一種の諦めによる変化――
「……ん、あれは……?」
日の出を控えた薄暗い森林地帯の中で。
目の前には湖風が吹き付けてくる大きな湖が存在していて。広大に広がるそれを無心で眺めながら、これまでとこれからについて一人静かに思考をめぐらせていたところに。俺はある光景を目にすることとなった。
その湖の奥に。この綺麗な円形をした湖の周囲を辿るようにちらほらと動く影。それは辺りに立ち込める霧によって薄らぼんやりとしか見えなかったものの。思考などそっちのけでしばらくその影を眺めていると、その影は上下に揺れながら段々とこちらへ近付いていることがわかってきて。
……なんだあれは。もしかして、この地におけるイベントの一つか? と、そんなフラグの予感を察知しては、いつでも戦闘態勢に入れるようにとブロードソードを選択しておいたものだったのだが――
「あら、おはようアレウス! 昨日と違って、今日はとても早起きなのね!」
その正体は、意外にもユノだった。
へそを出した露出の高い白のタンクトップに。黒をベースとした、赤のラインが走るジャージのズボン。そして、そのジャージと合わせての黒と赤の運動靴というその姿。
健康的な色白の肌には割れた腹筋が浮かんでいて。二の腕の筋肉は色っぽく膨らんでいたりと。その日々の日課というトレーニングで鍛え抜かれたユノの肉体美に、つい堪らずと見惚れてしまう俺。
……仕方無いだろう。いつもは長袖と長ズボンで隠れている肌をこんなにも露出していたら、それはもうあらゆる部位に目線がいってしまうのが男の性というもの……。
「お、おはようユノ。今日も相変わらずの早起きだな」
「でしょ~? 早起きもまた、私の日課のようなものですもの!」
色白の腕で額の汗を拭って。切らしている息で肩を上下に動かしながら、それにつられて白の大きなポニーテールが揺れ動いている。
熱で火照った顔で微笑みながら、胸を張って得意げに答えるユノの姿。そんなクールビューティな見た目を見る度に毎度と思ってしまう。何故、根は活発な元気娘であるユノは、そんな性格とまるでミスマッチな大人びた外見にこだわっているのか、を。
「……それで、ユノ。今は何をしていたんだ?」
そんなことを思いながら、俺は画面に出てきたであろう選択肢を選んで尋ねてみる。
んなの、見ればわかるだろと。その選択肢は目の前の状況とまるで噛み合っていないものではあったけれど。しかしシステム上、この問いの内容は大変便利なものであるのもまた事実。
何せこのゲーム世界における自由な会話では、この一択で始まるようなものだし。
「今? そうね~。見ての通り、朝の日課として毎日行っているジョギングをしていたところよ! 太陽の出ていない中での、ほのかに薄暗くてちょっと肌の冷えるこの時間に行うジョギングが、それはもうすっごく爽やかになれるものだから大好きなの!」
そう言って、乙女の声音でありながらも腰に手を当てた大人びた佇立のまま答えていくユノ。
その対比ともなるギャップがまた、ユノという少女の漲る活力を見事に表現していて。同時に、この対比の中に存在する、ユノという人格についてますます未知を感じてしまう。
「このあと、あの湖の周りをもう一周するつもりだったのだけど。良かったらアレウスも一緒にどうかしら? 肌寒いこの空気もジョギングで身体をポカポカにしてしまえば、むしろ心地良さを感じることができるわよ?」
「あぁ、それはいいかも。じゃあ、俺も一緒にひとっ走りしようかな」
「えぇ、そうこなくっちゃ!」
その未知への欲求に突き動かされての素早い行動がデフォルトのユノ。
その行動が身体に馴染んでいるからか。俺が返答をしたその時には既に、彼女は俺を置いて先に走っていってしまっていた。
あまりにも行動の早いユノの色っぽい背を見送っていて。ふと我に返っては、慌てて彼女の背を追うために、俺もこの足を走らせてユノの後を追うことにした――
日頃から活力に溢れているユノであるためか。そのジョギングのペースもまた、溢れ出す活力によって中々にハイペースなものだった。
失速することは決して無く。風と一体となれそうなその速度で彼女と共に湖の周囲を駆け抜けていき。
なびくポニーテールは、彼女が日頃に纏っている健勝を思わせ。額の汗を爽やかに散らしていきながら、一定のリズムを刻む口からの呼吸が鼓膜と感情を刺激させられて。
ユノという少女と共に走る早朝からのジョギングは、実に心地の良いものであった。
それは今までの憂いが全て取り払われたような気にさせてくれて。彼女から溢れてくる活力を分け与えてくれたかのように、元気というものをこの身で感じ取り。目の前に対する全ての葛藤が、一旦リセットされては思考が空っぽとなっていて。
――先程までの不安や焦燥は消え失せていたのだ。これは現実逃避ではあったものの、同時にこれは今の俺にとって必要な気分転換でもあった。
だからこそ、こうして彼女と共に駆け抜けるジョギングはすごく楽しかった。それも、これを毎日続けて、毎日この彼女から活力を分け与えてもらいたいなと心から思えてしまえるほどにまで。
……ただ、さすがにそれは俺の身体が否定した。
