仏性が有りや無しやの曼珠沙華 下
誰かに呼ばれた気がして、男はふいに目を覚ました。
「誰か来たのかい」
さて。いつから眠りに落ちていたのか。
身を起こし周囲を見渡してもそこにあるのは延々と続く赤の野原である。
今が盛りと燃えさかる、曼珠沙華の花畑だけである。とは言っても、ここの曼珠沙華は不思議と常に満開だ。散り枯れることさえないのは、恐らくここが常世ではないからだろう。
この世界では、不可思議こそが本懐だ。そも、男はここにいる自分のことさえ不可思議であると思っている。
「誰もいねえなあ」
男は起き上がり数歩さまよい、目を閉じる。どこにも、気配はない。
時折、風のせいか人がこの場所に流されてくることがある。それは、此岸より……生きた世から、流されてくるのである。
ここは彼岸だ。
本来の彼岸や三途の川は、この場所より遙か上方にあるという。しかし時折、道をはずれたものたちがここへ紛れつくことがある。
大抵は、恋に破れた者たちが流れ着く。
「いや……お前たちはいる。そうだ。お前たちはここにいるな」
男は曼珠沙華の一輪をなで、微笑んだ。
「地獄に仏とはまさにお前達のことをいうのだろう」
風が吹けば右に、左に花が揺れる。男はどこまでも続く赤の大地をみた。
この野原がどこまで続くのか、男は知らない。そもそも、ここがどこであるのかも男は知らない。
遙か昔のことである。
男は一人の女を愛し、女もまた男を愛した。しかし女は花街きっての花魁で、男はただの町のやくざもの。
所詮はかなわぬ恋であると離れてしまえばよかったものを、何の因果かひどく溺れた。二人離れては生きてはいけぬ。そう思い詰めた二人はある秋の夜、手に手をとって花街を飛び出した。
たどり着いたのは崩れた廃寺。
秋雨がしゅんしゅんと、屋根から染み出て背を濡らすのが切なかった。
花街の追っ手は執拗である。すぐそばまで迫る追い手の足音におびえた女は、とうとう殺してほしいと男に懇願する。
男は女の着物に手をかけて、喉を切り裂こうとしたがどうしてもそれ以上は刃が進まぬ。
一緒にはなれない定めなら、どうぞ殺し殺してと嘆く女の前で男は情けなくも泣き崩れる。
町に名を知らしめたやくざものも、こうなってしまえば赤子も同然。命の駆け引きとなれば女の方が、時に強い。
ふと気が付けば、目の前で女が燃えさかっていた。赤の着物はごうごうと、まるで九尾の狐の尾のように女の背後で燃え上がる。
暖をとるためにつけていた火が、女の着物に燃え移ったのである。
しかし女は動じることなく、燃えた着物をまとったまま庭へ降り立つ。そこにはじめじめと湿った細い川があり、そばには彼岸花が盛りであった。
燃えるような花のそばに、燃えさかる女の体。女は悲鳴もあげず男に手をさしのべる。男は、その手を取ることができなかった。
今更わき上がった死の恐怖だとか、女への哀れみだとか、そのようなものがない交ぜとなり、男はただただ地面に突っ伏して情けなくも震えて嘆いた。
気が付けば、秋雨の降りしきる彼岸花の岸で、男は一人伏していた。目の前には、焦げた着物のあとがあるばかりで女の姿はない。顔を上げて、男はぞうっと背筋が震える。
先ほどまでそこにあった廃寺が、今はどこにもない。廃寺どころか、道も、屋敷も、山の影もどこにもない。あるのはただただ、一面に広がる彼岸花だけである。
赤い、ただただ赤く、風に揺れるそれは海のようにもみえた。
「曼珠沙華、と呼んでやんな」
まるで男の心を読んだように声が降る。振り返れば、いつからそこにいたのか、一人の僧が立っていた。
「彼岸花は可愛そうな呼び名だ。曼珠沙華という綺麗な名前で呼んでやんな。お前はしばらくこの花と、ともに生きるのだから」
「お前はだれだ」
「俺かい」
誰だってよかろう。と、その僧は吐き捨てる。古びた袈裟に描かれた紋は、掠れてよくみえない。旅の僧か。高僧には見えない。小さい体躯だが、威圧感は凄まじい。
「まあ怯えることはあるめえ」
僧は男の頭を錫杖で軽くなでた。
「お前さんこそ、自分の名を思い出せるのかい」
「俺の、名」
男は痛む頭を押さえ、うずくまる。その脳内に、名など一つも浮かんでこない。そうだ、俺は、何者だったのか。
「……思い出せない」
そうであろう。と、僧は笑う。
「ここは彼岸の隅っこだ。お前さんは随分と悪いこともしてきたようだが、この場所じゃただの名前もない一人の男だ」
僧がならす錫杖の音に、曼珠沙華の花が揺れる。
「ここで過ごすことがお前さんの罪」
