03
交友関係が増えるごとに、しがらみも増えていく。
人間相手ならそれほど頭を抱えるような事ではない。社会生活の中で生まれたた
くさんのしがらみのうち、一つ二つがこじれようとも生活には大した影響が無いか
ら。完璧じゃなくても許されるし、適当でも問題無い。ちょっとくらい軋轢が生ま
れようとも、ペナルティーがあるわけではないのだから。
でも相手が魔神の場合、その難易度は跳ね上がる。
完璧じゃないと許されない。十一のうちのたった一つでもこじれてしまえば、そ
れは致命的な刃となる。一つでも取りこぼしたら、それで終わり。
適当じゃ許されない。廊下で会って話す程度の仲では、いざという時切り捨てら
れる。私がいないと落ち着かない、私がいないと始まらない。私がいないと生きて
いけない。そのくらい極端に踏み込まないと、道を踏み外してあっという間に奈落
の底だ。
軋轢なんてもってのほかだ。魔神同士の喧嘩はちょっとしたレベルでも万単位の
犠牲が出てしまう。まして本気の憎しみ合いに発展すれば、あっさりと人類史に終
点が打たれるに違いない。
人間関係……もとい魔神関係は慎重に。
壊れ物を扱うように……いや、壊れ者は私の方か。
パズルのように難解な時刻表を作りあげ、完璧な配分で親睦して、誰からも求め
られ、それでいてダブルブッキングをしないよう努めて慎重に。もちろん主導権は
常にあちらが握っている状態で、だ。
今のところ、私のしがらみは七体。
大神照。空々忍。黄泉丘三途璃。木霊木珠樹。白瀬城菜。桃井最萌華。唯野唯。
まだろくに話もした事が無い相手があと四体いるけれど……正直もうパンク寸前
だ。これ以上増えるとどこかに綻びが生じかねない。
連中との付き合い方は、もっとよく考えないといけない。出来る限り短い時間と
少ない時間でより良い関係のために喜んでもらう。そういう器用な付き合いが私み
たいな鈍くさい人間に出来るとは思えないけれど……やるしかない。
成せば成る。成さねば終わる、何もかも。
というわけで私は、新しく出来たしがらみである唯野唯との関係についても、き
ちんと良好に保ち、その上で出来る限り効率化したいと思う。
唯野さんは、私に対して心の平穏を求めている。周囲の魔神に馴染めない彼女は
孤独を解消したがっていた。
でも彼女を優先すると、多分照辺りがうるさい。ただでさえ周囲から浮いている
唯野さんが照から顰蹙を買えば、さらに居心地が悪くなるだろう。
だから唯野さんとの付き合いは、あくまで秘密裏にやる事に決めた。少なくとも
他の魔神達との付き合いが落ち着くまで、当面の間だ。
まず、朝。起きて学校に向かう。朝は照と待ち合わせしているから、他の魔神と
の交流はNGだ。
「おはよー、むーちゃん! そろそろ暑くなってきたかな?」
「おはよう、照。もう七月だもんね」
日差しの強い一日だった。東の空でじりじりと音を立てるように主張する太陽が
私の弱い肌をじんわりと焼く。腕で額を拭うと、少しだけ汗が出ている事に気が付
いた。
その一方で、照は全く汗を掻いていない。魔神は暑さを感じないらしい。
「むーちゃん的には夏と冬、どっちが好き?」
「……今暑いから夏は嫌い。冬は好き」
「むーちゃんって時々すっごく単純だよね」
「うっ……い、いや、私は今もいろいろ考えて生きてるし……」
「あはは! むーちゃんは意地っ張りさんだなあ!」
照はご機嫌そうだ。結構な事だけど、ちょっと釈然としないなあ……
教室へ。室内は冷房が利いているようで、ひんやりと涼しい。冷房なんて魔神に
は必要ないだろうに、私を慮って点けておいてくれたのだろう。
「気にする事は無いわ。これも委員長の仕事だもの」
三途璃さんが照れくさそうに頬を掻く。彼女はくじ引き以来、ちょっとだけ私を
気遣ってくれるようになった。相変わらず授業中の暴走回数はトップクラスだし、
その事については全く悪びれないけれど、意識的に優しくしてくれるのは嬉しい。
「ねえ夢路。あなた赤と青どっちが好き?」
「え、な、なんですかその質問は……?」
「こら、質問を質問で返すんじゃないわよ。国語の追試受けさせるわよ」
「あ、いえ、あの、意図が分からなくて……」
「何よ、私だって世間話くらいするわよ!」
「あ、え、えっと……じゃあ青で」
「ふぅん。それじゃあ青と緑なら?」
「ええと……緑、ですかね」
「じゃあグレーとグリーンなら?」
「何故突然英語に……」
「質問を」
「あ、はい! え、ええと……グレーです!」
無我夢中で答えると、三途璃さんは満足そうに目を細め、「正直ね」と頷いた。
