01
早いもので、私がこの街に移り住んできて十日が経過しようとしていた。
この生活には、未だに慣れて来ない。月日が過ぎるのは蝸牛のように遅く、毎日
が不安と苦悩と絶望に満ちている。一歩間違えばよくて死亡、悪ければ世界を道連
れにしてしまう重圧を抱えながら、我ながらよく十日も耐え忍んで生きてきたと思
うばかりだ。
この綱渡りは、一体いつまで続くのだろう。
今のところ、終わりは見えてこない。私が諜報員として情報を集め、政府がそれ
を生かして魔神達を全滅させない限り、終わる事は無い。もちろん今のところその
展望は無いし、可能とも思えない。
敢えて言うなら、人類が魔神に滅ぼされたら終わる。その可能性の方がずっと高
いけれど、当然人類に含まれる私はそこにいないだろう。
しかし、縮こまっていては座して死を待つ事と同義だ。どんなに可能性が薄くと
も、行動あるのみだ。
私に出来る事は二つ。
一つ、出来るだけ魔神と仲良くして懐柔し、その脅威を少しでも減らす事。
一つ、その過程で魔神の能力や生態を理解する事。
今のところ、どちらも一定の成功を収めていると言っていいだろう。
まず、大神照。元々彼女の手引きでこの街に来たのだから当然だけど、照は私と
仲が良い。彼女の能力は二つ知っている。
次いで、空々忍。気まぐれで粗暴だけど、機嫌次第で私の力になってくれる。彼
女の能力も、やはり二つ聞き出す事に成功した。
そして、黄泉丘三途璃。私をはっきり「友達」と口にする彼女とは、良い関係を
築けていると思う。彼女にしても、能力を二つ教えてくれた。
魔神は一体につき三つの能力を持っていると、三途璃さんは言っていた。何事に
もまっすぐな彼女が嘘を言うとは思えないので、これも信用できる情報だ。
となると、先に挙げた三体の魔神は、いずれも一つずつ自分の能力を私に公開し
ていないという事になる。切り札は隠しておきたいのか、私の方に教えるだけの価
値が無いのかは分からない。いずれにせよ、その秘密を掴むのは容易な事ではなさ
そうだ。
それよりも、ターゲットを他の魔神へと切り替えた方が早そうだ。
私のクラスには、十一体の魔神がいる。仲良くなった三体を除き、八体。彼らと
も仲良くなれれば、魔神という種の脅威はどんどん薄らいでいく。彼らの能力を知
る事が出来れば、今後人類が優位に立ち回れるかもしれない。
ひいては、私の生活にも少しくらいは余裕が生まれるだろう。
頑張ろう。
ここ最近は、その場その場を切り抜けるので精一杯だった。今だってその状況に
は変わりないけれど、今度はこちらから動いてみよう。
新規開拓だ。私は今日から、よく知らない相手にも積極的に声を掛けられる人間
になるぞ!
……
などと意気込んではみたものの。
「今日も一日楽しかったね、むーちゃん!」
「今日も一日楽しませてもらいましたよ、むーちゃんさん」
「やっぱり学校はいいわね! 気が引き締まるわ!」
放課後まで生活して、話しかける事が出来たのはいつもの面子のみ。これじゃあ
普段と変わりがないじゃないか。
いや、でもしょうがない。だって魔神っていう連中は、一体で世界を滅ぼすだけ
の力と、実際にそれをやる倫理観の持ち主なのだから。何の力も持たない私みたい
なぽっと出の人間が不用意に近づけば、簡単に消されてしまう。それでもやれと言
う奴がいるのなら、まず代わりにやってみてほしいものだ。
「むーちゃんさん、なんか言い訳がましい事考えてません?」
「……いえ、別に」
ちょっとでも思考を凝らそうものなら、すぐに茶々を入れてくる魔神までいるの
だから、まったくもってやっていられない。こんなんじゃ、意欲も意気込みも削が
れるというものだ。
と、いうわけで。たっぷり描写を割いてまで行った現状確認と決意表明は、何の
甲斐も無く無駄に終わりましたとさ。
なんて結末、私のなけなしのプライドが許さないわけで。
だからといって今更行動するには時間も遅く、さりとてそのまままっすぐ帰宅す
るほど厚顔無恥でもない私は結局、「一緒に帰ろうね!」と天使のような悪魔の笑
顔をいなし、放課後の学校を一人、あてもなく彷徨っていた。
「……」
この学校は十二人の生徒で使うにはあまりにも広いけれど、規模そのものは普通
の私立校とほとんど変わらない。
校舎が三つに、グラウンドとプールと体育館。どれもデザインはごく普通のもの
