04
私達は真っ白な空間にいた。
白瀬城菜によって連れて来られた、所謂異空間。ぼんやりとした明るさの中、曖
昧な長さの通路がどこへともなく伸びている。通路の端にはグラウンドに白線を描
く石灰のようにラインが引かれてあるけれど、踏もうとするとその線は歪み、結局
端などというものがあるのかないのかはっきりしない。手を広げても壁はなく、そ
れでいて確かに壁が近くにあるという感覚だけが先行する。
この上無く、きっちりしていない世界だ。
普段の私なら、激昂して創造主に文句をつけていた。
けれど今の私の心は、大海原のように穏やかだ。苛立ちの一つも湧いてこない。
感情が無いというのは、実に合理的だ。
捨て去ったものに未練はない。もっと早くこうしておけばよかったとさえ思う。
現状には完全に満足している。
けれどそんな私の状態を、快く思っていない友人がいるのも確かだ。
「こ、ここは……」
世界を移動したショックで気絶していたらしい。私の隣で薄ぼやけた顔をしてい
た少女が目を丸くして、忙しなく周囲を見渡し始めた。
公平に言って、恐ろしく顔立ちの整った娘だ。背丈は百四十五センチと小学六年
生の平均並み。丸みを帯びた目と背中まで伸ばしたポニーテールからも、実年齢よ
りも幼い要素が見て取れる。その一方で厭世と諦観が入り混じったアンニュイな表
情や、オーバーサイズの白いワンピースの上からでも分かる胸や腰といった身体つ
きは成人女性と相違無い。ちぐはぐだけれど、アンバランスではない。言葉に言い
表せない魅力を感じないといえば嘘になる。
けれど、それまでだ。
感情を失った私は、もう彼女に心を掻き乱される事はない。
精巧な芸術品を観るのと同じく、美しいという客観的事実を読み取るだけだ。
必要な視覚情報を受け取るだけの、実際的な脳。
けれども彼女……不破夢路は、私の理を認めようとしない。
「あ、あの、三途璃さん……すみません」
不破夢路は青ざめた顔で私を見上げ、弱気な態度で頭を下げた。私に面倒を課し
てしまった事を申し訳なく思っているらしい。感情を失った私は無表情だから、尚
更怖いのだろう。
彼女の指摘のせいで、私の完璧な状態にけちがついた。
けれど私自身、それが本当に正しかったのか怪しく思っているのも事実だ。
合理的で実際的で、完璧な状態。
けれどそれはあくまで主観での評価に過ぎない。もしかすると、感情を捨てた事
によって私の価値観が変節した可能性もある。
それこそ私一人の問題ならば、何ら気にする必要のない事だ。
けれど、私にも人間関係がある。感情を失くしても夢路は友人だし、尊重すべき
クラスメイトだ。彼女の指摘を無視するわけにはいかない。
だから今、私達はここにいる。彼女の指摘を尊重した結果だ。
「え、えっと……それで、ここはどこなのでしょう」
夢路が不安そうに訊ねる。その問いに私が答える前に、彼女の目の前の白い空間
が揺らいだ。
「ばあっ」
「ぎゃあああああっ!!」
揺らいだ空間に突如現れた幽霊のように浮遊する人間に、夢路は大袈裟に驚いて
みせた。真っ白な空間に溶け込む白装束の、白髪白肌の女だ。長い袖に手を完全に
隠しており、自分でも幽霊を意識しているようだ。
「な、なんなんですか、あなた……?」
「ワタシは空間ですぅー」
「え、ええと……?」
目の前の幽霊は流暢に、けれど要領を得ない事を言った。眠たそうな顔をしてい
て、意思疎通に不安がある。仕方がない、口を挟んであげるわ。
「はっきり言いなさいよ。あなた、白瀬さんが生み出した生物なんでしょう?」
「ですですぅー! いやあ、解説感謝いたしますぅー」
幽霊は軽い調子で手を鳴らした。
理解すべき事としてはそれだけで十分だったけれど、好奇心旺盛な夢路は食い入
るように幽霊を見つめ、その瞳に卑しい色を浮かべた。
「ええと……あの、城菜さんはどういう能力であなたを生み出したんですか?」
