イヴァ様の依頼、その2
冷たい花の匂い。
けれど、すぐに分かる。開いていない。香りが一枚目の薄布のところで止まり、その奥へ進めずにいる。
リアンノンは瓶口を覗き込み、黒真珠のついた蓋の内側を確かめた。
そこには肉眼では見えにくいほど細い溝が三重に刻まれている。おそらく、香りの層を時間差で解放するための開花魔法陣だ。
「面白いですね」
思わずこぼすと、イヴァの目がきらりと光った。
「でしょう?」
「香りを保存しているのではなく、順番を記憶させているんですね」
「……まあ」
今度は本気で感心したらしい。
イヴァは扇を下ろし、まじまじとリアンノンを見た。
「初見でそこまで分かるの」
「構造がそうなっています」
香水瓶の内壁には、三層のごく薄い膜が張られている。
一枚目は体温。
二枚目は魔力。
三枚目は、持ち主の夜の癖――つまり、誰が纏う香りかを判別するための名残。
血や名は、力そのものではない。
どの扉を、誰のために開くかを決める鍵にすぎない。
この国の魔導具は、つくづくその思想で統一されている。
奪うためではなく、区別するための血。
支配するためではなく、帰属を示す名。
リアンノンは工具箱から極細の銀針を取り出し、蓋の内側にそっと差し入れた。
すると、二枚目の膜がわずかに引っかかる。
「ここです」
「壊れているの?」
「いえ。半分だけ眠っています」
「眠る?」
「ええ。香りの通り道が、ひとつだけ閉じかけている」
黒真珠の根元に、ごく小さなひびが入っていた。
肉眼では宝飾の陰に紛れる程度の傷だ。だが、ここに埋め込まれた珠は飾りではない。使用者の体温と魔力の変化を拾って、開花の順を調整するための感応核だ。
つまり、花で言えば蕾を開く合図を出す鐘のようなもの。
それがずれてしまえば、二枚目の香りは目を覚まし損ねる。
「原因はこの真珠です。割れているわけではありませんが、ひびで応答が鈍っている。たぶん、長く使いすぎて疲れたんでしょう」
イヴァが目を瞬く。
「香水瓶にも、そういうことがあるのね」
「あります。たくさん使われ、よく働いた証拠です」
その一言に、イヴァはわずかに黙った。
からかうような色が消え、代わりに柔らかなものが瞳に宿る。
この瓶が彼女にとってただの嗜好品ではなく、愛用品なのだと、その反応で分かった。
「直せますか」
今度の問いは、少しだけ真剣だった。
リアンノンは頷く。
「ただし、持ち主の協力が必要です」
「何をすればいいの?」
「再調律します。この瓶は、あなたの体温と魔力、それに血の情報を一滴だけ覚えているはずです。だから」
リアンノンは小さな受け皿を取り出し、イヴァへ差し出した。
「一滴、お願いします」
普通の人間なら躊躇したかもしれない。
だがイヴァは高位の吸血鬼らしく、眉ひとつ動かさなかった。
指先の爪をわずかに伸ばし、自分の指腹へ浅く走らせる。深紅の珠がひとつ、きれいに盛り上がった。
それが受け皿へ落ちる。
赤は少ない。
けれど十分だった。
リアンノンは受け皿を香水瓶のそばへ置き、黒真珠の感応核を外す。
針先で内部の導線を整え、疲れて閉じかけていた二枚目の膜をゆっくりと起こす。
次に、血をほんのひと刷毛だけ蓋の裏へ塗り、余分はすぐに拭い取る。
「血は鍵です。多すぎると、香りのほうが溺れます」
「あら、血晶灯みたいに?」
「同じです。認証は、過剰だと雑音になります」
イヴァが感心したように笑った。
「本当にこの国の理をよく見ているのね」
リアンノンは答えず、作業に集中した。
月光を受ける位置へ瓶を置き、蓋を戻す。今度は閉じすぎないよう、ひと呼吸分だけ余白を残す。
最後に、指先で瓶の肩を軽く叩いた。
