【めがねの巫女は、ため息を殺す】
今日も元気なまるやのむすめ
あたまの上にはおだんごふたつ
ぴかぴかひかる串さした
かんばんむすめのまちちゃんさ
むかしむかし、などというお伽話ではない。
これは、神織の宮という、巨大な歯車の上で、ただ摩耗していく自分に気づいてしまった、ひとりの女の、ささやかな逃避行の記録。
神織の宮、二殿の巫女であるすずさは、使い古された書庫の中にいた。
かび臭い、すえた匂いが充満している。
一体、以前開けられたのがいつかも定かではない窓から差し込む日の光が、室内に浮かぶチリをきらきらと輝かせる。
書見台の上に山積みの書類の束の横にある、さらに古い資料の山に、うんざりしながら手を伸ばした。
過去の祭事の記録と照らし合わせて、なんて無茶を言う者のせいで、こうして古臭い記録の束と戦うことになっている。
埃っぽい革の表紙を、仕方なくめくっていく。ほとんどは、過去の些細な記録や、意味の分からない会計報告の写しだ。
その中に、一冊だけ、毛色の違う書物が紛れ込んでいた。
『仙境(抄)』
……抄? なぜ、こんなものが公式記録の中に……。
誰かのいたずらか、あるいは、分類を間違えられたまま、忘れ去られたものか。
興味本位で、パラパラとめくってみる。
そこに書かれていたのは、一人の巫女が仕事に追われるところから始まり、世界の理の歪み、異質な者たちの現れ、そして世界の崩壊、世を覆す革命と秩序の再生が描かれた壮大なおとぎ話のようだった。
荒唐無稽な……きっと、昔の巫女見習いが、仕事中に暇つぶしで書いた落書きだろう。
すずさは、ふん、と鼻を鳴らすと、その古文書を「その他雑書」の箱へと放り込んだ。ゆっくりと読書ごっこに付き合っている暇はない。すぐに廊下をきしませながら、現実の神官が怒鳴り込んでくるのだから。
ようやく目的の資料を見つけたすずさは、肩を丸めながら執務室に戻る。
そこは、紙と墨の匂いで満ちていた。
整然と、しかし圧倒的な物量で積み上げられた上申書の山。その一つ一つが、仙境各地から寄せられる、解決すべき問題と、解決を阻むしがらみの塊だった。
机に付き、業務の続きに取り掛かる。
「北のおやしろの修繕予算、これでは足りません。…却下」
「西の村の祭礼への人員派遣、他の祭儀との兼ね合いで調整不能。…保留」
「あの世の近くで穢れの兆し? …情報が曖昧すぎる。再調査を命じてください」
すずさの仕事は、この混沌に秩序を与えること。
彼女の思考は、どんな複雑な方程式よりも速く、そして正確に、最適解を導き出す。その手にかかれば、やまほどのごたごたは、ぴしり、ぴしりと、あるべき場所へと仕分けられていく。彼女は、優秀だった。優秀でなければ、ここでは生き残れなかった。
だが、その日のすずさは、静かに限界を迎えつつあった。
次から次へと訪れる、上席の神官たち。彼らは、すずさが積み上げた論理の塔を、無自覚な一言で揺さぶっていく。
「すずさ殿。先日提出されたこの報告書だが、ここの数字、どうも計算が合わんのではないかね!」
「そちらは、先日別途お渡しした補記資料の数を反映させていただければ、整合性が取れるかと」
「むむ! そうか! …しかし、だ! この言い回しは、どうにもまわりくどい! 誰にでも分かるように、もっと簡潔に記せんのか!」
「…善処いたします」
(この人たちは、一体なんなのだろう。わたしの時間を奪うためだけに、ここに存在しているのか)
そんなやり取りが、朝から、もう何十回も繰り返されている。
すずさは、きゅっ、と眉根を寄せ、筆を握る手に力がこもる。心の中で、押し殺したはずのため息が、澱のように、ゆっくりと沈んでいった。
ごうん、と、昼を知らせる鐘が鳴る。
神官たちがぞろぞろと退室し、ようやく訪れた静寂の中、すずさは、ふでを置くと、力なく机に突っ伏した。
掛けた眼鏡を少しずらし、こめかみにそっと指をあてる。
