていく。
まず目に入ったのは、職業の欄だった。
(……革命家。)
変わっていなかった。やはりこれは事実だ。
次に、技能の欄を見た。
いくつかの言葉が並んでいた。
「痛覚耐性」「飢餓耐性」「不眠耐性」「疲労耐性」「疾病耐性」「気候耐性」——身体に関わる言葉が続く。その下に「精神異常耐性」「恐怖耐性」「威圧耐性」「洗脳耐性」「孤独耐性」——精神に関わる言葉が並ぶ。
(……耐性、という言葉ね。何に対する耐性なのかは、文字通りの意味として分かる。でも、なぜこれが私に?)
説明が付随しているものもあったが、なぜ自分にこれがあるのかの理由は、どこにも書いていなかった。
さらに「ステータス自動偽装」という言葉があった。
これも変わらない。
そして——最後に残っていた項目。
(赤い書庫。)
今度は、意識的して、なにかが起こる感覚に身を委ねた。
何かが、展開した。
(……何、これ。)
意識の中に現れたのは、本でも書棚でもなかった。全く見たことのない、奇妙な何かだった。紙でも羊皮紙でもない。しかし確かに、文字が見える。
どうすれば良いのか、全く分からなかった。
困惑しながら、しかしよく見ると——何かが書いてある。説明らしきものが。
空を触れると、それが広がり、文字が浮かぶ。
ソフィアは、それを読み始めた。恐る恐る。しかし確実に。
少しずつ、この奇妙なものの仕組みが分かってきた。
文字を入力できる場所があるらしい。空白に虫眼鏡のようなマークが有り、説明を同じように開けば何かはすぐに分かった。
(……入力する場所ね。何かを探すための。)
ソフィアは、その白い空白に意識を向けた。
何を入力すべきか。
最初に思い浮かんだのは——
(D,A,S,K,A,P,I,T,A,L.)
つまり『資本論』と、何故か思わず書いていた。
入力した瞬間——切り替わる。
資本論第一巻。第二巻。第三巻。その下には、『剰余価値学説史』。順番に、並んだ。
(……ある。)
第一巻に意識を向けると、目次が展開された。
第一篇第一章——商品。
さらに意識を向けると——
「Die Reichtümer der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheinen als eine 'ungeheure Warensammlung'……」
(……ドイツ語だ。)
原典だ。マルクスが書いた、あの書き出しが、完全な形で目の前にある。
私が見たものそのままだ。
ソフィアは、しばらくその文字を見つめていた。
これは記憶ではない。記憶はこれほど完全ではない。劣化するし、欠落するし、歪む。
しかしここにあるのは——完全な原典だ。
そこで、別の何かに気づいた。ここで言語を切り替えられるらしい。
試してみると——
「Богатство обществ, в которых господствует капиталистический способ производства……」
(……ロシア語になった。)
さらに試す。フランス語になった。英語になった。
(……私が読んだ言語が、全部入っている。)
ソフィアは、検索に戻った。
マルクス。
エンゲルス。
カウツキー。
ルクセンブルク。
プレハーノフ。
マルトフ。
そして、イリイチ――師父レーニン。
レフ・ダヴィードヴィチ――かつての上司トロツキー。
最後に打ったのは”コーリャ”――同い年の親友、ニコライ・イヴァノヴィチ・ブハーリン。
同じ時代を、同じ革命を、同じ党にいた同胞たちが、その奇妙な本棚には確かにいた。
一人ひとり、名前を入力するたびに——彼らが残した著作が、論文が、文書が、並んだ。
(全部、ある……!)
そして、最後に。ソフィアは、自分の名前を入力した。
『Sofia Leben』
報告書。論文。党内文書。覚書。全部、あった。
ヴォロネジで書いた、あの粗末な食品工場の報告書まで——あった。
(……みんな、ここにいる。)
コーリャの横顔が、また浮かんだ。
レーニンの声が。
ナージャの手が。
グレボフの最期の言葉が。
止められなかった。
目の端が、熱くなった。涙が、こぼれていた。
ソフィアは、しばらくそのままでいた。どう使うかは、まだ分からない。
今の自分には、政治以前の問題が山積している。この書庫が何の役に立つのか、今はまだ何も見えない。
しかし——
(みんな、ここにいる。)
それだけで、今夜は十分だった。
ソフィアは静かに意識を引き戻すと、窓の外には、二つの月が輝いていた。
ゆっくりと目を閉じた。
日中が嘘のように安心感を抱えたまま、眠りについた。