からん、と澄んだ音が返る。
今度は、どこにも滞りがない。
「試します」
「ええ」
イヴァが手首を差し出した。
白い肌に、青い血管が淡く透けている。その美しさに見惚れる気はないが、魔導具の試験台としてはあまりにも整いすぎていて、少しだけ現実味が薄い。
リアンノンは夜花香瓶をそっと傾け、一滴だけその手首へ落とした。
まず、冷たい花の匂いがひらく。
百合に似ているが、もっと夜寄りの、白く静かな香りだ。
次いで、ほんの数拍遅れて夜薔薇が追いつく。
甘いのに重すぎず、先の冷たさを押しのけない。二層目が生きている証だった。
そして最後に、体温へ溶けるようにして、ごく薄い熱を帯びた香りが残る。
樹脂と蜜と、夜の終わりを知らせるような柔らかな余韻。
工房の空気が一変した。
ただ良い匂いがするのではない。
順に咲く。時間が香る。
さっきまでひとつの瓶に閉じ込められていたものが、肌の上で夜会ひとつ分の物語になってほどけていく。
「……まあ」
イヴァが、今度は本当に言葉を失った。
視線が自分の手首へ落ちる。
香りを確かめるように目を伏せ、そのまましばらく動かない。
やがて彼女はゆっくりと息を吐き、顔を上げた。
「完璧だわ」
「正常に戻っただけです」
「その“だけ”が難しいのよ」
イヴァはそう言って、作業台へ一歩近づいた。
香りの余韻とともに、彼女自身の華やかな気配が寄ってくる。
「ねえ、リアンノン。あなた、ただ器用なだけではないのね」
「器用で足りる仕事なら、もっと楽です」
「そういうところ」
イヴァは楽しそうに微笑む。
「壊れたものの仕組みだけじゃなくて、どういうふうに愛されてきたかまで見ているでしょう?」
リアンノンは一瞬だけ黙った。
愛されてきたか。
そんな言葉で考えたことはなかった。
けれど、たしかに長く使われたものには、その人なりの癖が染み込む。雑に扱われた跡も、丁寧に拭われた縁も、触れられた回数さえも、魔導具はちゃんと覚えている。
人よりよほど正直に。
「使われ方は痕跡になります」
そう答えると、イヴァは満足そうに頷いた。
「ええ。それを“美しい”と分かる人は少ないの」
彼女は懐から小ぶりの革袋を取り出し、作業台へ置いた。
音からして、先払いよりも少し重い。
「修復代。それと、感謝の前払い」
「確認します」
「もちろん」
リアンノンは袋の口を開け、中身をざっと見た。
銀貨に混じって、小さな香料石が二つ入っている。人間の国では高価な保存用資材だ。
「これは」
「おまけよ。あなた、どうせ香りの定着剤にも使えそうだと思ったでしょう?」
見抜かれていた。
リアンノンが無言になると、イヴァは声を立てずに笑う。
「気が合うじゃない。ますます欲しくなるわね」
「修復師としてなら雇用契約済みです」
「あら、違うわ」
イヴァは首を傾げる。
黒髪がさらりと肩を流れた。
「わたくしが欲しいのは、お友達よ」
その言葉は軽やかなのに、妙にまっすぐだった。
社交辞令で飾る響きではない。欲しいものを欲しいと言う、吸血鬼らしい率直さがある。
リアンノンは少しだけ戸惑う。
契約なら分かる。対価なら分かる。だが“友達”は帳簿へ記す項目がない。
何より、この世界を支配する吸血鬼が、たかだか人間のリアンノンと友達になる理由がない。
その困惑を面白がるように、イヴァはさらに続けた。
「別に今すぐ頷かなくてもいいの。でも、まずはお茶くらい付き合って。あなた、働くのは上手でも、城の女たちの視線の捌き方はまだ知らなさそうだもの」
「捌く必要があるんですか」
「大ありよ」
きっぱりと断言された。
「あなたはもう、陛下が直々に工房を与えて囲っている修復師なの。見たくないと言っても見られるし、放っておいてと言っても放っておかれないわ」
