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【九源の煙の香り 一】

清らかなせせらぎの音が耳を優しく包む。

初夏の刺さる日差しを避け、木陰の岩に腰掛ける。

水筒に汲みたての水をりふぁから受け取って一口飲んだ。

その透き通る冷たさが、のどを通り腹に落ちるのを感じる。

名水と名高い、現常山の湧き水、か。

帰りに麓で酒を買っていってもよいな、などと考えながら水筒に栓をする。

りふぁも水をぐびぐびと飲みながらも、そわそわしたまま、先を急ぎたい様子を見せている。


ここまでの道中も、落ち着きのない様子であった。

せなが倒れた事を聞き、宮で待つと言うりふぁを、有無を言わさず引き連れてきた。

「コトワ様、せなの、『九元酔い』ってなんですか?せなは治るの?」

そう言いながら、荷物を背負い付いてくる小鬼は、地面をじっと見つめながら歩を進める。

「九元の宙にあまりに近づきすぎた代償じゃ。人はその意識を保てんとされておる。わたくしも聞きかじった程度しか分からぬがな」

「お山に薬があるんですか?」

「正確には『あの世』に、じゃ」

それを聞いたりふぁは、がばっ、と顔を上げた。

「『九源の葉』と呼ばれる、世の境を超える作用を持つといわれておる葉。大昔には大層高価な気付けの薬としてお山で売られておったわ。金持ちがぷかぷか吹かせてふわふわしておった」