「はあ……ご主人は『ラプラスの小悪魔』と言っておりました。ワタシのようなモ
ノを擬人化する能力だそうですぅー」
「ぎ、擬人化……?」
「ハイですぅー。ワタシもアナタと同じ、ニンゲンという事ですね。もちろん名前
もございますよぅー。ワタシの事は『空亡透』とおよびくださいな」
「は、はあ……」
空間の擬人化とやらは、からかうように夢路の周りを飛んでいた。
「それで? あなたは何のためにここにいるのかしら?」
私が問うと、空間は「はいですぅー」と気の抜けた声で喋った。
「ワタシはルール説明兼、監視役兼、アナタ方の移動補助の役目ですぅー。ご主人
はニンゲン遣いが荒いですね。どうせ大した負担じゃあないんですから、もう二、
三人ほど作って下さればいいのに」
「それで?」
「ルールは簡単ですぅー。あなた方はただまっすぐ歩いてくださいませ」
「それだけ? そんなのでどうやったら、夢路の主張の正当性が分かるわけ?」
「ご主人が何か仕掛けてくるんじゃあないですかね。ワタシは何も聞かされていま
せんので」
「なによそれ……一番重要なファクターじゃないのよ」
「すみませんねえ、ヨコ文字はいまいち理解できないもので」
「……」
委員長である私の目から見て、白瀬さんは抜け目がない魔神だ。ルール説明に役
立たずを放り込んだりはしない。説明はこれで十分という事だ。
これは試練だ。私の感情が必要かどうかを問うもの。
白瀬さんや夢路がどういう思惑で何を仕掛けてくるのか分からないけれど、私は
あくまでフラットに、いつも通りに振る舞うだけだ。変に意識して、結果に影響が
あってはならない。私は公平であるべきなのだ。
「と、とりあえず三途璃さん、この人の言う通りにしてみませんか……?」
遠慮がちに夢路が言った。彼女も私と同じ事を考えたのだろう。
私達は前に向かって歩き始めた。
※
「あの幽霊……後ろをついてきますね」
しばらく無言で歩いていると、夢路が肩越しに後ろを向いた。
私もそちらに視線を向けた。『空亡透』とやらは、無言で私達を見つめている。
監視役を自称したのは伊達ではないようだ。
「気にする事はないわ。何かする様子は無いもの」
「は、はあ……」
「気になるなら、消してあげるけど?」
「い、いえっ、それは結構です……!」
私が『破壊と創造の鎌』をちらつかせると、途端に夢路が尻込みした。相変わら
ず分かりやすいほど暴力が苦手な子だ。その気質は好感が持てる。もちろんこの場
合の好感というのは、あくまで規範的であるという事実に基づいた客観的分析であ
って、私個人の感情は含まれない。そんなものは捨てたのだから。
……私はどうして自分で自分に言い訳をしているのだろう。この状況において、
そんな態度はアンフェアだというのに。
私は努めて冷静に、努めずとも勝手に冷静になって、夢路を見下ろした。
「ねえ夢路。あなた、どうしてそんなに私に感情を取り戻して欲しいの?」
「え?」
歩きながら問いかけると、夢路は頬に焦りを伝わせた。
「だ、だって三途璃さんがあんな……」
「あんな?」
「い、いえ……その、無理をするべきじゃないと思います。感情を消さないと出来
ないような事は、そもそもするべきじゃないんじゃありませんか?」
「……痛いところを突くわね。でも、やらないと誰かに迷惑がかかる事なら? 公
共の福祉って言葉くらい、あなたも知っているわよね?」
「……公共の中に、人間って含まれてますか?」
「私は魔神だから、もちろん魔神にとっての公共の福祉よ」
「……」
「夢路?」
「あ、いえ、なんでもありません……でも三途璃さん、選別なんて望んでる方が他
にもいらっしゃるんですか?」
「選別? いいえ、あれは私の独断よ」
「え?」
「え?」
何やら話が噛み合わない。
もしかしてこの子、今回の件を混同しているの? 私が感情を捨てたから、選別
を始めたと思っている?