よく分からないけれど、満足して貰えて結構だ。
そうこうしていると、ホームルーム開始のチャイムが鳴って教師役が現れた。自
分の席に戻って着座する。そこで私はようやく、唯野さんがいつのまにか教室に来
ていた事に気が付いた。
「……」
唯野さんの席は私の左隣にある。並びで見ると近いけれど、私としては右隣の忍
さんに意識を取られる事が多いから、心理的に右隣よりも距離が遠い。
それでもたった八メートル四方の教室の中にいる以上、彼女の視線を感じずには
いられない。
「……」
振り返らないけれど、何となく分かる。彼女は私を見ている。私に視線を送って
いる。何か言いたい事があるのか、何かを求めているのかは分からないけれど、不
安と不満が身体に纏わりつくのを感じる。
きっと唯野さんは今、私の挙動に満足していない。せっかく仲良くなったのだか
ら、何かしらのアクションを期待しているのかもしれない。
でも今日の私にはそんな都合の良いタイミングは無かったし、私なんかに過度な
期待を抱かれても困る。私に三途璃さんとの会話を打ち切って他の魔神を優先する
なんて胆力があったら、今頃もっと上手く立ち回れている。あるいはとっくに死ん
でいる。
でも、縋りたい気持ちも分からないでもない。私だってもしもこの場にクラスメ
イトとして配備された人間がいたなら、尻尾を振って擦り寄っただろうから。
だから私はホームルームの最中、ほんの少しだけ……三途璃さんに見咎められな
い申し訳程度の数秒だけ、突き刺さる視線を正面に受けた。
そして自分の小物さを表明するように、ぎこちない笑みを作った。
「……!」
しかしてどうやら唯野さんは満足してくれたらしい。私の笑みに対して歓喜の色
で頬を染めると、気恥ずかしそうに前を向いた。
あれで良かったのか。思った以上に簡単だった。私ごときの機械みたいな笑みで
満足するなんて、よっぽど孤独に打ちひしがれていたのだろう。そして他のどの魔
神よりも御し易くて手が掛からない。私としても有難い限りだ。
ホームルームが終わり、先生が出ていく。
と同時に、唯野さんが席を立ってこちらに視線を向けた。
「夢路、あんたに合いそうなアイシャドー買ったんだけど、試してみていい?」
唯野さんがこちらに来るより先に、前の席にいるモモさんが振り返った。
「え、ええと……」
「答えは聞いてないわ。はい、動かないで」
「わ、私の意志は……?」
「あんた、断らないでしょ」
「断りませんけど……」
「あはは! 従順で何よりね」
モモさんが私の目元に触れる。このしたたかさ……城菜さんに通じるところがあ
るなあ。モモさんは城菜さんが嫌いみたいだから、口が裂けても言えないけど。
モモさんが私の目をじっと見つめてくる。視線に耐えられず目を逸らすと、いつ
のまにか唯野さんがまた座っていた。
なんというか……申し訳ない。でも私はモモさんを拒めない。ギャルっぽくても
彼女は魔神。邪魔な相手は容赦無く殺す残酷さを持っている事を私は知っている。
されるがまま、時間が過ぎるのを待つしかない。その結果、私の目元は赤黒い感
じにコーディネートされてしまった。
「はい、出来た」
「あの、これ、失敗なんじゃ……」
「なによ。あんた病みメイク見た事無いの?」
「は、はあ……」
「似合うわよ。あんた、ちょっと病んでる雰囲気出てるしぴったりだと思うわ」
「そ、それって褒めてないですよね……」
「褒めてる褒めてる。あたしには真似出来ないもん」
「……」
絶対にばかにされている。しかし反論するだけの時間は与えられず、授業が始ま
ってしまった。
再び真面目な雰囲気が展開される。そしてまた、唯野さんがちらちらとこちらを
盗み見し始めた。
さっきと同じような挙動だ。私も同じようにぎぎぎ、と油を切らした機械人形み
たいな笑みを浮かべて見せた。すると彼女はさっきよりもほんの少しだけ私に見惚
れたように動きを止め、焦った様子で前を見た。
今のは……何だろう。モモさんのメイクの成果かな。私の魅力だなんて考えただ
けでぞっとするけれど、有効に働いているならよしとするか。
その後も唯野さんは同じような挙動を繰り返した。
休憩時間のたびに私に近づこうとして、他の魔神に遮られてまた座る。そして授
業が始まると、五分か十分くらいごとに私に視線を送る。まるで餌をねだる鯉のよ
うに、繰り返す。回を増すごとに彼女の視線は熱を帯び、より強い期待を抱いてい
るような気がしてきた。
うん、確かにこのままじゃまずいとは思う。結局私は笑って誤魔化しているだけ
で、今日は一言も彼女と言葉を交わしていない。そろそろ私の対応に苛立ちを覚え
