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イヴァ様の依頼、その1

 黒い盆の上に置かれていたのは、小さな香水瓶だった。


 瓶、というにはあまりにも凝った造りをしている。

 薄紫の夜玻璃に、金の細工で蔓薔薇が巻きつき、蓋の先には雫の形をした黒真珠がひとつ。光の加減で、内部の液体が星屑のように揺れて見えた。


 依頼票にはこうある。


 ――《夜花香瓶》

 ――症状:香りの開花不良

 ――持ち主:イヴァ・ルクレツィア

 ――至急。美は待ってくれないので。


「……最後の一文、必要ですか」


 小さく呟いたところで、工房の扉が規則正しく三度叩かれた。


 リアンノンは顔を上げる。

 この時間に受け取りには早い。追加依頼にしては、ノックが妙に華やかだ。


「どうぞ」


 許可を出すと、扉が音もなく開いた。


 最初に入ってきたのは香りだった。

 甘いだけではない、夜気を含んだ花の匂い。次いで、月光をそのまま織ったような淡い藤色のドレスの裾。そして最後に、見る者すべてを当然のように従わせる美貌の女が現れる。


 白い肌。艶やかな黒髪。宝石を散らしたような笑み。

 高位の吸血鬼だと、一目で分かった。


「あなたが、陛下の退屈を壊した修復師ね?」


 女は扇を口元に当て、楽しげに目を細めた。


「はじめまして、リアンノン。わたくし、イヴァ・ルクレツィアと申しますの」


 名乗りながらも視線はまっすぐに作業台へ落ち、そこにある香水瓶を見つけると、ぱっと表情を輝かせた。


「まあ、ちょうどよかったわ! それ、わたくしの宝物なの。ぜひあなたの手で蘇らせてちょうだいな」


 リアンノンは、目の前の女と依頼票を見比べた。

 最後の一文が本人の筆であることを、ほとんど確信する。


「……持ち主ご本人でしたか」


「ええ。美は待ってくれないもの。待ちきれなくて」


 断言する声音に迷いがない。


 リアンノンは香水瓶を手に取り、紫の液体が揺れるのを見た。

 精巧だ。香りを保存するだけでなく、時間差で“咲かせる”仕組みになっている。夜会用だろう。歩くたび、体温と魔力に反応して香りの層が順に開く設計だ。


 面白い。


 そう思った瞬間、イヴァがにっこりと笑った。


「気に入ったお顔をなさったわね」


「まだ修理前です」


「でも、直したいと思ったでしょう?」


 否定できなかった。


 イヴァは満足そうに頷き、工房をひとわたり見回す。

 その目は、ただ華やかなだけではない。細部まで観察し、価値を見極める者の目だった。


「安心したわ。聞いていた通り、本当に“分かる人”なのね」


「聞いていた?」


「ええ。王様がご自分の古い時計を、誰にも触らせなかったのにあなたには渡したと聞いて、ぜひ会ってみたくなったの」


 さらりと言われ、リアンノンはまばたきをした。


 誰にも触らせなかった。

 あの時計は、やはりただの私物ではなかったらしい。


 イヴァは扇の先で香水瓶を指し示す。


「それを直してくださったら、お礼にとっておきのことを教えて差し上げる」


「修復の報酬は別途いただきます」


「あら、もちろんよ」


 イヴァはくすくす笑う。


「だからこそ気に入ったの。あなた、ちゃんと値札のついた言葉しか信じないのでしょう?」


 その言い方に、リアンノンは少しだけ眉を寄せた。

 だが不快ではない。見透かされることと、見下されることは違う。


「では、お預かりします」


「ええ、お願い」


 イヴァはそう言って一歩近づいた。

 月光と花の香りがふわりと揺れる。


「それが済んだら、今度はあなた自身の修復もしましょうね、リアンノン」


「……私の?」


「ええ。そんなに美しいのに、ずいぶんと実用一点張りでいらっしゃるもの」


 視線が、リアンノンの簡素な黒いドレスを意味ありげに撫でた。


 嫌な予感がした。


 だが、その予感が何を意味するのかを理解するより先に、イヴァは楽しげに微笑み、次の約束を勝手に決めてしまうような顔で扇を閉じた。


「お茶会の予定を空けておいてね。修復師殿」


 リアンノンは香水瓶を持ったまま、きわめて真面目に答えた。


「業務外の予定は、事前申請をお願いします」


 一拍の間を置いて、イヴァが笑い出す。

 鈴を転がすような、けれどどこか艶のある笑い声だった。


「本当に素敵。ねえ、陛下が夢中になるのも分かるわ」


「夢中に?」


「ふふっ、さあ?」


 扇で唇を隠しながら、イヴァは楽しそうに目を細める。


「そういう顔をなさると、ますます可愛いわね。安心して。いきなり攫ってお茶会へ連行したりしないわ。今日はきちんと依頼人として来たのですもの」


 依頼人。

 その言葉の選び方は好ましかった。


 リアンノンは香水瓶を作業台の中央へ置き、依頼票を改めて確認する。


「症状は“香りの開花不良”。具体的には」


「以前は、纏ってから順に香りが変わっていたの。最初は冷たい花、次に少し甘い夜薔薇、最後にだけ、ほんの少しだけ熱を持った香りへ」


 イヴァは自分の首筋に指先を滑らせながら言う。

 説明の仕方まで美しいのだから、この女は徹底している。


「それが最近は、最初の一瞬だけ香って、すぐに死んでしまうの。まるで咲き損ねた花みたいに」


「いつからですか」


「二月ほど前からかしら。最初は気のせいかと思ったのだけれど」


「落としたことは」


「一度も」


「中身の詰め替えは」


「わたくし自身の手でしかしていないわ」


「保管場所は」


「北棟の化粧室。月光棚の三段目」


 答えに淀みがない。

 見栄や曖昧さを挟まないのも、また好ましい。


 吸血鬼の方々の特徴なのだろうか。

 曖昧な言葉を避け、重要な言葉は飾らず、それでも誤魔化したいときには明確に誤魔化していると伝えてくれる。


 リアンノンは小さく頷き、瓶を光へ透かした。

 夜玻璃の内側で、薄紫の液体がゆるく揺れる。濁りはない。変質もしていない。ならば問題は中身ではなく、開花機構のほうだ。


「開けます」


「どうぞ」


 蓋に指をかけた瞬間、リアンノンはわずかに眉を寄せた。


「……硬い」


「あら。そう?」


「ええ。閉じ方がきつすぎます」


 イヴァが扇の陰で笑う。

 だがリアンノンは真顔のまま、細い布を噛ませて慎重に蓋を回した。


 とくり、と。


 ごくかすかな音がした気がして、手を止める。

 瓶の内部からだった。


 血晶灯が脈打つように、伝声鏡が囁きを溜めるように、この香水瓶もまたただの容器ではない。

 香りを入れておくだけなら、こんなに複雑な造りである必要はないのだ。


 蓋が外れる。

 その瞬間、ほのかな香りが立ちのぼった。


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