「じゃあ、せなは治るんですね!」

「わたくしに九元を語ったじじいのいう事に誤りがなければ、な。わたくしとて九元酔いを治した経験なぞない」

そこまでを聞いてからは、打って変わって先を急ぐようになった。


「休む時は、ゆっくり休むものじゃ」

九宮(くぐう)コトワは落ち着かない様子のりふぁに悠然と声を掛けた。

「でも……」

言い淀むりふぁの顔を見ていると、眩しさを感じる。

「一年や二年放っておいてもそう変わらんじゃろう。それよりほれ、この先は道がないようなものじゃ。林をかき分けていくことになるぞ」

「一年もほっといたら、せなしわしわになっちゃうよ!」

りふぁはその場でぴょんぴょんと跳ねている。

山道は、せせらぎの元、湧き出る泉までしか続いていなかった。

山頂への道は閉ざされて久しいようだ。

「昔は山頂まで道が整備されておったというのにのう……」

泉の奥に続く斜面の雑木林を見てそう呟く。

「でも、ここまで分かれ道もなかったですよ?」

「ううむ、なにせ何千年まえの事だったか……」

あの頃は麓から山頂までも出店が並び賑わっていたものだ。

様々なあの世の産品を揃えた店が立ち並ぶ様子はもはや想像もつかない。

「すい様と山を下りたときは、どうしたんでしたっけ……」

「斜面を下っておったら山道に出た、みたいなもんだったのう」

「じゃあ、斜面を登っていけば着けますね!」

「まぁ山のてっぺんは一カ所だけじゃ、登ってみるとするか」


道もない雑木林の斜面を、木を伝いながら登る。

人の踏み入れない林の中は湿り気を帯びた土がふかふかと足を取り、生い茂る草木をかき分ける必要もあり神経を使う。

「お山から、また『あの世』にかえるんですか?」

「不安か?」

「んや……」

振り返ってりふぁを見ると、りふぁは低い木立の隙間から見える青空を見上げていた。

「親分、元気にしてるかなぁ」

仙境へ帰るための『船』に、りふぁは意を決して乗ってきた。

そのまま小間使いにしてしまったが、あまりりふぁ自身の出自を聞いたことがないことを思い出した。

「あまりあちらでの話は聞いたことがなかったな」

再び斜面をえっちらおっちらと登りながら会話を続ける。

「うん……おかあたちが死んじゃってからは、みんなで面倒みてくれたんだ」

「よく付いてくる気になったな」

「こっちの世界の話はずっと聞いてたから……今しかないと思って」

小鬼なりに勇気を振り絞って来たということか。

けなげなことじゃ。


急に開けた視界に、遠くの山々の景色が飛び込んでくる。

霞みがかり青々と映える仙境の山が雲に届くようにそびえている。

「……崖、じゃな」

「崖、ですね……」

ふくらはぎに力を入れて登り切った斜面の先は、切り立った崖だった。

目指すべき山の上方は崖の向こうにまだ続いている。

滑落しないように尾根伝いに、崖を回り込むことにする。

わたくしはともかく、小鬼は落ちれば命を落とすだろう。

と、りふぁを振り返れば、楽しそうにぴょんぴょんと跳ねながら付いてきていた。

随分と図太い。


「コトワさま!!下!石!石の敷いた道ですー!」

緩やかな傾斜にたどり着き、黙々と山中を上っていたら、先を行くりふぁが、ぴょんぴょんと飛び跳ねて合図を送ってきた。

「ほう、でかしたぞ。あとはそれをたどれば上に着くであろう」

のんびりと追いつきながら辺りの様子を確かめる。

「はて……こんな景色だったかのう」

「うち、見覚えありますよ!ここを、あっちから、こっちに歩いていきました!」

つい先日来たばかりだというのに、とんと見当がつかない。

大昔の姿に引っ張られているか。

苔とシダに覆われた足元には、確かに人の手による石が敷き詰められた道の名残があった。


そうして数年前に下ったであろう道を再び山頂へ向けて上っていく。

辺りを覆う木々が枝の細い低木に代わってきたところで、荷を下ろし上着を羽織った。

前に来たときは春前だったか。

寒いのと暑いのとどちらがマシか、などと数千年考えても答えの出ない永遠の謎を考えながら、ひんやりとした緑の道を、一歩ずつ足を運んでいく。


やがて、人工の建物跡のような遺跡が顔を覗かせてきた。

いずれも苔が覆い、ツタが絡み、元が何の建物だったのかは伺い知れない。

以前一夜を明かした建物跡まで来たところで、一旦荷を下ろすこととした。

麓の宿で作らせた握り飯を取り出し、腰を落ち着けて二人でもそもそと食べる。

塩を多めに、とは注文したが、えぐみがあって美味いものではなかった。

中に入れられた菜っ葉の漬物は悪くない。

あの主人、いい塩をケチりおって。

水筒の水で飯を胃に流し込みながらりふぁを見る。

両手に握り飯を掴んだりふぁは、不思議そうにこちらを見つめた。

飯のまずさも気にならないらしい。


再び山頂への道を上る。

もうこの辺りは山頂の市場のあった所か。

目を細めて変わり果てた街並みを思う。

かつての賑わいが、そこに生きた人影が、かすかに視線によみがえる。

山頂付近の開けた広場までくると、あの日降り立った「船」が、あの時のまま静かにそこにあった。

もはや雲は足元にあり、下界はその雲に覆い隠され、眺めることはできなかった。

見上げた船の甲板から、見知った顔がのぞかせる、そんな幻想がよぎる。

ひとつ頭を振ると、りふぁへ言う。

「もう一度これで、あちらへ渡るぞ」

りふぁは頷くと、勢いをつけて甲板へよじ上り、コトワに手を差し伸べた。

コトワはその手を取り甲板へ上がる。


「ねえコトワさま。この船、どれぐらい昔のものなんですか?」

「さぁのう。少なくとも神織ができる以前からは使われておったのう。その当時でも骨董品みたいな扱いではあったが」

「へぇ……よく動きましたね」

「うむ、わたくしもあまり期待はしていなかったが、よほど出来が良いのじゃろう」

「お空を飛ぶなんて不思議な船!」


甲板を抜け、船室に入り込み、船を動かすための水晶に向かう。

右手をそっと水晶に伸ばす。

かつて、遠い昔に確かに感じたぬくもりも今はなく、ひんやりとした触感が手のひらを包む。

あの時教わった船の動かし方。

細かいことは覚えていない。手を滑らせる。

水晶の奥に浮かぶ記号を見る。

この読み方も、必死に覚えたものだ。もはやほとんどおぼろげだが。

「……うむ、まだ大丈夫そうじゃ。見えるか、この球に何やら浮かぶのじゃが、わたくしは同じ操作しか分からん」

水晶の上を手を水平に滑らせ、『あの世』を指し示す記号を探し当てる。

そのまま水晶の操作をして、船を走らせる。

ずずずず、と振動があったかと思うと、その後は抵抗もなくなり、ふわりとした浮遊感に包まれる。

随分あっさりと動いたものだ。

己を船乗りだなどと嘯いていたあの男……特殊な技能など不要ではないか。


湧き立つ雲に飛び込むと、辺りが一瞬で真っ白に染まる。

目の前の水晶に浮かぶ光だけがぼんやりと浮かんでいる。

「あの時と、同じですね!」

「……うむ」

りふぁの声がわくわくと上ずるのを聞きながら、しかしコトワは心無い相槌を打つことしかできなかった。

~二殿の報告書~

北方より警備状況の速報が入る。

街道全体に分散した賊の襲撃の対処に手こずっているとのこと。

増援を求められた武官様方が頭を悩ませていた。


この祭事の最中、数日の間、九宮様の行方が知れない。

三殿せなの昏倒に際し「九宮様に相談」とあり、捜索が続けられる。

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