ていてもおかしくはないのだ。
いくら彼女との仲を秘密裏に進めるつもりとは言っても、完全に没交渉にする気
はない。ましてここまで催促するように視線を送られ続ければ、私の方にも焦燥と
いうものが生まれてくる。いくら人間に近くたって、唯野さんも魔神。まかり間違
って暴走なんてさせたらしゃれにならないのだ。
しかし残念ながら、会話のチャンスは訪れない。今日に限って魔神達は入れ替わ
り立ち代わり、私の席を訪ねてくる。しかも今日に限って、かなりどうでもいい用
事で。
「むーちゃんむーちゃん、さっきでっかいオニヤンマ飛んでたよ!」
「ほほう、オニヤンマですか。風情がありますねえ」
「いいわね。トンボは幸せの象徴よ。極楽蜻蛉っていうくらいだもの」
「ふん、決して褒めてないと思うけどな。だが呑気な大神にはぴったりだ」
「とんぼ型の髪飾りってのもあるのよ。可愛い系の夢路には似合うかもね」
「そんなのは不気味なだけだ。それよりも蜻蛉の羽根は芸術的だよ」
気づけばわらわらと魔神達が私の席を囲んで井戸端会議を始める始末だ。オニヤ
ンマなんてどうでもいいよ! トンボなんてシーズンが来れば腐るほど湧いて出る
でしょうに……
そんなこんなで、結局昼休みまで機会は訪れなかった。
「ようやくお昼だねえ。さあむーちゃん、お弁当一緒に食べようね!」
そして昼休みは昼休みで、きちんとしがらみが存在する。私は普段から照、忍さ
ん、三途璃さんの三体と机を並べて食事を摂る。魔神には食事なんて必要な無いだ
ろうに……そういうロールプレイには手抜かりが無いのが腹立たしい。
「え、ええと……じゃあ、お弁当取ってくるから」
そう言って席を離れ、荷物を置いたロッカーへ向かうのが精いっぱいだった。
荷物は廊下のロッカーに仕舞っている。ロッカーは出席番号順に並んでいて、出
席番号は五十音順。私は『不破』で『桃井』の一つ前。私の前には二体分の番号が
あって、そのさらに前が『唯野』だ。
けれどこのタイミング……まるで待っていたかのように、唯野さんが私の隣にす
いと並び立った。
「あの、不破さん……」
授業中よりもさらに強い熱意で私を見つめてくる。
「もうちょっと落ち着いて話がしたいんだけど……駄目かな?」
「あ、え、ええと……その、私、照達と約束があって……」
「……そうよね。分かってるわ」
私の答えに、唯野さんが目に見えて落胆した。目の色に失望が宿る。なんとか挽
回の必要がありそうだ。
話をする時間は無い。でも私には、ここ一番の秘策があった。
「唯野さん、ええと、あの、これどうぞ……」
慣れない事をしている自覚はあるので、どうしても態度が不審になる。おずおず
と彼女に手渡したのは、私の鞄から取り出した包みだ。唯野さんは怪訝そうな顔を
してそれを受け取ると、「なに?」と首を傾げた。
「ええと、お弁当作ってきました。よかったら食べてください……」
「え? でも……」
「私も同じ物があるので、大丈夫です。よ、よかったら後で、感想とか聞かせてく
れると有難いのですが……」
「えっと……」
「あ、いらなかったら捨ててください……それじゃあ」
逃げるようにその場を去った。
話は出来ないけれど、同じ物を口にすれば連帯感くらい生まれるだろう。同じ釜
の飯を食うと仲良くなるって説もあるくらいだし。
問題なのは、私があまり食事を作り慣れていないという事。昨日思いついて実施
したはいいものの、料理は得意じゃない。三途璃さんとの一件の前に自炊を検討し
て以来だから、拙いかもしれない。まあでも、いらなかったら捨てていいって言っ
たし、口に合わないなら無理に食べないだろう。
この流れで、唯野さんの好みを把握するのもいいだろう。今後この作戦を続ける
なら好物を作り続けるだけで心証は良くなるだろうから。
ただ、これで喜んでくれるかどうかは微妙なところだ。他人の作った料理に手を
つけたくないタイプの人も存在するし、そもそも唯野さんは好んで食事を摂らない
タイプかもしれない。余計な事をしただろうか……
などという私の考えは杞憂だった。照達と食事をしながらこっそり唯野さんの方
を盗み見ると、彼女はさっきまで以上に満足気な顔をして箸を進めていたから。
途中で何度も箸を止め、私の様子を窺っていた。嫌いなものでもあったのだろう
か。でも結局、完食した様子だった。良かった……
「むーちゃんさん、今日は随分上の空ですねえ」
「あ、いえ、その……」
まずい、唯野さんの方に気を取られていると、忍さんからツッコミが入った。こ
っちもおろそかにしちゃ駄目だってば! 私のばか!
