第二十一章 トップコート
世界の壁を塞いだ、翌日。
俺は、辺境伯邸の庭で、自分の、左手を見ていた。
左手の指先が、ほんのわずか、透けていた。
朝の光にかざすと、皮膚の向こうに、庭の芝生が見える。
「親方」
リネットが、俺の左手を見ていた。
「親方、それは」
「気づいてたか」
俺は、短く答えた。
「コーデックスに書かれてた、最深部シール、職人の命を削る、と」
「はい」
「それが、これだ」
リネットがぐっと唇を結んだ。
「親方、消えるのですか」
「消える」
俺は答えた。
「たぶん半月、いやひと月で、こっちの世界から消える」
リネットの緑の瞳に、涙が、浮かんだ。
「親方」
「ただ」
俺は、続けた。
「コーデックス、よく読み返すと、消えるというのは、こっちの世界からだ。地球に戻るということだ」
「地球に」
「そう」
「親方、お帰りになるのですか」
「戻る」
俺は頷いた。
「ただ、戻ることが決まってるわけじゃない。塞いだ職人が世界の外、つまり、別の世界に押し出されると書かれている」
リネットが、しばらく何も言わなかった。
それから、ぽつりと答えた。
「親方の地球が、その別の世界、ということですね」
「たぶん」
俺は、短く答えた。
リネットの頬を、涙が伝った。
俺は目をそらした。
地球に戻るというのは、悪いニュースじゃなかった。
それでも、こっちの世界の仲間と、別れるというのは、辛い話だった。
「リネット」
「はい」
「あと、ひと月ある。世界の壁、最深部を塞いだ後のトップコートを、君と一緒にやりたい」
「トップコート」
「最深部に塞いだウレタンの上に、保護層を塗る。それが、最後の仕上げだ」
俺はノートを開いた。
「コーデックスの最後のページ、読み終わってない。たぶんトップコートの手順が書かれてる」
俺はノートを見せた。
「君と、二人で、やりたい」
リネットが頷いた。
「はい」
「俺と君、二人の仕事の最後、にしよう」
リネットがぽろぽろ泣いた。
「親方」
「うん」
「はい」
リネットが何度も頷いた。
俺たちはその日の夕方から、最深部の地下に再び降りた。
塞いだ亀裂の表面は、緑の光で満ちていた。
光の中に、コーデックスのトップコートの手順を書き込み始めた。
リネットが、両手で、聖魔法を、施した。
俺が、コテで、最後の層を、整えていった。
ふた時間、俺たちは、無言で、働いた。
仕事の終わり、亀裂の表面が青く輝き始めた。
それは、世界の壁の、本来の、色だった。
「親方、終わりました」
リネットが、低い声で、言った。
俺はコテを置いた。
そして、ノートを開いた。
最後のページに、こう、書いた。
「世界の壁、最深部、トップコート、完了。次の職人へ。漏れがあったら、塞いでくれ。」
書きながら、俺は深く息を吐いた。
これで俺の職人としての仕事は、終わった。
岩木さんのノートを引き継ぎ、千年前の職人のコーデックスを引き継ぎ、この世界の漏れを塞いだ。
それで、十分だった。
俺たちは、地下の、階段を、最後に登った。
防壁の上に戻ると、ガイとヴァレリアが待っていた。
「親方」
ヴァレリアが頭を下げた。
「世界の壁、本格的な塞ぎ、完了、です」
「ありがとう」
俺は、短く答えた。
「各班から報告です。千か所すべての漏れ、塞ぎ確認」
「ありがとう」
俺は、もう一度、答えた。
それから、深く息を吐いた。
世界が、塞がった。
地球から転生してきて、半年、いや一年近くが経っていた。
その間に俺は、ただ職人として現場でコテを振り続けただけだった。
そして、世界が、塞がった。
それで、十分だった。
俺は自分の左手をもう一度、見た。
左手の肘から下が、ほんの少し透けていた。
進行は、思ったより、早かった。
ガイが、それに、気づいた。
「親方、その、手」
「ああ」
俺は頷いた。
「コーデックスの、職人の命を削るってのが、これだ」
ガイの目が、見開かれた。
「親方、それは、つまり」
「俺、ひと月で、こっちの世界から消える」
ガイがしばらく何も言わなかった。
それから、ぐっとこぶしを握った。
「親方、消えるって、死ぬのか」
「いや」
俺は首を振った。
「地球に戻るらしい。コーデックスに、そう、書かれてる」
ガイがほっと息を吐いた。
「死ぬ、より、ましだ」
「ああ」
俺は頷いた。
「ガイ、お前の職人ギルド、頑張れ」
「親方」
「俺のノートの写し、お前に、残す」
