お仕事と、訪問者(王)
◇
イヴァが去ったあとも、西塔の工房は静かなままだった。
ただし、静かなのは空気だけで、仕事は少しも静かではない。
三日後のお茶会までに片づけておきたい依頼を選別し、リアンノンはその夜も手を休めなかった。
北棟から届いたのは、影織り帳幕。
吸血鬼たちが昼の眠りを守るために使う、寝台用の暗幕だ。
一見するとただの重たい黒布だが、広げると縁に沿ってごく細い銀糸が縫い込まれている。糸そのものが術式で、部屋の隅に溜まった影をゆっくり引き寄せ、薄く均一に延ばしていく仕組みらしい。
「……面白い」
人間の国では、闇は避けるものとして扱われる。
だがこの国では違う。
夜や影は排除すべきものではなく、整えて使うものだ。
リアンノンは帳幕を机いっぱいに広げ、裂け目の入った縁を調べた。
布が破れたのではない。縫い込まれた影の流れが偏り、銀糸がその負荷に耐えきれず切れている。
影はただの色ではない。
この国の魔導では、影は「余った夜」だ。
光に押しやられた暗がりではなく、布にも床にも壁にも薄く沈殿する、使い道のある資材。
「引きすぎたんですね」
依頼票に添えられた備考欄には、寝台ひとつ分用、と書かれている。
なのに帳幕には、部屋全体を覆おうとした痕跡があった。おそらく使い手が急いでいたのだろう。影を一か所へ集めすぎれば、流れは痩せる。痩せた流れは裂ける。
リアンノンは古い銀糸を抜き、代わりにしなやかな夜銀糸を新しく渡した。
縫うというより、整流する感覚だ。裂けた術式へ針を通し、偏っていた影の向きを少しずつ戻していく。
最後に帳幕を持ち上げ、工房の隅にたまっていた薄い影を吸わせてみる。
黒布がふわりと重たくなり、次の瞬間、部屋の一角だけが自然に暗く沈んだ。
重苦しい闇ではない。
目に優しい、眠るための夜だ。
「……よし」
気に入らないのは、壊れたことではない。
壊し方が雑なことだ。
正しく使えば、もっと長く持つのだから。
続けて手をつけたのは、夜鴉筆記具だった。
漆黒の羽根ペンの形をした魔導具で、口述した内容を紙へ自動で書き写すものらしい。便利だが、最近は持ち主の言葉ではなく、部屋で聞いた関係ない会話まで勝手に書き出すようになったという。
「聞きすぎですね」
リアンノンは溜め息をつき、羽軸を割って内部の記憶石を取り出した。
この国の魔導具は、つくづく“覚える”。
声も、影も、癖も、使われた時間も。
長命種の国らしい構造だと、最近よく思う。
記憶石の表面には細かな傷が幾重にも走っていた。
命令を書き留めるだけのはずが、雑談も愚痴も秘密話も、何もかも飲み込み続けて飽和したのだろう。石がどの声を優先すべきか判断できなくなっている。
リアンノンは石の表層だけを薄く研磨し、命令語を拾うための受信陣を組み直した。
“書け” “記せ” “控えよ”――そうした起動語にだけ反応するよう回路を狭める。
試しに言ってみる。
「記せ。夜鴉筆記具は雑談を仕事と誤認した」
すると、机の上の紙にさらさらと文字が現れた。
それ以上は何も書かない。今度は成功だ。
道具というのは、よく働くものほど、少しだけ不憫になる。
命じられたことを全部やろうとして壊れるのだから。
気づけば、魔石灯の明かりはだいぶ低くなっていた。
月は高い。工房の窓には、夜の青が静かに張りついている。
リアンノンは肩を回し、次の依頼票へ手を伸ばしかける。
そのとき、扉が三度、規則正しく叩かれた。
侍女にしては遅い。
ヴランにしては、妙にきっちりしている。
「どうぞ」
許可を出すと、扉が静かに開いた。
現れたのは、黒だった。
濡れ羽色の髪。気怠げに半ば伏せられた赤い瞳。豪奢な衣服をどこか無造作に纏っていてなお、部屋の空気そのものが彼に従うような存在感がある。
ドルハだった。
リアンノンは椅子から立ち上がる。
「王」
「その呼び方は堅いな」
「役職名です」
「そうか」
特に気を悪くした様子もなく、ドルハは工房へ足を踏み入れた。
もっとも、勝手に奥まで入ってくることはしない。扉から数歩のところで止まり、部屋を見回す。
机に広げられた帳幕。分解された夜鴉筆記具。脇に積まれた依頼票。
その視線は鋭いのに、不思議と荒らす気配がない。
「随分、城中のものを蘇らせているようだな」
「壊れているものが多いので」
「文句か」
「感想です」
ドルハの口元がわずかに緩む。
それから彼は、手にしていた細長い箱を作業台へ置いた。
黒い天鵞絨張りの、いかにも高価そうな箱だ。
「開けろ」
命令口調ではあるが、押しつけがましさはない。
リアンノンは少しだけ警戒しつつ蓋を開けた。
中に入っていたのは、透き通るように淡い月晶で作られた拡視鏡と、薄手の手袋だった。
手袋は見た目こそ黒絹だが、裏地に極細の魔導糸が織り込まれている。はめれば指先の感覚を損なわずに保温できそうだった。
リアンノンは思わず手を止める。
「これは」
「帳簿に書いていただろう。交換用のルーペと、保温用の手袋が欲しいと」
ヴランが経費帳簿を上げたのだろう。
それは分かる。
分かるが、王が自分で持ってくるとは思わなかった。
「経費処理なら、侍従に運ばせれば十分では」
「そうだな」
あっさり認めてから、ドルハは赤い瞳を細めた。