「何か企んでます?」
「い、いえ、そんな事は……」
「無理しちゃだめですよ。あなたは不器用なんですから、器用に立ち回ろうなんて
考えたら、気付かないうちに致命的なミスをするものです」
「ふ、不吉な事を言いますね……」
気にする事は無い。忍さんお得意のからかいだ。
私は何も間違っていない。何もミスなんてしていないんだから……
忍さんのせいで漠然とした不安を抱え、さらに時間が過ぎていく。
そのまま唯野さんと話をする機会はついに得られず、放課後になった。私は席を
立ち、唯野さんの方を向いた。
「おいゆめじ、オマエ山女に興味あるか?」
私の視線を遮るように、ジュジュさんが目の前に躍り出た。
「え、ええと……なんです?」
「山女だよ。そういう名前の妖怪、知らないか?」
「ええと……遠野物語でしたっけ? 出会ったら死ぬってやつ」
「さすがに詳しいな。昨日ネットで目撃情報があったから会いに行くぞ」
「で、出会ったら死ぬのに会いに行くんですか……?」
「魔神が死ぬわけないだろ」
「私が死にますよ……」
「じゃあまた合体するか?」
「……」
「冗談だよ。守ってやるから安心しろ」
そう言ってジュジュさんが虚空から樫の杖を取り出した。
『大魔導師の杖』。空間に穴を空ける魔法を使ったらしく、教室の真ん中にはぽ
っかりと薄暗い山道の光景が浮かび上がっていた。
「さあ、行くぞ」
「ええと……明日とかじゃまずいですかね?」
「なんで今日は駄目なんだ?」
「なんでというか……」
私はジュジュさんの肩越しに唯野さんを見た。視線が合う。そして私の視線を追
いかけたジュジュさんもまた、唯野さんを発見した。
「なんだオマエ、ゆめじに用があるのか?」
ジュジュさんが怪訝そうに眉を顰めた。唯野さんはそれを受けて、ぎこちない笑
いを浮かべた。
「あ、あはは……何でもないよ。見てただけ」
「……ゆめじは見世物じゃないぞ」
「そ、そうだよね……か、帰ろうか……な」
私の脇を通り抜け、唯野さんが一瞬だけ私に視線を送った。私は何も言えず、そ
の背を追う事も出来なかった。
※
ジュジュさんの用事が終わったのは、午後十時過ぎくらいの事だった。
「なかなか興味深い体験だったな。それじゃあまた明日、学校でな」
意外にもあっさり解放されたと言うべきか、たっぷり付き合わされたと嘆くべき
か……とりあえず疲れた。
ジュジュさんとの活動が面白くなかったわけではない。奇跡的に死者は出なかっ
たし、興味深い題材だった。
でも魔神の体力は無限だから、足並みを揃えるのは大変だ。このペースで毎日誰
かしらの魔神に付き合っていたら、どこかで倒れてしまいそうだ。
解散したのは私の家の前。早く帰って寝よう……
そう思って家の門を開け、ふらふらと扉へ向かう。
「あの、不破さん……」
「わあっ!?」
門柱のところから突然、人影が飛び出してきた。私は疲労も忘れ、赤っ恥の大リ
アクションを強制された。モモさん辺りが見ていたら大爆笑されてたんだろうなあ
……って、唯野さん?