ひどく面倒な話だった。
リアンノンの表情を読んだのか、イヴァはくすくす笑う。
「大丈夫。社交界へ放り込んで食べられたりしないよう、最初はわたくしがついていてあげる」
「……その必要性はまだ感じません」
「感じるようになる前に、備えるのが賢い女でしょう?」
それは、少しだけもっともだった。
しかもイヴァは、最初から最後まで命令ではなく提案の形を崩さない。
押しが強いだけで、無理に踏み込んではこない。その距離感は意外と悪くなかった。
リアンノンは考える。
修復師として城で働く以上、依頼人や持ち主とのやり取りは避けられない。ならば、この国の上流階級の流儀を知っておくのは無駄ではないだろう。
「……事前申請があるなら」
そう言いかけた瞬間、イヴァの顔がぱっと輝いた。
「受けてくださるのね!」
「まだ条件を聞いていません」
「あら、もちろん対価は払うわ」
予想通りの返答だった。
「お茶会一回につき、王城内の噂話ひとつ。あなたが聞きたがりそうな、物と人に関する確かな情報を。どう?」
悪くない。
いや、かなりいい。
イヴァの立場なら、城内の古い品の由来や持ち主の癖にも詳しいはずだ。修復前にその種の情報があるだけで、作業効率も精度も変わる。
「情報の質次第です」
「合格点を取れるよう努力するわ、修復師殿」
イヴァは扇を閉じ、胸元で軽く打った。
「では決まり。三日後の夜、北棟の温室で。小さなお茶会にしましょう。あなたに似合うものはこちらで用意しておくから」
その一言に、リアンノンは嫌な予感を再び覚えた。
「似合うもの、とは」
「ドレスに決まっているでしょう?」
「必要ですか」
「必要よ」
「実用性は」
「美しさは実用に含まれるの」
まったく迷いのない断定だった。
血晶灯の理屈より理解が難しい。
リアンノンが沈黙すると、イヴァはそれを了承と見なしたらしい。
満足げに笑い、踵を返す。
「今日はとても良い夜だわ。香りは蘇ったし、面白い子にも会えたもの」
扉の前で、彼女はふと思い出したように振り返った。
「そうそう。あなた、もう気づいているかしら」
「何にですか」
「この城ではね、誰かの大切なものを直せる人間は、それだけで少し特別なの」
紫の香りをまとったまま、イヴァは意味ありげに目を細める。
「まして、王様の長い退屈を壊してしまったのなら、なおさらね」
返事を待たず、彼女は音もなく退出した。
扉が閉まっても、香りの余韻だけがしばらく工房に残る。
静かになった室内で、リアンノンはしばし立ち尽くしていた。
作業台の上には、修復を終えた夜花香瓶。
脇には、支払われた報酬。
そして三日後には、お茶会。
「……忙しい」
呟いてから、それが不満より先に予定の確認として口をついて出たことに、自分で少しだけ驚いた。
嫌ではない。
少なくとも、完全には。
リアンノンは夜花香瓶の修復記録を依頼票へ書き込み、使用時の注意を端正な文字で添える。
――蓋は閉めすぎないこと。
――保管は月光棚、ただし直射の強い夜は避けること。
――三十回使用ごとに感応核の休息を推奨。
書き終えたところで、ふと最後の一文を足した。
――よく使いこまれた品です。今後も丁寧に。
そこまで書いて、リアンノンは小さく息を吐く。
仕事としては、それで十分なはずだった。
なのに、しばらくしてから扉の外に残っていた香りが完全に薄れたとき、工房が少しだけ広く、静かになりすぎた気がしたのは、たぶん気のせいではない。
そして三日後、その静けさを箱詰めのドレスで破壊しにくる使者が現れることを、このときのリアンノンはまだ知らなかった。