「だが、どんな顔をするのか見たくなった」
あまりにも正直な物言いに、リアンノンは一瞬だけ黙った。
嘘や建前で飾らないのは、この国の吸血鬼たちに共通している。少なくとも、分かりやすいという意味では嫌いではない。
試しに手袋へ指を通してみる。
薄い。だが、じわりと熱が返ってきた。熱いのではなく、冷えを忘れさせる温度だ。精密作業に邪魔にならない。
「……いいですね」
「そうか」
たったそれだけで、ドルハの声音がわずかに低く柔らかくなった。
リアンノンは拡視鏡も手に取る。
月晶は魔力のほつれを見るのに向いている。普通のルーペでは見えない細い流れまで拾えるだろう。正直に言って、かなり欲しかった品だ。
「高価なものでは」
「お前の手を鈍らせるほうが高くつく」
その言い方は、職人を道具ごと評価しているのか、それとも手そのものを資産として見ているのか、少し判別しづらい。
だがリアンノンはとりあえず、好意的に解釈することにした。
「合理的な判断です」
「お前は本当に、それしか言わんな」
「必要ですか、ほかに」
「いや」
ドルハは短く笑う。
そのとき、ふと彼の視線が作業台の端へ向いた。
そこにはまだ、イヴァの香水瓶を修復したときの薄い残り香が漂っている。
「イヴァが来たな」
「ええ。依頼人として」
「そうか」
返事はそれだけだった。
けれど空気が、ほんの少しだけ冷えた気がした。
リアンノンは手袋を外し、机へ置く。
「三日後にお茶会へ招かれました。対価は情報です」
ドルハが沈黙する。
長くはない。
だが、夜そのものが考え込んだような間だった。
「断る気はないのか」
「有益なら受けます」
「有益」
「城の持ち主や品の由来を知れれば、修復の精度が上がります」
まっすぐ答えると、ドルハは片眉を上げた。
「仕事に繋がるなら何でも使う、か」
「当然です」
「……なるほど」
面白いのか面白くないのか分からない顔で、彼はゆっくりと頷いた。
「なら護衛をつける」
「不要です」
「必要だ」
「お茶会でしょう」
「だからだ」
その断言に、リアンノンは少しだけ首を傾げた。
社交とは、そんなに危険なものなのだろうか。人間の商会の晩餐会なら、たしかに疲れはしたが、命を落とすほどではなかった。
「部屋の中までついて来られては困ります」
「そこまではしない」
即答だった。
契約違反になる境界を、彼はきちんと理解しているらしい。
「会場の外までだ。北棟の温室までの往復、および周辺警備をこちらで受け持つ」
「……事前申請として記録してください」
「分かった」
あまりに素直な返答に、リアンノンは逆に少しだけ気味悪くなる。
だが王はそこで話を終えるつもりらしく、視線を工房の中へ戻した。
「それは何だ」
指したのは、修復済みの影織り帳幕だった。
「寝台用暗幕です。影を引きすぎて裂けていました」
「直るのか、影が」
「布に織り込まれているなら」
リアンノンは帳幕の縁を持ち上げて見せる。
「この国の魔導具は、“夜”を素材として扱う設計が多いですね。月は冷却、影は遮光、血は認証。面白いです」
ドルハがわずかに目を細めた。
「お前には、そう見えているのか」
「見えます」
「人間の国では違うと?」
「向こうは、壊れたら捨てる前提のものも多いです。ここは違う」
リアンノンは机の上の依頼票へ目を落とす。
「長く使うために作っている。だから壊れ方にも意味がある」
ドルハはしばらく何も言わなかった。
やがて、ごく静かな声で問う。
「この城も、そう見えるか」
質問の意図は分からない。
だが問われた以上、リアンノンは正直に考える。
黒い塔。古い結界。長命種たちが使い続けてきた品々。
ここでは新しいものより、長く残ったもののほうがずっと雄弁だ。
「……ええ」
リアンノンは答えた。
「とても古くて、たくさん使われていて、少し傷んでいます。でも、捨てる気のない場所です」
ドルハの赤い瞳が、かすかに揺れた気がした。
けれど次の瞬間には、いつもの気怠げな表情へ戻っている。
「そうか」
短く言い、彼は踵を返した。
扉へ向かいかけて、ふと思い出したように足を止める。
「リアンノン」
「はい」
「イヴァの用意するものが気に入らなければ、無理に着るな」
唐突な忠告だった。
リアンノンはまばたきをする。
「着る?」
「……いや」
ほんのわずかに、ドルハが目を逸らす。
その仕草だけで、ろくでもない未来を察するには十分だった。
「何かご存じで?」
「さあな」
「王」
「契約の範囲外だ」
それだけ言うと、彼は今度こそ扉へ向かった。
開く前に一度だけ振り返り、机の上の月晶拡視鏡へ目をやる。
「使え」
「使います」
「ならいい」
扉が閉まる。
あとには、静けさと、妙に質の良い道具だけが残った。
リアンノンはしばらくその場に立ち尽くし、やがて月晶拡視鏡を片目へ当ててみる。
工房の空気の流れが、さっきよりずっと細かく見えた。
机の上の影。帳幕の縁を走る夜。手袋の内側に仕込まれた保温陣。
どれも見事な品だ。
「……仕事がしやすい」
結局そこへ行き着いて、リアンノンは小さく息を吐いた。
王の気まぐれか、執着か、それとも純粋な投資かは分からない。
だが少なくとも、もらったものは役に立つ。
それなら問題ない。