「罪……ああ、罪といえば、女は、女はどこだ。俺の愛した……」
僧は破れた笠で顔を隠し、男に背を向けた。
「あれにはあれの罪の償い方がある」
「待ってくれ。俺は、どうすれば」
「いつか、お前を救うものが現れる。それまでは俺でさえも救ってやることはできないのだ」
さしのべた手は僧には届かない。その差し出された己の手を見て男は思いだしたのだ。
こうやって差し出された女の手を、男は握ってやることができなかった。
「おまえたちがいて、よかった」
曼珠沙華の細い花弁が頬に触れ、男はふと微笑んだ。
「この場所に一人でいれば気でも狂ってしまうところだった」
曼珠沙華の岸に男が住み始めて、幾年になるのだろう。そもそもここに時の流れはない。
時折、空気が乱れれば、それは此岸より人が流れ着いた合図である。それ以外に、時の動きはない。
ここで暮らし始めて以来、男は此岸から流れてくる人間を多くみた。
人が一人、流れ着くたびに曼珠沙華が経文のような声でうなるので、そのうち男も経文の文句を覚えた。
生きていた頃の垢やはすっかりと落ちたが、今でも悔やまれるのは目の前で死なせてしまった女のことだけだ。
女には、いまだ出会えない。
「おや」
男は足に絡む曼珠沙華の花に見つめられ、腰を落とした。
「良く見れば、お前達の花の形は」
いつもそばにあるというのに、あまりじっくりとその花を眺めたことはない。
細い花弁が上に向かって立ち上がるそれは、炎のようであり女の指のようであり、花火のようでもあった。
しかし、その丸い台座のような形はもう少し気高く、美しい。
「……まるで、仏様のお座りなさる、座のようじゃないか」
極楽浄土とやらを男は見たことがない。しかしかつて一度だけ、浄土の絵をみたことがあった。
確か仏のすわる座は丸みを帯びた、このような形ではなかったか。
「……あの女にも座らせてやりたかった」
男は不意に、女を思い出す。この場所に流れ着いて以来、女の名前は男の中からするりと消えてなくなった。
自身の名さえ覚えていないのだ。綺麗に消えた記憶の奥に燃えさかる女の体と、妖艶な笑みと、美しい声だけが思い出される。
「さて……あの女の名は……」
目を閉じても曼珠沙華の赤の色だけが瞼の裏に焼き付くようだ。おぼろげな記憶をまさぐり、まさぐり、そしてようやく彼は女の名を思い出す。
「……ああ、お七」
なぜ忘れていたのか。なぜ今更思い出すのか。呆然と崩れ落ちた男の前に、曼珠沙華がざわめき揺れてそれはやがて一つの形となる。
「ようやく名を、思い出していただけた」
……赤い着物をまとった、女の形だ。
「お七」
「私はずっとここにおりましたよ」
赤い花の真ん中に、白肌の女が一人、笑う。
それは男は会いたいと願い慕った、かの女の姿である。
男は震える指で大地をかいて、立ち上がる。足がもつれ、再びその場に崩れ落ちた。
女が案ずるように近づき、顔を覗き込む。その香りも色も、記憶にある女の姿そのものだ。
「ずっと、ここに?」
「お前様には花にしか見えなかったようですが、私はずっともう幾とせもここに」
女が歩くごとに曼珠沙華の花が彼女にすいこまれていく。
男は思いだした。女には女の罪の償いがあると。
一人は花に、一人は人に。
そばにあるのに目に見えず声に聞けず、それが二人で犯した恋の罪の償いであった。
「愛おしい花よと囁くお前様の声に、妬心したことも一度や二度ではなく」
軽口をたたく女の目に涙がぷくりと浮かび、そして花露のように散った。
「私の読む経文は、お前様を願って読んだもの」
お七は男の手を握る。その冷たさ、柔らかさは確かに男の記憶にあるそれと同じである。
「俺を、願って」
「お前様の成仏を願って」
曼珠沙華の花弁に似た、細く美しい指である。
「あのころと、同じ手だ」
「ようやく、私の名を、思い出してくださった」
お七の体が男の身に寄りかかる。その香りも今は懐かしい。
「私のいとおしい人」
「救いに来てくれたのは、俺の可愛い人か」
気が付けば、曼珠沙華の花畑は消えた。目の前には、とうとうとした流れをたたえる川がある。
振り返れば、曼珠沙華の岸は消えてなくなるところである。
「これが三途の川というやつか」
川の向こうは、浄土か地獄か。
ともに。と差し出された手を今度こそ、しっかりと男は握る。
お七は寄りかかり、男の耳に柔らかな息を吹きかけた。それは忘れたはずの彼自身の名。
「……どうやら俺の罪は、許されたらしい」
二人は同時に、柔らかな水の流れに足を浸した。