三、人類の最小単位
三、人類の最小単位
ある秋の日の倫理の時限。授業の終わりに教師が言う。
「皆さんに宿題があります。『人類の最小単位』とは何だと思いますか?君たちなりに考えてきてください。」
そのあまりにも抽象的で漠然とした問いに、生徒たちの顔は困惑の色を隠せない。
その日の夜。前林は自宅の風呂に浸かりながら考える。
人類の最小単位?何じゃそら?細胞?DNA?原子?生命の源ってことで水?いや、そんなに単純じゃないはず。何だ?わからない?
風呂から出てベッドに横たわりじっくりと考えてみても、一向にしっくりとくる答えが出てこない。
とんちクイズみたいな問題出しやがって、あの暇人教師が。答えなんてあるのか?
若くやんちゃな彼にとって、その類の問いについて考える事は深い眠りに就くための睡眠薬に過ぎなかった。
翌日の英語の時限。担任の木村の授業に前林は遅刻して入室する。
それを見た木村は溜息をつくが、別段彼を叱る事もなく授業を続行する。
その時である。一人の女子生徒が突然立ち上がる。一同その方を見た瞬間仰天する。
真面目なお嬢さんタイプの張本貴美が、彼女のイメージから最もかけ離れたサバイバル・ナイフを手に立っていたからだ。
彼女はそのままある方向に歩いてゆく。すらりとした優雅な体形。光沢のある美しいロング・ヘアーに狂気染みた血走った目。上品な小さな口から漏れる荒い息。白い繊細な手に握られた威圧感溢れる鋭利なナイフ。白昼の聖域における多分に非日常的でアンバランスな画であった。
教室のあちこちで悲鳴があがり、クラスメイトたちは彼女の周囲から避難しようとパニック状態になる。
彼女が前林の前で立ち止まると、前林は驚いて後ろに飛びのく。
彼女は前林を睨みつけて言う。
「あんたを殺してやる。その後ウチも死んでやる。」
前林は理由がわからぬままその場に凍りつき、からからに乾いた口からやっとの思いで言葉を発する。
「あ、危ないよ・・そ、そんな物持ってたら・・。」
彼女は無視するかのように語気を荒げる。
「あんたのような節操のない男死んだらいい!一体何人の女に手を出せば気が済むん!ケダモノが!」
今の彼女の台詞で周りの者たちは状況を容易に推測する。
前林と張本はつき合っており、プレイボーイで有名な前林が浮気を重ねた挙句、このように男女の修羅場になっているのだと。
普段は飢えた狼のようにワイルドな彼が、人並みに慌てふためく。
「や、やめろ!落ち着け!」
されど究極の決意をした彼女の表情はどんな言葉でも止められる様子ではない。二人はしばしの間緊迫のにらめっこをし、切羽詰まった前林の口から出てきたものは意外なものであった。
「♪あなたーのー あたたーかいー♪そのうーででー♪もういーちどー♪だきしめてーおくれー♪」
優しいメロディーと温かい歌詞。前林自作の歌であった。修羅場と化した教室に似つかわしくない甘い歌声が響きわたる。
彼女は突き放すように言い放つ。
「歌やどうでもええんじゃわ!誤魔化すな!」
いよいよ万事休すの彼は、歌うのを止め覚悟を決める。
「わかった・・・。張本が本気でそうしたいならその気持ちに答えてやる。お前の中でどんな葛藤があったのかは知らないが、お前をそこまで追いつめたのは俺だ。さあ一思いにやれ。心臓を一突きにしろ。絶対外すなよ」
彼はそう言うと両手を広げ胸を張る。
彼女は彼の意外な言動に一瞬戸惑った顔を見せるが、すぐに毅然とした態度に戻る。
「それでこそウチが惚れた男。後悔はないわ。」
彼女はナイフを両手で持ち、前林の心臓めがけて構える。
この時、彼は不思議なほど落ち着いた態度と澄みきった表情をしており、彼女がやり易いようにと気遣ってか、静かに目を閉じる。
教室の張り詰めた空気はピークに達する。そして彼女が彼を刺そうと両手で持ったナイフを右斜め後ろに引いた瞬間である。彼女の両手の動きがピタリと止まる。なぜなら、背後から彼女に忍び寄り彼女の両腕を強引に掴んで制止した者がいたからだ。
天然パーマに黒縁の眼鏡。お坊ちゃん教師、木村であった。
木村は無我夢中で彼女からナイフを奪い取ると、力任せに彼女の腹部に膝蹴りを食らわす。彼女は「うっ」と呻き声をあげてその場に倒れこむ。
前林は木村を睨みつけて怒鳴る。
「お前何勝手な事しよんな、ボケ!これは俺と張本の問題じゃ!そのナイフ返せ、こら!」
木村は負けじと言い返す。
「あ、あほ!返せるわけないだろ!お、お前ら頭おかしいんか!」
前林は木村に詰め寄ってゆく。
「さっさと返せや、こら!殺すぞ、こら!」
前林は目の瞳孔の開いた凄まじい形相になっている。生徒たちが「先生、逃げえ!」と叫ぶと、木村は急いで逃げ出すが、誤って教室の出入り口とは逆の窓側に走ってしまう。