で、隠し通路も財宝もありはしない。当たり前の空間に、当たり前の施設が存在す
る……それだけの話だ。
違うのは、そこを使う人だけだ。政府から派遣されたエージェントが教師の真似
事をするだけの学校だから、職員室には大したものが置いていない。生徒が帰った
後は教師も帰るし、部活や委員会なんかも無い。だから放課後の学校は、不気味な
ほどに静まり返っていた。
ぼんやりと施設をうろつきまわり、時には図書室で小休止などに興じていると、
時間はあっという間に経過する。まもなくして、西の空が昏くなり始めた。
「……私、何やってるんだろう」
夕焼けを映した窓ガラスに反射した自分の顔に嫌悪しながら、ひとりごちる。何
かが起きる事に期待して、何も起きなかった。当たり前の話だ。
無意味に意地を張った結果、無意味な事をしている……そんな事に気が付いて、
嫌になった。
帰ろうかな。
そう思い、来た道を引き返す。普段足を踏み入れない校舎に入ったものの、結局
は廊下と階段と昇降口があるだけの場所だった。手慣れた儀式をこなすみたいに、
粛々と踵を返せばいい。
そう思った矢先の事だった。
かたり。
すぐ横……素通りしかけた空き教室で、物音がした。思わず足を止めると、さら
に押し殺したような呻き声。まるで地獄から響いているかのようなその低い声に、
小心者の私は肩を強張らせた。
「……」
落ち着け、私。幽霊なんているわけがない。
いや、そもそも私は幽霊なんて怖くない。
だって幽霊なんかより怖いバケモノが、私の周りにいくらでもいるから。今更ス
ケールの小さい悪霊なんて出て来られても、苦笑いしか出てこない。私を怖がらせ
たいなら、破壊神くらい連れてきてもらわないと困る。
極めて論理的な理屈がここにある。でも夕闇に溶けるようなおどろおどろしい声
が、私の理性に絡みつく。ええい、怖くないんだってば!
っていうか、幽霊なわけないし! どうせ魔神の誰かがいるだけだ! それなら
むしろ好都合だし! 私は魔神と接近したくて、こうして今ここにいるんだし!
一体誰に言い訳しているのかは分からないけれど……私は腹を決め、おっかなび
っくり音を立てず、空き教室の扉を開けた。
中は存外に暗かった。どうやら窓には暗幕が掛けられているらしく、電灯も点け
られていないため、開けた扉から差し込む光だけがやたらと目立つ。私が体重を掛
けるごとに少しずつ開いていく扉と、それに比例して大きくなる光の筋。それが映
し出したのは……一体の魔神だった。
色とりどりなカラーリングの頭髪を持つ魔神には珍しく、純日本人的な黒髪だ。
背中を越え、スカートの裾辺りまで伸ばした超ロングヘアー。やや小柄な体躯に針
金を思わせる細い四肢。私の来訪に気付き振り返ったその大きな瞳には、血のよう
に赤い色で魔法陣のような紋様が描かれていた。
彼女の名は、木霊木珠樹。政府からの報告で度々名前が挙がる、危険な個体だ。
「誰だ」
呟くように小さく、吠えるように低く、無味乾燥に短い声。それだけで、照達と
は違う……私というちっぽけな人間に対する無感動さが見て取れた。
「あ、あの、私は……」
「オマエ、ここで何を見た? 答えろ」
その魔神……木霊木さんは右手に仙人のような樫の杖を、左手に怪しげな真っ黒
い本を持っている。彼女が右手を振るうと、
「わあっ!」
私は謎の引力によって部屋の中央まで引き寄せられた。体勢を崩し、前のめりに
倒れこむ。慌てて顔を起こすと、冷たい目でこちらを見下ろす魔法陣が二つ。
「そ、その杖、もしかしてあなたの能力で……」
「質問に答えろ」
私の言葉を遮り、彼女が再び問うとともに、私の方へ杖を向ける。その行為が威
嚇なのか最後通牒のつもりなのかは分からない。でも、選択肢は無いのは確かだ。
「何って……」
改めて周りを見渡す。膝をつき、暗闇に目が慣れてくると、教室の隅の床に何か
が蠢いているのが見えた。サイズは人間くらいだけど、それにしては妙にでこぼこ
したシルエットだ。まるでハリネズミのように無数の針を立て、こちらを威嚇して
いるようにも見える。
けれどよく見ると、それは針なんかじゃなくて……
「ひっ!?」
思わず引きつった声が出た。やっぱりこれは、人間だった。
立てているのは針じゃなくって、釘。人間のありとあらゆる全身に、釘が打ちつ
けられている!
