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序章 名前以前 第1話 名前のない浜

 潮が引いた跡に、それはあった。

 砂でも岩でも貝でもなく、けれど波に運ばれてきたことだけは確かだった。

 浜の端で焚き火を守っていた老女——島人たちがヲバと呼ぶ巫女——が最初に気づいたのは、夜明けより少し前、空と海の区別がつかなくなる時刻だった。

 それは、息をしていた。

 ヲバは三歩近づき、ためらうように二歩戻った。長年の習いで身についた距離感だった。若いころ、その距離を誤って、ひとりを海に返したことがある。近すぎれば飲まれる。遠すぎれば見えない。神でも獣でもないものに近づくときは、いつもこの距離から始める。

「……生きておるか」

 返事はなかった。それはまだ、言葉を持っていなかったのだから。

 ヲバが松明を傾けると、炎の光の中に、人の形が浮かびあがった。

 若い。少なくとも若く見えた。肌の色は、内海の水を日光に透かしたときの、あの曖昧な青みがかった白さに似ていた。髪は短いとも長いとも言えない。顔の造りは、ヲバがこれまでに見た誰にも似ていなかった——そして誰にでも少しずつ似ているように見えた。男とも女とも判じがたく、子とも大人とも言いがたい。

 ヲバは長く息を吸い、吐いた。

「おまえは、何という名だ」

 問いかけた瞬間のことを、後になってヲバは何度も思い返すことになる。

 風が、なかった。

 浜に打ち寄せていた波が、一瞬、止んだ。潮の匂いが消え、松明の炎が垂直に伸びた。まるで世界が聞き耳を立てたようだった。世界は確かに、耳を立てた。

 そしてその静寂の中で、砂の上の何かが、ゆっくりと目を開いた。


 それが見たものは、光だった。

 炎の光ではなく、もっと大きな何かの反射だった。空の光が海に落ち、海が砕いて浜に返す、その連鎖の中に自分が置かれているということだけが、最初にわかったことのすべてだった。

 次にわかったのは、痛みではなく、むしろ逆のことだった。

 体がある。

 そのことが、不思議だった。体があるということを、不思議だと感じる自分がいるということが、さらに不思議だった。驚きは入れ子になって、どこまでも続きそうで——でもそれ以上考えることができなかった。考え方を、知らなかった。

 目の前に、火があった。

 火を持った者がいた。しわの多い手。白い髪。自分を見下ろす、深いところから光っている目。

 その目が、何かを言った。

 言葉の意味はわからなかった。ただ、その問いが自分に向けられていることはわかった。問いの輪郭が、空気の中に形として感じられたから。

 ――おまえは、何という名だ。

 答えがなかった。

 正確には、答えようとしたとき、胸の中で手を伸ばした場所に、何もなかった。引き出しを開けようとして、その手ごたえすらなかった。名前を入れておくはずの場所に、形すらなかった。

 かわりに見えたのは、別のものだった。

 老女の手が握っている松明の柄。その木の繊維の走り方。どこで切り出された木か。いつ枯れたか。炎が燃やしている順番。風が来たら、どちらに傾くか。それは知っているというより、思い出している感覚に近かった。なぜそれがわかるのかは、どうしてもわからなかった。

 なぜそう認識できるのかは、理解できなかった。

 名前は、なかった。

 

 ヲバは神に祈る人間ではなかった。神と話す側の人間だった。だからこそ、この状況の奇妙さが、他の誰よりもはっきりとわかった。

 この何かは、危険ではない。そう思う理由はないが、そう感じた。

 けれど、危険ではないということと、安全だということは、まったく違う。

 名を問うたとき、海が止まった。それはつまり、この何かに名前を与えることを、神の誰かが望んでいないということか。あるいは、もう名を持っているということか。それとも——

 ヲバは考えるのをやめた。

 今夜、判断できることとできないことがある。できないことを考え続けるのは、夜明け前の浜でひとりで行う作業ではない。

 彼女はその何かの傍らにしゃがみ、自分の上着を掛けた。

「名は、後で考えよう」

 そう言ったとき、砂の上の何かが、何かを言った。

 言葉ではなかった。声ですらなかったかもしれない。ただヲバには、それが「問い」であることがわかった。

 ——ここは、どこか。

 ヲバは空を見た。夜明けが、来ようとしていた。内海の向こうに、まだ名前のついていない島の影が、いくつも浮かんでいた。

「瀬戸の内だ」とヲバは答えた。「まだ誰にも名付けられていない海の、仮の呼び名だ。」

 その言葉が何かを表していたのか、あるいは何も表していなかったのか、砂の上の何かには判断できなかった。

 ただ、瀬戸の内、という音の連なりが、何かに似ていると思った。

 波の音に似た、まだ名前のない音だった。

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