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理想の職場、お仕事の始まり

 王が笑ったあの夜から、西塔の工房には途切れることなく依頼が届くようになった。


 レクイエムの貴族は誰も彼も誇り高く、冷徹で、己の身近に置くものには徹底したこだわりを持つ蒐集家も少なくないと聞く。

 お抱えの修復師がいる者もいるはずだ。

 無名の修復師への依頼など、そう多くはないと思っていたのだが――


 まぁ、そんなことはなかった。

 あふれかえるほどではないが、依頼がまったく途切れないのだ。


 最初に感心したのは、その運ばれ方だった。

 壊れた魔導具はむやみに積み上げられるのではなく、すべて黒い盆にひとつずつ載せられ、症状と持ち主、使用場所、希望納期を書いた依頼票が添えられている。


 依頼票。

 それも、かなり正確な。


「……すごい」


 思わず口にしてから、リアンノンははっとした。

 たかが依頼票で感動するなど、自分でもどうかしていると思う。

 けれど、地下工房では「なんか変だから直しておいて」と投げ込まれるのが常だったのだ。原因も用途も不明なままでは、修復ではなく博打になる。


 それがここでは違う。


 北回廊第三灯、点滅。

 古書庫温度調整機、冷却不良。

 東客間伝声鏡、雑音混入。

 使用者の名前と、最後に正常だった時刻まで記されている。


 あまりにも仕事がしやすい。


 リアンノンは依頼票を症状ごとに並べ替え、優先順位を決めた。

 命に関わるものから。次に、結界や保管設備のような重要度の高いもの。嗜好品は後回し。

 その単純な仕分けだけで、頭の中が澄んでいく。


 最初に手をつけたのは、北回廊で使われている血晶灯だった。


 運ばれてきたそれは、掌に載る程度の小型灯具で、黒銀の枠の中に赤い結晶が嵌め込まれている。点灯すると柔らかな紅の光を放つらしいが、いまは内部で不穏に瞬いていた。まるで脈が乱れている心臓のようだ。


 リアンノンは外装を外し、結晶の根元に走る細い管を覗き込む。


「……なるほど」


 血晶灯は、血で燃えるわけではない。


 血は燃料ではなく鍵だ。

 持ち主の魔力情報を結晶へ教えるための認証で、実際に光を生むのは夜のあいだに蓄えた月性魔力のほう。だからこそ、管が詰まれば認証だけが何度も繰り返され、灯りは落ち着かず明滅する。


 世界の法則は、たいてい人が言うより単純だ。

 大げさに飾られているだけで。


 リアンノンは細い洗浄液を流し込み、詰まっていた凝固片を除去する。おそらく、使用者が急いでいたのだろう。認証用の血を無理に多く流したせいで、結晶の呼吸に対して管が狭すぎたのだ。


 管をひとつ上の規格に交換し、流路を整えて蓋を戻す。

 軽く起動させると、今度は灯りが一度だけ深く呼吸してから、静かな紅を保った。


 瞬きではなく、安定した明るさ。

 乱れていた脈が整ったような光だった。


 ちょうど受け取りに来ていた侍従が、小さく息をのむ。


「直ったのですか」


「ええ。血を入れすぎです」


「……灯りなのに?」


「灯りだから、です。認証鍵は多ければいいわけではありません。扉に鍵を十本差しても開かないでしょう」


 侍従は妙に納得した顔で何度もうなずいた。

 リアンノンは依頼票の端に、次回からの使用上の注意を短く書き添える。


 修復とは、壊れたものを戻すだけではない。

 次に壊れにくくするところまで含めて、ようやく仕事だ。


 次に取りかかったのは、古書庫の温度調整機だった。


 書庫へ足を踏み入れた瞬間、リアンノンは少しだけ目を細めた。

 空気がぬるい。紙を守るには温度が高すぎる。


 壁際に据えられた古い箱型装置の表面には、月を象った銀細工がびっしりと施されていた。月性魔力を冷却へ変換する装置だろう。人間の国ではほとんど見ない形式だ。


「月光を溜めて冷やすんですか」


 案内役の書庫番が、驚いたように振り返る。


「ご存じで?」


「構造を見れば分かります」


 月の魔力は熱ではなく、静けさに寄る。

 火の魔石が膨張に向き、風の魔石が循環に向くのと同じで、月の力は余分なものを鎮める。だから冷却や保存に使われる。


 ただし、この装置は壊れ方が少し妙だった。

 魔石核は生きているのに、冷気だけが生まれない。


 分解してみれば原因は単純だった。

 月光を受け取る反射板の角度が、わずかにずれている。誰かが上に本でも積んだのか、装置全体がほんの少し歪み、そのせいで夜じゅう集めた月性魔力がきれいに流れなくなっていたのだ。


