最初の夜、王かく語りき
◇
静かな夜だった。
王の私室は、謁見の間ほど飾り立てられてはいない。
広いだけの部屋だ。黒い壁、背の高い窓、最低限の調度。数百年も生きていれば、豪奢なものなど見飽きる。美しいものは嫌いではないが、所有したところで心を動かされることはほとんどなかった。
だからこそ、手の中にある懐中時計の刻む音が、ひどく異質に思える。
ちく、たく。
ちく、たく。
止まっていた時が、規則正しく夜を削っていく。
ドルハは長椅子に深く腰かけたまま、片手の中の時計を見下ろした。
銀の蓋に浮かぶ夜咲きの花の意匠。擦れた傷は昔のまま。歪みも完全には消えていない。使用痕を消さずに残したのだろう。
あの人間は、ただ直したのではない。
壊れていた事実ごと肯定して、元あるべき場所へ戻した。
「……生意気な女だ」
呟いてみても、声音に苛立ちはなかった。
むしろ逆だ。あまりにも久しぶりに胸の内がざわめいていて、自分でも扱いに困るほどだった。
血の契約を断った。
あれは、ただの反抗ではない。
怯えた末の虚勢でもなかった。
必要ないから、不要だと切り捨てた。吸血鬼の王を前にして、あの女は最初から最後まで、自分の価値を自分で定義していた。
欲しいのは保護ではない。
施しでもない。
対価と権限、そして仕事。
数百年のあいだ、無数の人間を見てきた。
媚びる者、怯える者、欲に目を曇らせる者、救いを乞う者。
だが、月給と残業代を要求した人間は、本当に初めてだった。
思い出しただけで、喉の奥に笑いが滲む。
扉の外で気配が止まり、控えめなノックが三度響く。
「入れ」
現れたのはヴランだった。
相変わらず人を食ったような笑みを浮かべているが、目元にはわずかに面白がる色がある。
「ご機嫌ですね、陛下」
「気色の悪いことを言うな」
「失礼。ですが事実でしょう。西塔の工房、無事に引き渡しが済みましたよ。鍵も本人に。経費帳簿も渡しました」
「そうか」
「ずいぶん手厚い」
からかうような言い方だった。
ドルハは時計の蓋を閉じ、ヴランへ視線を向ける。
「そういう契約だ」
「ええ、存じています。まさかあの場で“業務外の身体拘束禁止”なんて条項まで通るとは思いませんでしたけど」
「俺が認めた」
「だから驚いているんですよ」
ヴランは肩をすくめる。
その反応すら今夜は不快ではなかった。
「西塔の周辺警備は強化しておけ」
「工房の無断立ち入りは禁止、では?」
「中へは入るな。近づくな。だが守れ」
命じると、ヴランは一拍だけ黙った。
そして薄く目を細める。
「……なるほど。囲う気は満々なのに、嫌がることはしない、と」
ドルハは答えなかった。
答える必要もない。
血の契約を結べば早かった。
王の血で縛れば、逃げることも、傷つけられることもない。あの人間ひとりを守るには、もっとも確実で、もっとも簡単な方法だ。
だが、あの紫の瞳はそれを拒んだ。
いらない、と。
対等でないものには価値がないとでも言うように。
命じれば従わせられる。
奪おうと思えば奪える。
王とはそういうものだ。
けれど、不思議なことに今は、それでは足りない気がした。
従わせたところで意味がない。
あの女は、恐怖で頭を垂れた途端につまらなくなる。
「ヴラン」
「はい」
「工房に必要なものは最優先で揃えろ。希少資材も、保管庫の開示も許可する」
「ずいぶんとご執心で」
「退屈しのぎだ」
「そういうことにしておきましょう」
にこやかに返しながらも、ヴランは確実に察していた。
察した上で口を挟みすぎないから、こいつは使いやすい。
「それと、人間界の動きも洗っておけ。あれを手放した連中が、今さら惜しくなって騒ぐ可能性がある」
「もう手を回していますよ。養父母と商会、それに教団周りも」
「早いな」
「陛下が珍しく“気に入った”顔をなさっていたので」
ドルハは無言で睨んだ。
ヴランは肩を揺らして一礼する。
「では、失礼を」
扉が閉まる。
再び、私室には時計の音だけが残った。
かち、かち。
かち、かち。
昔、この時計が止まった夜のことを、ドルハはまだ忘れていない。
長すぎる生の中で、忘れようと思ったこともあった。だが、止まったままでも手放せなかった。
それを、あの人間は迷いなく直した。
敬意も恐れもなく、ただ「壊れているから直す」と言わんばかりの顔で。
ドルハは立ち上がり、窓辺へ寄る。
西塔の方角へ目を向ければ、ひとつの窓にだけ淡い灯りがともっていた。
あの工房だ。
今ごろ、支払った前金を数えているかもしれない。
帳簿をつけ、道具を並べ、明日からの作業を考えているのかもしれない。
王に見初められた栄誉でも、怪物の城に売られた悲嘆でもなく、まず仕事の段取りを整えているはずだ。
あまりにも奇妙で、あまりにも目が離せない。
「リアンノン」
名を呼ぶと、思った以上に甘く響いた。
血の契約は結ばない。
望まないものは押しつけない。
あれは契約だ。王といえど、破る気はない。
――だが。
ドルハは西塔の灯りを見つめたまま、ゆっくりと目を細める。
「せいぜい自分の値を高くつけておくといい」
修復師を雇う対価としては、いささか過剰なものを支払うことになるかもしれない。
金でも、宝でも、地位でもない。
もっと面倒で、もっと始末の悪い何かを。
それでも構わなかった。
数百年ぶりに、夜が少しだけ短いと思えたからだ。
永遠の生に必要なのは、好奇心と驚きであるはずだ。
少なくとも、いまこの時、ドルハはそう考えていた。