終わりのない書類の山。変化のない、昨日と同じ今日。そして、あの、無神経な声、声、声。
「……ええい! もう、やってられるか!」
がばり、と顔を上げた彼女の声は、自分でも驚くほど、ささくれていた。
いつもは静かな彼女の剣幕に、部屋の隅で控えていた見習い巫女が、びくり、と肩を揺らす。
すずさは、衝動的に立ち上がると、少しだけ乱暴に戸を開けた。
あてはない。
ただ、この息の詰まる宮から、一瞬でもいい、逃げ出したかった。
宮の重い門をくぐり、門前町の喧騒へと身を投じる。
人々のざわめき、店の呼び声、どこからか漂う香ばしい匂い。宮の中とは違う、無秩序で、しかし生命力に満ちた空気が、張り詰めていたすずさの心を、少しだけ解きほぐしていく。
その時だった。
ふわり、と、甘く優しい香りが、彼女の鼻腔をくすぐった。
香りの先に目をやれば、小ざっぱりとした暖簾のかかった、一軒の甘味処。
「まるや」
(…たまには、いい。少しだけ、自分を甘やかしたとて、罰は当たるまい)
まるで、その香りに導かれるように。
すずさは、からん、と音を立てて、その店の暖簾をくぐった。
店内の温かさか厨房から立つ湯気のせいか、眼鏡が曇る。鬱陶しい。
「へい、いらっしゃい!」
快活な声に迎えられ、一番隅の席に腰を下ろす。壁にかけられた品書きを、曇った眼鏡を拭きながらぼんやりと眺めた。
「…一番、良いお茶を。それから、お団子をひとつ」
運ばれてきた湯気の立つお茶を、まず一口。
ふわりと広がる、柔らかな香り。凛として、それでいて、どこか角の取れた、円い味。
ささくれていた心が、じんわりと解けていくのを感じた。
次に、団子を一口。
もちもちとした歯触り。甘く、少し香ばしい蜜の味。
――ああ、美味しい。
ただそれだけのことが、こんなにも心を温かくするなど、いつ以来だろうか。
すずさは、少しだけ、呆然としていた。
「おねえさん、お宮の巫女さま? なんだか、すごく、お疲れみたいだね」
看板娘だという少女が、屈託のない瞳で、心配そうに顔をのぞきこむ。
その、何の裏表もない真直ぐな視線に、すずさは少しだけ狼狽えた。
「…ええ、まあ。少し、立て込んでいて」
「そっかあ、大変だねえ。でも、そんな険しい顔してたら、せっかくの綺麗な顔がもったいないよ! 甘いもんでも食べて、元気だして!」
少女が、にぱっと笑う。
まるで、春の陽だまりのような笑顔。すずさの、かちこちに強張っていた心が、また少し、弛緩する。
茶と団子を、ゆっくりと、時間をかけて味わい、店を出る。
会計の際、少女は「またいつでもおいでよ!」と、手を振ってくれた。
宮への帰り道、すずさの足取りは、来た時よりも、ずっと軽かった。
執務室の書類の山は、少しも減ってはいない。
明日になればまた、あの神官たちがやってくるだろう。
でも、なんだか、大丈夫なような気がした。
(また、心がすり減ったら、あそこへ行こう)
(そして、あの美味しいお茶と、お団子を、食べよう)
すずさの口元に、ほんの微かな、柔らかな笑みが浮かんでいた。
その手には、硬く握りしめた筆の感触ではなく、温かい茶の香りが、まだ、残っているようだった。
執務室に戻り、再び眼鏡を掛け直した彼女の目に映る書類の山は、先程と何も変わらないはずなのに、ほんの少しだけ、その輪郭がはっきりと、澄んで見えた気がした。
これは、この仙境でこれから起こる、数多の激動の、ほんの少し前の物語。
優秀すぎたが故に、少しだけ疲れてしまった巫女が、初めて、自分だけの息抜きの場所を見つけた、その日の一幕である。
~二殿の報告書~
まるや。
地方では宮参りと合わせて、このまるやへの来訪が定番となっているようだ。
店内は30席ほどか。
地方からの巡礼の者以外にも、宮の役人・巫女たちも多く利用している。
茶・菓子共に高級品を惜しみなく使っているようだ。
温かな接客からも、この店が長く愛される理由を窺うことができた。