第19話 ドラマと現実の境界線
今日の現場も、サブカップル専用。
クルーも最小限で、驚くほど静かだった。
メインカップルとの撮影は完全に分けられていた。
潮の匂いと、風の音が、必要以上に耳に残る。
撮影は、海辺のベンチに腰掛ける
陸と凛子のフルショットから始まった。
陸の二度目の手の手術から、二週間。
退院の日は、もうすぐそこまで来ていた。
リハビリは続くが、通院に切り替わる。
そして、仕事も再開する。
二人は夕方の散歩の延長のように、
これからの話をしていた。
「お仕事、うまくいきそうでよかったですね」
「うん。次の手術までは、一度家に帰って生活を始めるよ」
「だいぶ動けるようになって、本当によかったです」
「まだリハビリは来るけど」
「無理はしないでくださいね。少しずつ、で」
二人とも、わかっていた。
もう、こんなふうに毎日顔を合わせることはできないと。
仲良くなった、という言葉では足りない距離。
けれど、それぞれの日常に戻れば、
二度と会えなくなってしまいそうな、
不安定な関係。
気持ちだけが先に高まって、
どうしていいかわからない。
沈黙を破るように、陸が口を開いた。
「初めは。
ものすごく変な人に会っちゃったと思ったよ」
ハハハ、と大きな声で笑う。
「ははは。だって——」
凛子もつられて笑い、
出会った頃のことを思い出していた。
「でも、すぐにわかった。
君が何を聞きたかったのか」
陸は、凛子の手元を見て、
そっと自分の手を重ねる。
ぽん、ぽん、と確かめるように。
「怪我を乗り越えられるほど、
大きな気持ちって何なんだ、って聞かれてるんだって」
凛子は何も言わず、ただ耳を傾ける。
思い出しては吹き出す陸に、
凛子も思わず笑う。
「ありがとう。凛子先生
おかげで音楽続けられるよ」
その一言に、
凛子の胸が、きゅっと詰まる。
「……陸さんは、正規の私の患者さんじゃなかったので。
全部がきちんとした治療をしたわけじゃないんですが」
「そうなの?」
「診療所では、どこまでが患者さんで、
どこまで踏み込んでいいのか、
線引きが難しいですけど」
陸は、逸らさずに凛子を見る。
「すべての方と、勤務時間中は患者さん、
それ以外では個人的にできることをしている感じです」
「知らなかったな……」
「なので、陸さんには、 私が一人の人間として、接してる時間が長いです」
驚きながらも、陸はふと思い出す。
彼女が、その線をきちんと守ってくれていたことに。
そして——
にやりと、悪戯っぽく笑った。
「じゃあさ」
凛子を見る。
「今は、何しても大丈夫な時間だ」
「……え?」
「俺たち、恋人になる時間だ」
そう言うと、陸は距離を詰め、
迷いなく凛子の唇に口づけた。
一瞬、凛子は動きを止める。
目を開いたまま、そっと離れて、
驚いたように彼を見つめた。
「……好きだよ、凛子」
真剣な瞳。
その視線に、凛子はふっと力を抜いて、
安心したように目を閉じた。
二人は、ゆっくりと、長いキスをした。
唇が離れ、
頬を寄せ合って、ふふ、と笑う。
もう一度、顔を離して、目を合わせて、また笑う。
「……私も、好きです」
「じゃあ、これからよろしく」
二人は、ぎゅっと抱きしめ合った。
——ここまでは、台本通り。
けれど。
嬉しさが込み上げて、
思わず笑ってしまう。
ふふふ、と笑いながら、
シンは無意識にユキの肩へ、頭をすり寄せた。
「きゃはは」
ユキも笑って、
その頭を両手で包み込む。
胸の奥が、満たされていく。
演技なのか、現実なのか、
もう、わからなかった。
——カットが、かからない。
シンは、改めて強く彼女を抱きしめた。
そして、ユキの肩に顔を埋め、額や頬を擦り付ける。
力が、入ってしまう。
「……ん」
他の誰にも聞こえないほど、小さな彼女の声。
その瞬間、
全身に電流が走った。
(ユキ……本当に、好きだ)
心の中で、叫んでしまう。
彼女の頬に、もう一度、軽くキスをすると、
ユキも細い手で、シンの背中を抱き返してきた。
身体中が甘く痺れる。
時間が、止まったみたいだった。
「はーい、カットォォ!!」
甘い空気を切り裂く声。
気づけば——
陸ではなく、
シンとして、ユキを抱きしめていた。
それを自覚した瞬間、
シンは、周囲を見ることができなかった。
「よかったよ、二人とも!