「……ハァ、ハァ、ハァ――ァッ……ハッ……」
開始早々、バテてきた。
毎日のようにこなしてきた戦闘によって、俺としては体力に十分な自信があったのに。こればかりはさすがに、それを比べる相手が悪かったとしか言えない。
「こうして誰かとジョギングをするだなんて、私初めてかも……! 共に旅路を辿る仲間と一緒に走るのって、とっても……すっごく気持ちがいいわね……! ね、アレウスもどう? 走るのって、とっても気持ちがいいでしょ?」
「ハァ、ハァ……そうだね――ハッ……ァ……ハァ……」
毎日のトレーニングに加えて。毎日のように未知を求める冒険を経験してきたユノの体力はまるで計り知れず。一向にこのハイペースを緩めることなく、疲労なんて何のそのと、何事も無いような余裕の表情で俺に尋ねてくる。
彼女はまだ、息を切らしていない。そんな、余裕からなるこのジョギングを全力で愉しむその爽やかな表情を見て。この瞬間に、俺はある現実を悟った――
……どうやら今の俺では、ユノという人物に追い付くことはできないようだ。
――それは昨日までの悔しい思いとはまた別の、一種の吹っ切れ。目の前の現実があまりにも遠のいていて。また、その現実は今の俺には成し得ない域に達していたものだったから。
目の前の、どうすることもできない現実を前にした人間は、その時点である一種の諦めに入ることがある。それも性質の悪いことに、一言で諦めと言っても、その言葉の意味には様々な意味が含まれていたりするものだ。
それらは主として、不満、不快、嫉妬、絶望、諦観。と、それぞれが相手に対する不愉快な思いを思わせるものが多いものだが。しかし、今回の俺はそのどれにも当て嵌まらず。むしろ、それらを超越した、つい先程までの感情の変貌さえも思わせてしまえるほどにまで、その意味は今までの俺という人間の思考を覆す大きな影響力を含んでいたのだ。
「……すげぇな。すげぇよ……ハァ、ハァ……」
「ん? 何か言った?」
「いや、なんでもないよ……。強いて言えば……ハァ、ハァ……ちょっとペースを落としてもらえると嬉しいかも……ハァ、ハァ……」
「あら、バテてきちゃった? うふふ、良い調子ね! 身体がバテバテになるっていうのは、それだけ目の前のことに全力を出しているっていう証よ! 何かに思い悩んでしまったら、まずは気分転換として目の前のことに全力となってバテてみる! そうして疲労でバテバテとなって余力がゼロになれば、余計なことを考える余力を無駄に使うことができなくなって。そこから、その余計なことに埋もれてしまっていた心の奥底の、本当の自分が見えてきたりするものよ?」
「……それは、どういう……?」
「……アレウス。昨日はちょっと様子が変だったものだから私、陰ながら心配をしていたのよ? その時は、私からはあまり話し掛けない方が良さそうかもと思えて、敢えて尋ねてみなかったけれど……あんなに落ち込んでいたアレウスの顔を見るのは初めてだったものだから、どうしちゃったのかなって、眠る時もそんなことをずっと考えてた」
「……迷惑を掛けてすまん」
「気にすることなんかないわよ。誰にだって、悩みの十個や二十個はあるものですもの。でも、アレウスがあんなに悲しそうで……悔しそうなしかめっ面をして思い悩んでいた姿は何だか新鮮だったかも。アレウスは、目の前の物事に正面から当たっていくポジティブな人だって思っていたものだから。それで、悩み事は少なそうだなぁって勝手に思い込んでいたものだから尚更ね。……新鮮。うん、やっぱり未知とよく似た新鮮というものは良いわね。アレウスも、こうした慣れない物事に触れることはとても新鮮に感じられると思うし。……何より、そんな新鮮な気持ちはきっと、とても良い気分転換になるんじゃないかしら?」
緩めたそのペースも、中々に速い速度ではあったが。その中でも悠々と太陽のような微笑みをこちらに見せてくるユノを見て、俺も自然と笑んではお互いに微笑み合うこの穏やかな空間。
そう、今の俺は、あれほど悔しいと勝手に嫌悪してしまっていたユノと真正面から向き合っていた――
それは、その嫌悪という感情を超越した全く異なるものへと、その意味が変化してしまっていたから。
今回も彼女の役に立てなかった。いつも彼女に助けられてばかりだ。彼女からの褒め言葉が、なんだか嫌味に聞こえてきてしまって仕方が無い。これまでに苛まれ続けてきた悔しい気持ちの数々も、この薄暗く微かに冷えてくる早朝の空気で爽やかと消え失せていっていて。
次に、俺はユノの笑顔に救われたような気がした。これまでも今までも、彼女の足を引っ張ってきてしまっていた俺であったが。しかし、その憂いの気持ちが、その彼女の笑顔で全て許してくれたような気がして。
そこから、嫌悪の欠片を感じなくなっていた自身の変化に気付き。何故かを考え。そして、俺はようやく、この瞬間に変化した意味の内容を知ることとなったのだ。
……そう。俺はいつの間にか、ユノというこのゲーム世界におけるヒロインに。……俺はいつの間にか、彼女というこのゲーム世界で生きる一人の冒険者に、理想という意味合いを持つ憧れの感情を抱いていた――――