「重いものを載せましたね」


 書庫番が目を逸らした。

 分かりやすい。


 リアンノンはため息を呑み込み、反射板を慎重に戻す。ついでに荷重を逃がす補助骨格を一本追加してやる。これで多少乱暴に扱われても、すぐには狂わない。


 再起動すると、装置の表面を淡い銀が走った。

 次いで、書庫に満ちていたぬるさがすっと引く。


 冷たい、というより、静かな温度だ。

 古い紙が喜ぶ空気だった。


「……すごい」


 今度は書庫番が呟く番だった。


 リアンノンは工具を拭きながら首を振る。


「すごくはありません。月は重さに弱いだけです」


 その言葉に、自分で少しだけおかしくなる。

 普通なら詩になるところだ。だが彼女にとってはただの事実だった。


 三件目は、東客間の伝声鏡。


 背の高い姿見のような鏡で、縁には蔦と薔薇の意匠、鏡面には細かな銀の粉が練り込まれている。本来なら離れた部屋の相手と会話できる便利な魔導具らしいが、最近は話しかけても数年前の声が混じるという。


 数年前の声。


 あまり嬉しくない故障だ。


 リアンノンは鏡面に触れ、そっと魔力を流した。

 すると表面に、言葉になり損ねた囁きの残滓が浮いた。鏡は声を映すだけではない。受け取った音と感情の揺れを、ごく薄く蓄える性質がある。長く使われたものほど“覚え”が悪くなるのはそのせいだ。


「記憶酔いですね」


「……酔うのですか、鏡が?」


 客間付きの使用人が、恐る恐る尋ねる。


「ええ。聞きすぎたんです」


 鏡も、長く使えば疲れる。

 魔導具とはそういうものだ。金属と石でできていても、流れがある以上、癖は生まれる。


 鏡面を薄く削り、古い残響を抜く。

 銀粉を補い、受信陣の端を磨き直し、新しい“抜け道”を作ってやる。声は溜め込ませず流すに限る。


 仕上げに試験起動をすると、鏡の向こうに別室の侍女の顔がふわりと映った。


『聞こえますか』


「ええ」


 返せば、今度は古い声の割り込みもない。

 鏡面は静かで、澄んでいた。


 使用人は感極まったように頭を下げた。


「助かります……昨夜など、食器を下げてよろしいかとお伺いしたら、三年前の旦那様の『いまは誰にも会いたくない』が返ってきてしまって……」


「それは面倒ですね」


「とても」


 とても、では済まない事態の気もしたが、リアンノンはそれ以上言わなかった。


 仕事は尽きなかった。

 夜ごと、壊れたものは運ばれてくる。


 歌うはずのない時間に嘆く夜鳴きオルゴール。

 日中の眠りを守るために部屋いっぱいの影を織り込んだ帳幕。

 温度だけでなく、棺の内部湿度まで管理する小型保管箱。

 古い肖像画の額には、描かれた人物の気配を留めるための定着陣まで組まれていた。


 修復するたび、この国の法則が少しずつ見えてくる。


 魔力は鉱物に宿りやすい。

 血や名は、力そのものではなく“誰のものか”を定める鍵になる。

 そして長く使われたものほど、持ち主の癖や時間を覚える。


 吸血鬼たちは長命だ。

 だからこそ、一度手にしたものを簡単には捨てない。

 何十年、何百年と使い、手入れをし、また使う。

 物に染み込んだ時間の層が、人間の国の品とは比べものにならなかった。


 リアンノンにとって、それは驚くほど居心地がよかった。


 壊れたから捨てるのではなく、壊れたから直す。

 古いから価値がないのではなく、古いから価値がある。


 その感覚だけなら、自分はこの国の住人たちと案外近いのかもしれない、とすら思う。


 数日後には、西塔の工房の机の上には修復済みと未着手の盆がきちんと分かれて並び、棚には資材が規格ごとに収まり、依頼票の整理も完全に軌道に乗っていた。

 働きやすい。

 ひどく、働きやすい。


 だからこそ、その日の最後に運ばれてきた品を見たとき、リアンノンは思わず手を止めた。


 黒い盆の上に置かれていたのは、小さな香水瓶だった。


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