すごい絵が撮れた!」
「シン君、頭の動き、すごく良かったよ」
助監督と監督が、次々に声をかける。
全員でモニターを確認する。
「なに、あの頭を肩にスリスリするやつ!」
「いいシーンになりましたよー!」
「あと数回、試してもいいかな?」
「手の位置なんだけどね……」
監督の指示で、
また同じセリフの終わりから、撮影は再開される。
気を遣ってくれているのか、
現場はやけに明るかった。
——けれど、シンには
もう、戻れない場所を越えてしまったことだけは、
はっきりと、わかっていた。
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私はすでに混乱していた。
(……息が、かかる)
ブラックベリーの香り。
すぐ目の前にある、長いまつ毛。
吸い込まれそうな瞳。
わずかに早い、息遣い。
柔らかくて、白い頬。
——指示にない。
だから、私から触れてはいけない。
(この腕が、陸のものだって、わかってる……)
それでも。
「好きだよ、凛子」
真剣な瞳。
大きな手が、頬と首筋に触れる。
(……あったかい)
優しい唇が重なり、
ゆっくりとなぞるように動く。
息が、こぼれる。
背筋に、きゅっと何かが走って、
思わず、両手に力が入った。
それを察したみたいに、
シン君は、ぐっと私を抱きしめる。
柔らかな頬が、触れる。
一度、顔を離して、
目を合わせて、また笑う。
「私も、好きです」
「じゃあ、これからよろしくね」
抱きしめ合う。
陽だまりみたいな、
優しくて、愛しい温度。
私は、彼の頭を両手でぎゅっと抱きしめた。
——心臓が、飛び出しそうだった。
演技のはずなのに、
気づけば、
ずっと触れたかった頬や、指先に、
自分から触れてしまっていた。
指先に、電気が走る。
「はい、カットーー!!」
容赦なく響く声。
その瞬間、
名残惜しいほど近かった頬が、遠ざかる。
私も、
その手と、気持ちを振り払うように、
さっと視線を逸らした。
(……この苦しい気持ち、どうすればいいの)
身体中に、
甘くて、苦しい蜜のような毒が、
ゆっくりと巡っていく気がした。
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モニターを確認する監督たちの背後で、
ミナコとノアは、言葉を失って立ち尽くしていた。
「……ノア君」
ミナコが、かすかに震える声で隣のノアを呼ぶ。
ノアは屈んで耳を傾ける。
「気持ちが、ここまで露骨に出ちゃって。
大丈夫なのかな……」
ノアは一瞬、何も答えられなかった。
ただ、モニターの中のシンから、目を離せない。
シンがユキの肩に頭を擦り付ける、その仕草が、
ノアの目には、
甘えでも、演出でもなく——刻みつけている
そんなふうに見えていた。
まるで、自分のものだと世界に知らせるための、
獣の本能のような。
(……シン、お前。もう隠す気もないのかよ)
誰が見ても「いい絵」だった。
完成度が高く、美しく、
観る者を惹きつける力がある。
——けれど。
二人にだけは、はっきりとわかっていた。
役ではないものが、
隠しきれない生身の熱が、
確実に混じってしまっている。
ミナコは、思わず自分の腕をさすった。
——見てはいけないものを見てしまった。
そんな感覚。
密度の高すぎる「真実」に触れてしまい、
恐怖に近い寒気が、静かに背中を走る。
「……ミナコちゃん」
ノアは視線をモニターから外さないまま、
そっとミナコの耳元に近寄る。
「きっと、大丈夫。
今は……すごい演技に見えてるだけなはずだから」
「……本当?」
ミナコが、不安そうにこちらを見る。
「大丈夫だよ」
そう言いながらも、
ノア自身が、その言葉を
どこまで信じられているのかは、わからなかった。
ミナコは、小さく息を吐き、
それ以上は何も言わなかった。