前林が木村をじりじりと窓際の隅に追い込んでゆくと、彼は「く、来るな!」と叫びながら手に持ったナイフを振り回して前林を牽制する。
その様子に呆れた前林は木村にくるりと背を向けると、くの字形に倒れて苦しんでいる張本を介抱しようと駆け寄る。
「張本、いけるか?」
前林が彼女の背中をさすってやっていると、俄かに教室がざわめき出し、程無くして前林の後頭部にナイフが突き付けられ、「動くな!」と声がする。前林が振り向くと、ひどく興奮して我を忘れた木村が立っている。
前林は面倒そうに溜息をつく。木村は威嚇するように怒鳴る。
「ちょ、ちょっとでも動くと刺すぞ!」
前林は木村の言動を無視するかのようにしばし思慮した後、冷静な口調で彼に言う。
「あーあ。これで全て台無しじゃ。」
木村は全身を震わせながら激しく問う。
「な、何がじゃあああッ!?」
「実はこれ全部芝居だったんよ。」
「はあ!?お、お前何言よん!?」
「俺ら高校生の最近の恋愛事情知っとうか?男女が気楽につき合い始めたかと思うとあっさりと別れ、それぞれがまた別の人とつき合う。浮気やトラブルは日常茶飯事。貞操観念もなく、ろくな知識もないまま快楽に身を任せた挙句身籠った子もおる。」
木村は苛立つ。
「お、お前一体何の話しよんな!?」
前林は続ける。
「俺たち高校生は身も心も未熟や。その未熟者たちが好き勝手に恋愛ゲームを楽しんどったら最悪のケースどうなるか?それを俺たちはみんなの目の前で見せたかった。その為には衝撃の筋書きと迫真の演技が必要だった。幸い張本は演劇部で、俺は趣味で小説を書いとった。この計画が動き始めたわけじゃ。」
木村や周囲の生徒たちの顔からは徐々に恐怖や緊張の色が失せ、代わりに驚愕と感動を浮かべたものに変わってゆく。
「俺とつき合っていた張本が俺の浮気に怒り狂い、授業中皆の前で俺を刺し殺すと言う筋書きだった。よく出来たシナリオと最高の演技だった。なのに全てをぶち壊した人がおった。張本を見てみ。先生に力任せにやられた衝撃でまだ立ち上がれん。」
木村は、腹を押さえて床に転がったままの彼女に目をやりながら、ばつが悪そうに言う。
「ほ、ほんなんやったら・・事前に言うとってくれたらやなあ。お、俺も準備してもっとスマートな行動とれたのに・・。」
「無理無理。先生には演技なんて出来ん。もし先生も巻き込んでやってたら、絶対みんなにばれてたわ。」
「ぐっ」
「ほれにしても先生の行動はひどかった。これはないやろ。」
前林が冗談めかして木村がナイフを振り回した時の動きを真似ると、教室に爆笑の渦が起こる。木村は顔を真っ赤にして下を向く。
前林はなおも木村を責める。
「ほれと、生徒がピンチの時に逃げたらあかんわあ。」
それに対する木村の次の一言が、教室を奇跡の爆笑に導く。
「ほ、ほなって・・みんなが『先生、逃げえ!』って言うたもん。」
その日の放課後。前林は木村に職員室に呼び出される。
彼は前林を不信感いっぱいの顔で睨みつけながら言う。
「お、おい詐欺師!もうお前の言う事や何も信じんからな!ほ、保健室で張本に聞いたぞ、真実を!さっきのはやっぱ芝居とちゃうらしいやないか!」
前林は少し間をおいて冷静に答える。
「他にどんな方法があった?白昼の教室で、恋愛の嫉妬にとち狂って彼氏を刺し殺そうとした16歳の純情なお嬢さんを救うには・・。」
木村は虚をつかれた様子でしばし考え込むと、全身に電流が流れたように興奮して叫ぶ。
「う、うわ!お前ごっつい頭ええなあ!」
前林は木村に念を押す。
「今回の件が芝居でなかった事は絶対誰にも言うなよ。張本の一生がかかっとうけんな。」
「い、言わヘん言わへん!ほ、ほんな恐ろしい事言えるわけないだろ!」
前林が帰宅しようと校門を出たところで背後から声をかけられる。振り向くと、憔悴した顔の張本貴美が立っている。
彼は少し驚く。
「お、お前!どしたん!?」
彼女は弱弱しい乾いた声で言う。
「あんたには負けたわ。あんたが救ってくれたこの命・・。大事にするわ。ありがとう。」
「いや、俺のほうこそ・・すまなかった・・。」
二人はしばしの間見つめ合い、無言の会話をする。
やがて彼女が口を開く。
「さよなら。」
彼女はそれだけ言うと背を向けて去ってゆく。彼はその後ろ姿をじっと見つめる。彼女とはもう二度と元には戻れない。そう思うと彼の胸をえも言われぬせつなさが貫く。
帰り道。彼女との数々の思い出が頭の中を駆け巡り、黄昏時の茜色の空が彼の頬をつたう涙を照らす。
この時、少年は例の問題を思い出す。『人類の最小単位とは何か?』彼の中ではっきりとした答えが出た。
沈んだ黄赤色の空を眺めながら今俺が抱いている感覚・・。そうだ。これこそが最小の単位なんだ。これより小さなものはない・・・。
肌寒い晩秋の風が、無慈悲に少年の痩せた肩を吹き抜けてゆく。