それは大きな勘違いだ。選別は、白瀬さんの提案で煮詰まっていた林間学校の行
き先が決定し、手が空いたから始めたに過ぎない。この程度の作業、感情があろう
と無かろうと、問題無く遂行できる。
選別を嫌がる夢路の意図は理解できる。彼女は自分に関係があるか否かに拘わら
ず、人間が大量に死ぬ事を好まない……それはここ二ヶ月近くの交流で分かってい
る。今までの調子だと、今回の選別で死ぬのはおよそ十億人。一度目よりも少ない
数とはいえ、嫌な思いをする事には変わりない。
けれど、私だって責任を放棄するわけにはいかない。夢路には悪いけれど、選別
は決定事項だ。納得してもらうより他無い。
ともあれ誤解を解こうと口を開いた時、変わり映えしない光景に変化が訪れた。
突然、目の前が真っ暗になった。
「ひっ!」
隣にいる夢路が大袈裟に飛び上がって驚いていた。
何の事はない。ただ視界が塞がっただけだ。停電のようなものだ。それ以外には
何の支障も無い。周囲に新しく気配が現れたわけでも、何かが迫ってくるわけでも
ない。魔神になって発達した視覚以外の感覚が、セーフティーだと告げている。
けれど、人間である夢路にはそれが分からないのだろう。暗闇でも分かるほどに
はっきりと怯えていた。
「夢路、そんなに怯えなくても……」
「す、すみません、すみません!」
「ちょっと、一体……」
「ひやああああっ!!」
不自然なほどに錯乱した夢路が、突然私の腕に纏わりついてきた。
その挙動に、私の方こそ虚を突かれた。
夢路は決して冷静な性格ではないけれど、たとえ心を掻き乱されても他人に縋る
事はしない。殊に肉体的接触を好まないようで、手を握ったり肩に触れたりするだ
けで顔をしかめ、頬に汗を伝わせる。相手によっては不快感を抱く事もあるだろう
けれど、忍や私が相手でもそうなるところを見るに、触れるというアクションその
ものに拒否感があるのだろう。
その彼女が、私の腕に思い切り身体を預けてきた。
当人に対して口にするのは憚られるけれど、彼女は極めて主張の激しい身体つき
をしている。それが遠慮会釈も無しに力を込めて抱き着いてくるものだから、意識
せずにはいられない感触が襲ってくるのを止められない。視界が塞がっている事も
相まって、その接触をより意識してしまう。
「ちょ、ちょっと夢路……?」
「す、すみません……!」
突飛な行動に出た彼女は、慌てた様子で謝罪した。けれど腕に与えられた刺激は
離れる事なく肌を焦がし、触れた感触は離れない。その身体が震え、心臓が異様に
速く鼓動しているのが感じ取れた。
夢路は今、まともな精神状態ではない。この状況に何故か、過剰なほどの恐怖を
感じている。
思い当たる節はもちろんある。それこそ私の感情を消し去ったのが、他ならぬ白
瀬さんの能力……『神域に至る聖杯』なのだから。
おそらく夢路はその能力によって、恐怖の感情を増幅させられている。だからこ
そ、視界が奪われたという些末な出来事でこれほど動揺しているのだ。
これが試練……? 確かに夢路にとっては大変だろうけれど、私まで暗闇に怯え
ると思われたら大間違いだ。
そもそも私は他ならぬ彼女の手によって、感情を消されている。こんな事に一喜
一憂する情緒は、欠片ほども存在しないのだ。
……
それなのに、どうして私はこれほど動揺しているの?
感情は無い。焦燥も不安も何もかも感じる余地は無いのに、どうして私の身体は
こんなにも熱い? どうして私の心は、これほどまでに落ち着かない?
あり得ない。夢路に対するあらゆる情緒は捨てたはずだ。たとえ彼女と接触した
としても、この心が動くわけがないのだ。
「……行きましょう」
努めて冷静にそう言った。けれど私の声は動揺で震えていた。不幸中の幸い、私
以上に震えている夢路はその変化に気付いた様子はなく、相変わらず私の腕に掴ま
ったまま、私と歩調を合わせていた。
暗闇が続く。視界以外何一つ変わっていないのに、私達は数分前とはまるで違う
状態にあった。
「こ、これ、いつまで続くんでしょう。この先、まだ何かあるんでしょうか……」
「行ってみればわかるわ……」
自分の言葉の歯切れの悪さに、自分自身で驚く。感情も無しに、私は一体どうし
て心を乱されているのだろう。あるいは、白瀬さんがこっそり私に感情を返したの
だろうか。いや、そんな自覚は無い。私の感情は失われたままだ。
だったらこれは一体……
物思いに耽る暇は与えられなかった。試練とやらは、次の展開を用意していた。
足元が突然陥没した。石造りとも砂場とも分からない真っ白な床が沈み込み、凹
んだ部分から勢いよく液体が飛び出した。
「えっ、な、なにこれ……がぼっ」
不安げな夢路の声が掻き消された。足元から飛び出した液体は数秒と待たずに通
路を見たし、私の肩辺りまで上がってきた。液体そのものは無色透明で無害のよう
だが、背の低い夢路は口や鼻を侵され、溺れかかっていた。
「夢路、平気?」
「す、すみません! わ、私、泳げなくて……」
「……あなた、結構どん臭いわよね」
「は、反論する気力はありません……」
泳げない、という言葉は本当らしく、夢路は必死にもがいていた。やっぱりこれ
は私じゃなくて、夢路の試練なんじゃないのかしら。白瀬さん、ああ見えて不思議
な感性の持ち主だから、何を考えているのか分からないわ……
「溺れられたら困るわ。ほら、私に掴まりなさい」
「あ、ありがとうございます……」
文字通り藁を掴んだ気になったのか、夢路は私の手を掴んだ。
そして自分の身体に引き寄せると、私の胴体に正面から両腕を回した。
「……え?」
夢路は息を切らしながら必死に目に纏わりつく前髪を払っている。彼女に演技や
他意があるとは思えない。
それでも、何の躊躇もなく抱き着かれたら、私は一体どこに心を落ち着ければい
いというの?