もちろん血塗れだし、痛みで呻き声をあげている。教室の外で聞いたのは、この
人の声だったのか。
しかも、釘まみれの人間は一人ではなかった。周りを見ると、そこかしこに何人
もいる。中には全く動かない人影まであって、この猟奇的な状況がしばらく続いて
いるのだと分かった。
「な、なんですか、これ……? まるで何かの儀式みたいで……」
「そうだ。これは儀式だ」
木霊木さんはそう言って薄く笑った。この狂った空間を愉しむかのように。
「オマエ……丑の刻参りって知ってるか?」
「え?」
「知っているかと訊いている」
「は、はい。夜中の神社で藁人形に五寸釘を打ち立てる、あれですよね……」
「そうだ。相手を呪う手っ取り早い行動だ。だが他人に見られると効果が無くなる
……それどころか、呪いが自分に返ってくるとさえ言われている。そうなる前に、
見た相手は殺さなくてはならない」
「あ、あの、その話は一体……」
「オマエ、儀式を見たな?」
木霊木さんが冷たく言い放つ。あ、やばい……この魔神、私を殺す気だ。
理由は知らないけど、こんな儀式をするくらいだ。私を殺す事に躊躇いなんてあ
るわけがない。とにかく何でもいいから、口を出して攻撃を止めないと……!
「ちょ、ちょっと待って下さい! 口封じが必要なのはあくまで丑の刻参りであっ
て、これはまた別なんじゃ……」
「原理は同じだ。魔術の本にそう書いてある」
「だ、だったら尚更大丈夫です! だって本来丑の刻参りって、黙ってやるもので
すよね?」
「……そう、なのか?」
私の指摘に、木霊木さんは首を傾げた。あ、なんかいけそう! このままの勢い
で押し通すしかない!
「そ、そうなんです! だからその時点で効果は無くなってると思うんです! 私
が儀式の現場をしっかり見たのは、木霊木さんに話しかけられた後なので、呪詛返
しみたいな心配はしなくてもいいかと……」
「ふぅん。オマエ、結構詳しいんだな」
「あ、はい……どうも」
「丑の刻参り、やった事あるのか?」
「あ、その、結局度胸が無くてやりませんでした……」
「誰か恨みたい相手がいたのか?」
「え、ええと……」
苦い過去を掘り返す。
丑の刻参りをしようとしたのは嘘ではない。昔の私はよくよく自分の無能さを棚
に上げて、他人を恨んだりしたものだ。今から思えば、黒魔術なんかよりよっぽど
恐ろしい黒歴史だ。誰にだってそういう過去、あるよね……?
気まずくなって目を逸らす。その所作を見て何を思ったのか、木霊木さんは「へ
え」と短く呟き、杖を降ろした。
「呪詛返しとか関係無しに殺してもいいんだけど……まあいいや。オマエの必死さ
に免じて殺さないでおいてやる」
「あ、ありがとうございます……」
どうやら絶体絶命のピンチは逃れたらしい。けれど代わりと言わんばかりに木霊
木さんは私の肩を掴み、ずい、と正面から顔を近づけてきた。
「……オマエ、うちのクラスの人間だよな? 確か、不破夢路っていったっけ」
「あ、はい……覚えてたんですか」
「うちのクラスで唯一、ボクより背が低いからな」
「……」
滅茶苦茶嫌な覚えられ方だった。好きこのんで小柄になったわけじゃないのに。
「ちなみにボクは……」
「あ、木霊木珠樹さんですよね……私もあなたの事、覚えてます」
「……」
「あ。あれ?」
木霊木さんの名前を呼ぶと、彼女は途端に不機嫌そうに眉を顰めた。名前を憶え
ているアピールがうざかったのかな……?
「その呼び方は好きじゃない」
「え?」
「大体、珠樹ってなんだよ。親がそんな名前つけるから、ボクは変なあだ名で呼ば
れるんだ。仮にも女子に付けるあだ名じゃないだろ」
「あ、あの……」
「こっちの話だ。オマエはボクの事、ジュジュって呼べ」
「じ、ジュジュさん……ですか?」
「そうだ。音読みより訓読みの方がかっこいいだろ」
「は、はあ……」
「それより……おい、ゆめじ」
木霊木さん……改めジュジュさんはまるで子犬を呼ぶみたいに私を呼び捨てて、
背を向けた。
「オマエ、黒魔術に詳しいみたいだな。今からボクの相棒にしてやる」
「え?」
「試したい黒魔術があるんだ。一緒に来て手伝えよ」
「え、ええと……」
「答えは聞いてない。魔女の飼ってる黒猫みたいに振る舞えばいいんだよ。さあ」
行くぞ、と呟くように言って彼女が杖を振ると、目の前の暗幕と窓がひとりでに
口を開けた。すっかり夜のとばりが下りた世界に、さらに杖の残像が描かれる。
「空を飛ぶ……『飛翔魔法』。風よ、ボクらを運べ!」
ジュジュさんの言葉に応じるように、彼女の身体が宙に浮く。そしてそれと同時
に、私の身体も。
「え? わ、あ、あの、ジュジュさんっ!」
「オマエは黙ってボクについてこい!」
ジュジュさんが空気を掻き分けるように両腕を引くと、それを契機に彼女の身体
が私を伴って窓の外へ。そしてそのまま重力を無視し、夜の中天を舞う。
木霊木珠樹……彼女は一体、何をどうしたいのだろう。私は結局、彼女に取り入
る事が出来ているのだろうか。儀式を行った教室は、あのままでいいのか。
何一つ分からないまま、私は風に流された。




