序章
エーレ中立國の首都クープ。
この街は朝、眠りにつくと云ったのは誰だったか。
夜を徹して街を彩った電飾が、白白と明ける朝日に呑まれるように消えてゆき、歌い踊り尽くした人々は家路に着く。
朝のうちにはぽつぽつと開いていた市場通りの商店も、うだるような暑さが街を覆い尽くす時分にはおもてを閉ざし、人通りは数えるほど。
砂っぽい風の吹き抜ける大通りには、街路樹の翠と南国らしい花々の対比が鮮やかなれど、愛でる者と云えば他国からの旅人くらいなものだ。
ラーゼ河に架けられた三日月橋のたもとでは、薄浅葱と白の縞柄天幕の下で、水売りが藁帽子を顔にかぶせて惰眠を貪っている。
濃紫の車が一台、高層街河畔から住宅街側へゆっくりと橋を渡り、すべるように水売りの傍らを通り過ぎた。
車は市場通りを抜け、瀟洒な屋敷の立ち並ぶ十二番街へ入るとさらに速度を落とし、かすかな駆動音を立てながら、黒鉄の門扉と塀に囲まれた白亜の館へと吸い込まれていった。
水鳥の着水を思わせるなめらかさで停車した車から、長身の男がすらりと降り立つ。
艶やかな黒髪を背に流し、略礼装を着こなした青年は、緑灰の瞳をちらりと館の三階あたりへ向けた。
「お帰りなさいませ」
車寄せに立つ執事に出迎えられ、青年ラハーレは頷きを返した。
「ラプソン、変わりはなかったか」
「はい、エセンさんがまた拾いものをしてこられたようですが、それ以外は変わりございません」
ラハーレは整った鼻梁に皺を寄せて、ラプソンを見遣った。
「拾いもの?」
端然とした物腰の執事は、閑かに視線で上階を示した。
ラハーレは小さな嘆息を落とし、大階段へと踵を返した。
日当たりの良い三階の角部屋へ向かったラハーレは、開け放たれた扉の脇に立ち、目線を下方へ向けた。
石灰の塗られた白い部屋には家具がほとんどなく、ただ中央にぽつんと黒光りする大型の鋼琴が佇んでいる。
鋼琴の下、くしゃくしゃによれた絨毯のように見えるものが落ちている。
「エセン」
ラハーレの声に、よれた絨毯様のものがむくりと動き、牛酪色の癖毛がのぞいた。
ほっそりした手が眠そうに髪をかき上げていたが、ふと動きを止めた両腕の下から、綺羅きらした琥珀色の瞳があらわれた。
「ラハーレ」
ラハーレの妻エセン。
本来なら中等学校へ通っている年齢だが、あれよあれよという間に飛び級を重ねて、現在は研究所の若手研究員となっていた。
エーレ中立國では、婚姻可能年齢の下限が定められていない。
エセンの才能に気づいた養い親が、かねてより持て余していた彼女を売り払おうとした寸前で、ラハーレが婚姻による保護という形で割り込んだのだ。
売られるはずだった先がなかなかの大物だったため、本人同意の上で急ぎ婚姻という手段をとった。
養子縁組という考えもないではなかったが、原則として配偶者が必要など、いくつかの条件が整わなかった。
それなら結婚しちゃえばよくない?とは、当時のエセンの言である。
「エセン」
やや低い声音で呼びかけられたエセンは、肩をすくめた。
ラハーレの視線は、部屋の隅へ向いている。
膝を抱えてうずくまったそれは、五歳前後と見える少年の形をしていた。
「拾っちゃったのよね〜」
銀髪碧眼の少年が、怯えたようにラハーレを見る。
エセンがこれまで拾ってきたいきものは、両手の指に余る。
都度、怪我を治してから自然へ帰したり、もらい手を見つけたり、そのまま居座られたりしている。
拾い癖は、エセンの数多い悪癖の中ではまだましな部類なので、ラハーレが厳しく注意することはあまりなかった。
だが、人を拾ってきたのはさすがに初めてのことだ。
しかも、このあたりではちょっと珍しい、特徴的な髪色ときている。
鋼琴の下で上体を起こしたエセンが、少年を指し示しながらなんでもないことのように云った。
「殿下ちゃん」
「………………」




