第一話 王都への買い出し
蒼月亭での生活は、少しずつ形になり始めていた。
壊れていた壁は修理され、寝床も整い、食事も安定して用意できるようになった。だが、それでもこの場所は王都から離れた廃村にある。手に入る物には限りがあり、どうしても王都でしか揃えられない品があった。
質の良い保存油、精密な細工に使う金具、香りの強い香辛料。
それらは蒼月亭を維持していくために必要なものだった。
そして、それを取りに行ける者もまた、限られていた。
危険な道を一人で進み、周囲の変化を見逃さず、何かが起きても対処できる者。
その役目は、自然とリディアに任されることになった。
蒼月亭の前で、リディアは腰の剣を軽く確かめた。
鞘の中に収まった刃は、静かにそこにある。重さも、位置も、すべてが馴染んでいた。
背後から足音が近づく。
「リディア、ちょっと王都まで買い出しに行ってきてくれるかい?」
振り返ると、ミレーヌが袋と紙を持って立っていた。
「王都でしか売ってない物があってね。保存用の油と、細工用の金具、それから香辛料。頼めるかい?」
リディアは紙を受け取り、目を通す。必要な物と数量が丁寧に書かれていた。
「わかった。行ってくるよ」
短く答える。
ミレーヌは少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「すまないね」
「気にしないで」
リディアは袋を受け取り、肩にかける。
「すぐ戻ってくるよ」
それだけ言い、彼女は蒼月亭を後にした。
背後でミレーヌが見送っている気配を感じたが、振り返ることはなかった。
足は迷いなく、森へと続く道を進んでいく。
森の中は静かだった。
木々の隙間から差し込む光が地面にまだらな影を作り、風が葉を揺らしている。
リディアは一定の速さで歩きながら、周囲を見ていた。
音。匂い。気配。
すべてを自然に受け取りながら進む。
無理に急ぐことはない。だが、歩みが緩むこともない。蒼月亭から王都までは、森を抜けて街道を直走りすれば、夕方までには辿り着ける距離だ。
しばらく歩いたところで、前方に荷車が見えた。
木箱を積んだ荷車を引く男が、こちらに気づいて顔を上げる。
「おや」
男は笑みを浮かべた。
「リディアさんじゃないですか」
「ローク」
行商人のロークだった。
「王都ですか?」
「ああ」
リディアは答える。
ロークは一瞬だけ周囲を見回し、声を落とした。
「気をつけてください」
リディアの視線がわずかに鋭くなる。
「何かあったの?」
ロークは小さく息を吐いた。
「王都が、きな臭い」
森の空気が変わったように感じた。
「兵の巡回が増えてるんです。門の警備も強くなってる。理由は分かりませんが……いつもと違う」
彼は言葉を選ぶように続ける。
「市民は普通に生活してます。でも、兵の動きが多すぎる」
リディアは黙って聞いていた。
「何もなければいいんですが」
ロークは苦笑する。
「商人の勘ってやつです」
短い沈黙。
「……わかった」
リディアは答えた。
「教えてくれてありがとう」
「いえ。蒼月亭には世話になってますから」
ロークは軽く手を上げた。
「お気をつけて」
リディアは頷き、そのまま歩き出した。
背後で荷車の音が遠ざかっていく。
しばらく進むと、森の密度が徐々に薄れていく。やがて視界が開け、踏み固められた街道が現れた。
王都へと続く道。
リディアは一度だけ周囲を見渡し、そのまま街道へ足を踏み入れた。
街道には、ところどころに荷車の跡が残っている。新しいものも多い。王都との往来が絶えない証だった。
太陽はまだ高い。だが、このまま進めば日が傾く頃には門が見えるはずだった。
彼女は歩みを止めず、そのまま街道を進み続けた。
やがて、遠くの地平線の先に石壁が見え始める。
王都だった。
夕方の光を受けて、石壁が淡く輝いている。
リディアは速度を変えず、そのまま王都へと向かった。
王都。
門の前には兵が立っていた。
確かに多い。
だが、通行は止められていない。
リディアは列に並び、自分の順番を待つ。
やがて兵が問いかける。
「名前は?」
「リディア」
「目的は?」
「買い出し」
兵は袋を確認し、頷いた。
「通っていい」
それだけだった。
リディアは門をくぐる。
王都の中は、普段通りだった。
人々が歩き、商人が声を上げ、店が並んでいる。
子供が走り、荷車が通り、日常の音が重なっている。
「市民は普通だけど……」
小さく呟く。
だが、違う。
空気の奥に、張り詰めたものがある。
兵の立ち位置。
巡回の間隔。
視線の動き。
すべてが、わずかに固い。
表面は変わらない。
だが、何かが動いている。
リディアは歩きながら周囲を見た。
自然な動きで、すべてを確認する。
右。左。前方。背後。
異常はない。
それでも、警戒は解かない。
彼女は歩き続けた。
蒼月亭のために必要な物を手に入れるために。
王都の中へ。
リディアは王都へと到着した。
それは蒼月亭のための、ただの買い出しだった。
だが、王都の空気はわずかに変わっていた。
市民は変わらず生活している。
店も開き、人々も笑っている。
それでも、兵の動きは多く、街の奥に張り詰めたものがある。
それが何なのか、まだ分からない。
リディアはただ、自分の役目を果たすために歩く。
必要な物を揃え、蒼月亭へ戻るために。
だが王都は、静かに何かを隠していた。




