第20話 真夏の夜の夢
気持ちは、どうしても収まらなかった。
どうしたらいいかわからない夜が、本当にある。
私の頭の中は、演技のキスと抱擁のことでいっぱいだった。
あの手が現実じゃないことが苦しかった。
湯船に熱いお湯を張る。
お風呂から出ると、ミナコが心配そうにこちらを見た。
「スマホ、何回か鳴ってたけど……」
「ありがとう」
胸の中で、そっと深呼吸する。
……今の私は、我を忘れてる。
正気じゃないって、自分でもわかる。
でも――。
今は、一番、自分の気持ちに正直でいたかった。
ゆっくり腰を上げて、スマホを手に取る。
シン君だ。
『まだ起きてる?』
スマホを、ぎゅっと胸に抱きしめる。
(……うん。私の気持ちは、ひとつ)
ただ、シン君に会いたい。
半袖と短パンの上から、大きめのパーカーを羽織る。
「ユキ、今日も風にあたりに行く?」
「うん!」
「本当に大丈夫ね?」
「うん」
私の目を覗き込んだミナコが、はっとした顔をした。
……決意に、気づいたのかもしれない。
昨日の展望台へのお誘いを、シン君に送る。
すぐに返ってきたのは、『了解』の一言。
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準備を整えて、駐車場へ向かった。
時刻は、午後十一時。
シン君とノア君が後部座席に乗り込み、
車はすぐに夜道へ滑り出した。
ものの五分で、展望台に着く。
平日で人の気配はほとんどない。
足元を照らす淡い灯りに導かれるように、
ノアとミナコは「夜景を見てくるね」と言って、
昨日と同じように、右奥の方へ歩いていった。
――昨日と、同じ流れ。
シン君と私は、
星空と海しか見えない暗がりのベンチに腰を下ろす。
シン君はポケットに手を入れたまま、
黙って海を眺めていた。
「風、気持ちいいね」
「……はい」
遠くに、船のような小さな灯りが揺れていた。
「今日、きつかったです。私」
「そうなの?」
「思ってた以上に。
キスシーン自体、今までなかったんですけど……
それでも」
「そっか。じゃあ、俺と一緒だ」
クールダウンの時間のはずなのに、
真夏の夜は、熱を冷ます気なんてないみたいだった。
そのとき。
シン君の手が、ポケットから出て膝の上に置かれた。
――考える前に、
私はその手を、左手でぎゅっと掴んでしまっていた。
シン君の大きな身体が、一瞬びくっと跳ねる。
驚いたように、こちらを見た。
「あ……すみません。
昨日、また握ってくれたらいいって言ってたから……」
慌てて手を離そうとした瞬間。
今度は、シン君の手が私の腕を追い、
そのまま両手で、ぎゅっと包み込んだ。
「俺たち、謝ってばっかだな」
「……ふふ」
少し間を置いて、
シン君が、低い声で続ける。
「またごめんなんだけど。
さっき……陸の役やってたけど」
「……うん」
「頭の中で俺が近づきたたかったのは、ユキちゃんで。
もどかしくて……」
「……シン君」
「好きなんだ。ユキちゃんのこと」
シン君はまっすぐこちらを見て、そう言った。
澄んだ瞳。
優しい表情。
綺麗な白い頬。
――世界で一番好きな人が、
今、私だけを見ている。
それだけで、胸がいっぱいになった。
もちろん、この先のことを考えれば、
ちゃんと付き合うのが簡単じゃないこともわかっている。
それでも――。
それでも、いい。
私の人生で、一番大好きな人。
苦しかった日々を、音楽で、何度も救ってくれた人。
彼のために、
この人生のひとときすら差し出せないなら、
私は、何のために生きてきたんだろう。
いくつもの思いが胸を駆け抜ける。
「ユキちゃん。本当に、好きだよ」
シン君は、もう一度、言葉にしてくれた。
「……ありがとう。私も」
シン君の顔が、首まで一気に赤くなった。
「本当?」
「うん」
「……どうしよう。嬉しい」
ふと、シン君が辺りを見回した。
まだ向こう側のベンチで、
ミナコとノア君が話し込んでいる姿が見える。
「……ごめん。もうだめかも。限界。ちょっと来て」
そう言って、シン君は私の手を引いた。
――あ、車に戻るんだ。
考えるより先に身体が動いて、
私たちは思わず二人で走り出していた。
急いで車内に戻り、
後部座席に身を潜める。
シン君は、肩で息をしていた。
私も息を整えようとして、彼を見る。
今まで見たことのないほど、
熱を帯びた眼差しが、まっすぐこちらを射抜いていた。
「……ユキちゃん」
吐息と一緒に、ブラックベリーの香りが流れ込む。
私の右手に、彼の左手が重なる。
顔を上げた瞬間、
温かい手のひらが、そっと頬を包んだ。
――腕の筋も。
――少し細いその目も。
――白い鼻も、淡い色の唇も。
全部、好き。
彼は私の唇を指先でなぞってから、
とても優しく、キスをした。
一度、離れて。
また、頬を寄せて。
もう一度、唇が重なる。
キスが、こんなにも心を溶かすものだなんて、
知らなかった。
「……ん」
思わず、声が漏れた。
次の瞬間、
シン君の腕にぐっと力が入って、
私はその胸の中に、強く抱き寄せられた。
「……く、苦しいかも」
「ごめん……大丈夫?」
腕が緩み、
覗き込むように、彼が私の顔を見る。
「大丈夫だよ。へへ」
そう笑うと、
彼は指で、そっと私の頬を撫でた。
その手が、
首へ、腕へ、
露わになっている肌を、もどかしそうに辿っていく。
「……私、汗すごいかも」
少し距離を取ろうとすると、
「ユキちゃんの汗は、綺麗だよ」
シン君はそう言って、
さらに距離を詰め、
首元や鎖骨に、軽くキスを落とした。
そして――
はああ……と、深く息を吐いて、
もう一度、私を抱きしめる。
「ユキちゃんのこと、大事にしたいって思ってたのに……
こんな……止められなくて、ごめん」
彼は、少し俯いて謝っていた。
「こういうこと……
慣れなくて、バカみたいだけど」
「……私もです」
もう、いい大人のはずなのに。
余裕なんて、どこにもなかった。
将来のことも。
周りの目も。
理性らしい理性は、全部、どこかへ吹き飛んでいた。
「……かわいい、ユキちゃん」
「シン君の方が、かわいい」
「ユキちゃんの全部に、キスしたい」
その言葉に、
身体中が、じん、と痺れる。
頬の体温。
彼の胸と肩の厚み。
大きくて、柔らかい身体。
その奥へ、深く、深く抱き込まれる。
熱い車内は、
さらに湿度を帯びていた。
ノア君やミナコが、
きっとすぐに戻ってくるはずなのに。
――もう少し。
――あと、ほんの少しだけ。
そう思いながら、
私は、シン君の腕の中に身を預けていた。