俺は、ノートの写しを、ガイに、渡した。
ガイが、写しを両手で受け取った。
その、左手の指が震えていた。
「親方、いいのか」
「いい」
俺は答えた。
「写しは何冊作ってもいい。原本は、俺と一緒に地球に戻る。お前の写しは、こっちの世界の職人ギルドの原典になる」
ガイが、深く頷いた。
ヴァレリアが横で、ぽつりと言った。
「親方、私には、何を、残してくださるのですか」
俺はヴァレリアを見た。
「君には、剣聖、職人の副業を、残す」
俺は笑った。
「君は剣聖と職人、両方できる稀有な人材だ。次の千年、辺境を頼む」
ヴァレリアがぐっと唇を結んだ。
それから、深く頭を下げた。
「畏まりました」
その、目に、新しい決意の光が宿っていた。
リネットが、隣で、ぽつりと言った。
「親方、私には」
俺は、リネットの顔を見た。
緑の瞳が潤んでいた。
「リネット、君には」
俺はしばらく考えた。
それから、ゆっくり答えた。
「君には、コーデックスを、託す」
「コーデックス、ですか」
「君は本物の聖女だ。コーデックス、本来の所有者は、聖女と職人の両方だ」
俺は頷いた。
「君がコーデックスを保管して、次の聖女に引き継いでくれ」
リネットがぱちりとまばたきをした。
「次の、聖女、ですか」
「君の後を継ぐ聖女だ」
俺は笑った。
「君は、千年に一度の本物の聖女だ。次の千年は、君の教え子から、また、本物の聖女が、出るかも、しれない」
リネットがぐっと唇を結んだ。
「私、教え子、育てます」
「そうしてくれ」
俺は、短く答えた。
「君の教え子の、聖女と、ガイの職人ギルドの、職人。それが、次の千年、世界を、支える」
リネットが、深く頷いた。
その夜、辺境伯邸の最上階の、客間で、俺は、左手を見ていた。
肘から、下、半分が、透けていた。
明日には、肘の、上、まで、進む、と、コーデックスに書かれていた。
ふた月で、全身が、消える。
俺はその進行を、ノートに書きとめた。
「左手、進行、確認。明日、肘上、到達、見込み」
書きながら、俺はふっと笑った。
地球の職人として、この、世界に、来た。
そして、職人として、消えていく。
それは、悪い、終わり方じゃ、なかった。
岩木さんが、最後の現場で、コテを握ったまま、空を見ていた、あの、横顔を、思い出した。
岩木さんも、たぶん同じ感覚で、その日を、迎えたのだとわかった。
俺はノートを閉じた。
明日、王都に戻る。
そして、皆に、別れを、告げる、時間が、要る。
ひと月、でも、足りない、くらいだった。
その夜、リネットが、客間の、扉を、ノックした。
「親方、入って、よろしいでしょうか」
「うん」
リネットが、入ってきた。
その手に、銀の杯を、持っていた。
「親方、これ、お受け取り、頂きたく」
リネットが、銀の杯を、机の上に置いた。
それは、聖女判定の、儀式の時にリネットが、血を、垂らした、銀の杯だった。
「私の、血、最深部のシールに、混ぜてくださった、その、残りが、ほんのわずか、こちらに、残っています」
リネットが、低い声で、言った。
「親方が、地球に、戻られた、後、もしも、地球の世界にも、漏れが、あったら、これを、お使い、ください」
俺はしばらく何も言えなかった。
それから、ゆっくり頷いた。
「ありがとう」
俺は、短く答えた。
「地球の現場でも、これ、使わせて、もらう」
リネットが頷いた。
「親方、それから」
「うん」
「最後にこれだけ、お聞きします」
リネットが、ぐっと息を吸った。
「私、親方の、ことを、好きでした」
俺はしばらく何も言えなかった。
リネットの緑の瞳が潤んでいた。
「リネット」
「はい」
「ありがとう」
俺は、短く答えた。
「俺も、君のことを、好きだった」
リネットがぱちりとまばたきをした。
「ただ、俺は、すぐに消える」
俺は、続けた。
「だから、好き、と、伝えても、お互いに、辛いだけ、だ」
「はい」
「君は、これから、本物の聖女として、長く、生きる。教え子を、たくさん、育てる。それが、君の人生だ」
リネットが、深く頷いた。
「親方、最後にひとつ」
「うん」
「親方の、肩に、頭を乗せて、もよろしいでしょうか」
俺は答えなかった。
代わりに、左手を軽く上げた。
リネットが、隣に、座って、俺の肩に頭を乗せた。
しばらく、二人とも、何も、言わずに、座っていた。
窓の外で、月が、光っていた。
それで、十分だった。