……落ち着かない。感情を捨てたはずなのに、私は動揺している。
こんなのおかしい。私は、私は……
「み、三途璃さん……? なんだか苦しそうですけど、大丈夫ですか?」
「平気よ。感情が無いんだから、苦しくなんて……」
普段よりも近くからした夢路の声に応対する。
その途中で、潤んだ瞳で上目遣いする彼女の瞳にぶつかった。言いようもない薄
暗い光を帯びたその視線は、私の脳を妖しく追い詰める。
夢路に他意は無いんだってば! 溺れかかったのだから涙目になるのは当たり前
だし、身長差があるのだから上目遣いなのも当たり前!
何よりそんな事に心を砕く必要なんて無い!
何度だって自分に言い聞かせる。
私は感情を捨てたのだ。
だってこれは、間違ったものだから。
私がかつて夢路に抱いた恋心は、その場限りのものだった。多少役に入り込み過
ぎたきらいはあるけれど、私だって現実とお芝居の区別くらいつく。
でも一度抱いた妄執は、そう簡単に拭い取れなかった。生来の融通が利かない性
格が災いして、私はいつまでも感情を整理出来なかった。夢路の方はとっくの昔に
切り替えて、真っ当な友人関係を臨んでいるというのに。
だから私は、感情を捨て去る事にした。
全ては夢路との関係のため。彼女ともう一度、フラットな付き合いをするため。
捨てなければならない感情を、順当に捨てただけだ。
それなのに私はまだ、彼女への想いを諦めきれずにいるの……?
そんなはずはない! これは何かの間違いだ! これはきっと……
脳が沸騰したように身体中が熱く、もはやまともな思考さえ敵わない。歪みかけ
た視界の中、夢路の顔が近づいてきた。
「ゆ、夢路……?」
「三途璃さん……後ろ髪に何かついてますよ」
そう言った夢路の小さな手のひらが、後頭部に触れた。水に濡れたばかりなのに
ほどよく暖かな体温が、前後ろ両方から押し寄せてくる。
この状況……耐えられない!
私の中の何かが、爆発しそうだ!
私は必死に耐えた。夢路の手が後頭部から離れるまでのほんの数秒が、今まで生
きてきた十数年よりも長い気がした。
やがてその手が私の視界に現れた。指の間に、小さな木片のようなものが挟まっ
ていた。これも白瀬さんの策略だろうか。まったく、意地が悪い。
そう思いながらも、私は押し寄せた何かが引き始めているのを感じ、安心した。
……直後。耳元から甘い声がした。
「……はい、取れましたよ」
何の事はない、単なる夢路の報告だ。
でも耳元で囁くようなその声は、油断した私の琴線を完膚なきまでに叩き壊すに
は十分な刺激だった。
なんだろう、この気持ちは。
これは感情ではない。けれど私の知性を越えた反応だ。
私の中の『生ける炎』が爆発するように脈打った。
私は反射的に夢路を突き飛ばした。
それは正解だった。何故ならその刹那、私に触れていた水分という水分が、一瞬
で蒸発したのだから。
「み、三途璃さん!? それは一体……?」
夢路が私を指し、身体を震わせていた。沸き立つような感情の炎が具現化された
かのように、私の全身が燃えていた。
知性が呑み込まれていく。
落ち着かない。
どこかへ行かないと。
ここではないどこかへ行かないと……!
私は振り返り、呑気に浮かんでいる幽霊に飛び掛かった。
「うがあああっ!!」
「え、な、なんですか!?」
幽霊の頭を鷲掴みにし、その身体を引き裂いた。
この女は空間の擬人化。つまりそれを引き裂けば、切れ目が入るのだ。
引き裂いたその身体を力いっぱい横に開いた。すると空間が割れ、朧げだった通
路が現実世界へと呑まれていく。私達のいた空間もまた水が引き、先ほどまでいた
コロッセオへと戻っていた。
火だるまになった私を見て、白瀬城菜が目を見開いていた。
「お、思ってた状況とちょっと違うんだけど……あの、三途璃ちゃん、大丈夫?」
「うるさいっ!!」
私は吠えた。
それは、紛う事無き激情だった。