「驚かせてごめん……えっと、今大丈夫、かな?」
唯野さんはきょろきょろと周りを見渡しながら訊ねてきた。大方、またぞろ他の
魔神に会話を遮られないかと心配しているのだろう。
彼女は制服姿だった。放課後から今までずっと、家にも帰らずにここで待ってい
たのだろうか。まさか、あれから何時間も経過しているのに……
「やっぱりちょっと話がしたくて……駄目?」
唯野さんが物欲しそうな顔で私を見つめてくる。
正直、疲れたからもう寝たい。
でも今日一日、ずっと彼女を蔑ろにしてきた自覚くらいはある。今くらいは頑張
っておかないと、いくらなんでも不誠実だ。
疲労をなんとか思考の端に追いやって、私は笑みを演出した。
「立ち話もなんですし……上がって下さい」
こうして私は魔神である唯野さんを家に上げた。
無駄に広い家の中に応接間を作っておいてよかったと心から思う。どうせ政府の
人間しか来ないからと散らかす事なく綺麗にしておいて本当によかった。
粗茶を出し、唯野さんとテーブルに向かい合う形で座る。彼女は差し出されたお
茶を一口飲むと、安堵の溜息を零した。
「おいしい……」
「お口に合ったなら幸いです。普段は大人にしか振る舞わないもので……」
「……クラスの皆にはお茶を出した事無いの?」
「ええと、家に招いたのは唯野さんが初めてですので……」
「大神さんも来た事無いの?」
「あ、はい。照も家に呼んだ事は無いので……」
「……ふぅん」
唯野さんは嬉しそうに頬を綻ばせた。
「私が一番なんだ……」
「え、ええと……」
「そういえば、お弁当ありがとう。とっても美味しかった」
「それは何よりです……好き嫌いはありませんか?」
「実はピーマンと納豆が大の苦手で……」
こうして唯野さんは私と世間話を始めた。
話の内容自体は、特別なものではない。本当に自分の好みや昨日見たテレビ番組
の話なんかをぽつりぽつりと話すだけ。
危険な事に巻き込むでも、突飛な要求をしてくるでもなく、彼女はただ会話だけ
を目的に言葉を紡ぎ、満足そうに頬を染めた。
穏やかな時間が流れる。あまりに緩やかな会話の中で、いつしか私の瞼がゆっく
りと下がっていった。
「……不破さん?」
「あ、は、はい!」
はっと目を覚ました。いけない、魔神との会話中に居眠りなんて万死に値する行
為だ。
「ご、ごめんなさい……!」
「いいのよ。夜分に訪ねてきた私が悪いんだし」
「す、すみません……」
尚も残った気まずさを振り払おうと再び頭を下げる。「いいって」と優しく慈悲
を与えられて顔を上げると、唯野さんは心配そうな表情になっていた。
「不破さん……相当疲れてるんじゃないの?」
「あ、いえ、そんな事は……」
「気を遣わないでいいから、正直に言ってよ」
「えーと……実はちょっとだけ」
「本当にちょっと? 目に隈が出来てるよ」
「あ、それはモモさんの化粧の影響で……」
「今日も忙しそうにしてたよね。無理してるでしょ。もうちょっと楽に生きた方が
いいんじゃないの?」
「……」
無理なんてしていない……と言えば嘘になる。
でも無理をしないと、世界が危ない。楽なんてせずに、私はもっと上手くやらな
いといけない。
昼間、忍さんに言われた事を思い出す。
器用に立ち回ろうとしたら致命的なミスを犯す、と彼女は言っていた。
ミスっていうのはつまり、今みたいな感じの居眠りか。
疲労を溜めすぎると、取り返しのつかない場面で不真面目な態度を晒してしまう
かもしれない。それが例えば三途璃さんの前だったら、即座に首を刎ねられたって
文句は言えない。
無理をしないなんてのはそれこそ無理だ。だから出来る事といえばせいぜい、無
理をしても居眠りをしない方法でも探すのが関が山だろう。
「心配してくれてありがとうございます……もう少し無理してみますよ」
「……そう、分かった」
唯野さんはそれ以上突っ込んだ事を言わず、それで引き下がった。
一時間ほどして、彼女は帰っていった。私は彼女を見送った玄関先で、泥のよう
に眠った。
……
目を覚ました時、目の前にあったのは知らない天井だった。
「え?」
まず初めに戸惑いが湧き上がる。背中には柔らかなマットレスの感触……いつの
間にベッドに移動したんだろう。でも寝返りを打って確認すると、自分のベッドじ
ゃない。布団も毛布も枕も、見た事の無いものだ。
寝ぼけ眼からたっぷり一分。現状をアップデートして、飛び起きた。
起きた先に視界に入った部屋も、私の知らない場所だ。ついでに言えば、窓の外
の景色も全然違う。
そして上半身を起こした時……じゃらりと不快な音がした。
私の両脚には、ボウリングの球みたいな足かせと手錠が繋がっていた。
なんだろう、これは。
寝落ちしたかと思ったら、全然違う場所で目を覚ましている。これもまた夢なの
かな?
いや、多分違う。上手く表現できないけれど、この現実感は確かに現実だ。
もしかして致命的なミスってこれ?
私、一体何に巻き込まれたんだろう……




