秘密(公然)の逢瀬
大祭儀は、何事もなく終わった。
聖都の鐘は予定どおりに鳴り、光の壁は維持された。
民衆はただ「今年も無事だった」と胸を撫で下ろし、祈り、仕事へ戻っていった。
その裏で中枢祭具を繋ぎ直し、歪んだ流れを戻し、人を器にするための接続口をすべて封じたのが、夜の国の王城特命技師だったことを知る者は、ごくわずかしかいない。
リアンノンは聖都にさらに二日留まり、中枢祭具を完全に修復した。
応急ではない。継ぎ足しではない。
人間を余剰魔力の緩衝材に使う歪な構造そのものを外し、暴走しかけていた光の流れを、本来あるべき経路へ戻した。
だからもう、あの祭具は人を繋がなくても動く。
教団はその事実を、表には出さなかった。
出せなかった、という方が正しいのかもしれない。
夜の国の王が派遣した修復師が、教団の大祭儀を救ったなどと知れれば、信徒たちの動揺は避けられない。
教団にとって信仰は権威だ。
だが同時に、力なき者たちが明日を信じるための拠り所でもある。
だから、その秘密は伏せられた。
教団は表向き「祭具の一時不調は経年劣化によるものであり、内部整備により復旧済み」とだけ発表し、別口でレクイエム王城へ正式な極秘保守契約を差し出した。
今後の定期点検と緊急整備は、王城特命技師リアンノンの名で受ける。
その契約書には、保守費、技術顧問料、資料閲覧料、緊急出張費――そして、きわめて婉曲に書かれた機密保持費、つまり口止め料まで含まれていた。
金額は、破格だった。
あまりの数字にリアンノンは「口止め料が高すぎですが」と眉を寄せたが、ドルハは「連中の面子の値段だろう」と平然としていた。
ただし、受け入れた理由は教団のためではない。
光の壁が守っているのは、教団の威信だけではないからだ。
そこに祈りを寄せて暮らす民衆まで巻き添えにする気は、リアンノンにもドルハにもなかった。
人を余剰魔力の発散口にする発想を持ち込み、実際にそれを運用へ乗せていた神官たち。
そして、旧レクイエムの拘束技術をねじ曲げ、祭具へ混ぜ込んだグレイル。
その処分は、教団とドルハの協議によって決まった。
表向きには、失脚と隠退。
だが実際には、レクイエムの牢獄にて千年の幽閉。
千年。
吸血鬼の国らしい、ひどく長い刑だ。
養父母の商会は、完全には潰れなかった。
あの二人は相変わらず修復師を名乗っているらしい。
けれど以前と同じではない。
教団内でも改革派と呼ばれる、比較的レクイエム寄りの派閥の監視下に置かれ、帳簿も仕事も常に見張られている。
光印を押すにも、納品するにも、修理記録を改竄できない。
もう、誰かの名を消して使い潰すことはできない。
それだけで十分だと、リアンノンは思った。
復讐としてはぬるいかもしれない。
けれど、壊れていた仕組みを壊れたままにはしない、という意味では、たしかに正しい処置だった。
◇
王城特命技師の西塔工房に、「私的時間拘束申請書」が届いたのは、聖都から戻って三日後のことだった。
作業台の端には、教団から届いた重たい革袋がふたつ、不機嫌そうに置かれている。
報酬と、機密保持費。
中身を見るたびに、リアンノンはいまだに少しだけ変な気分になる。
「…………」
「……何その顔」
ディアストラが作業台の向こうから覗き込む。
リアンノンは無言のまま首を横に振る。
陰謀の片棒を担いでいるような気がするが、これも無辜の民の拠り所を守るためだ。
気分を変えようと、届いたばかりの黒銀の封筒から、厚手の申請書を取り出す。
件名:夕食同席願い
申請者:レクイエム王、ドルハ
希望日時:本日第七鐘後
場所:西塔上階温室隣接小食堂
目的:雇用継続契約更新後における就業時間外の私的交渉、及び定期面会の許可
「……最後の一文、必要ですか?」
「必要だと思ったんじゃない?」
横から面白がるように言ったのはヴランだった。
「むしろだいぶ配慮してるよ。“デートしよう”って書けばいいのに“定期面会の許可”だって」
「なんていらない配慮を」
「王様、律儀だな」
ディアストラが感心したように言う。
「申請しろって言われたから、本当に申請したきたんだ」
「ええ。しかも執務局の正式書類を使って。内容がほぼ落書きですけど」
「真面目すぎてちょっと怖いな」
そこで、背後からぱっと花の香りがした。
「まあ!」
イヴァである。
もはや当然の顔で工房に入り込み、申請書を見た途端、目を輝かせた。
「素敵じゃない。ちゃんと就業時間外、ちゃんと事前申請、ちゃんと場所指定。合格点よ」
「目的欄が不合格です」
「そこが可愛いのに」
「可愛さを申請書に求めないでください」
イヴァはくすくす笑いながら、リアンノンの肩越しに紙を覗き込む。
「でもいいじゃない。あなたの言った条件、ちゃんと覚えてるのよ」
「覚えているのと、書き方が適切かどうかは別問題です」
「そこの適切さ、いるの?」
「相手は王ですから」
リアンノンは即答し、赤インクのペンを取った。
目的欄の最後の一文を、容赦なく一本線で消す。
その横へ、やや小さめの字で書き足した。
訂正印を押して、ひといき。
目的:夕食
「簡潔!」
ヴランが吹き出す。
「十分です」
「愛想がないわねえ」
イヴァは言うが、顔は楽しそうだった。
リアンノンはさらに、注意事項欄へ追記する。
備考:業務資料の持ち込み禁止。就業中の追加契約交渉禁止。食後に新たな申請書を提出する場合は一件まで。
「最後の一文、何の意味が?」
ディアストラが首を傾げる。
「たぶん必要なので」
「抜け道を塞いだわね?」
イヴァが感心したように言う。
「相手は王なので」
リアンノンは署名欄へ自分の名を書き入れ、承認印を押した。
薄い銀の光が走る。
ただの夕食の申請書なのに、妙にきちんと成立してしまった。
「……通したんだ」
ディアストラが言う。
「通しました」
「へえ」
その、へえ、の一音にいろいろ含まれている気がして、リアンノンは少しだけ眉をひそめる。
「何です」
「いや。前なら、もっと面倒な条件を増やしてたかと思って」
「増やしています」
「そういう意味じゃなくてさ」
ディアストラは小さく笑った。
「ちゃんと行く気なんだなって」
リアンノンは一瞬だけ黙り、それから申請書を封筒へ戻した。
「……仕事の延長みたいなものです」
「そういうことにしといてあげる」
イヴァがにっこりと言う。
「でも着替えは必要ね」
「必要ありません」
「必要よ」
「いりません」
「必要」
「イヴァ様」
「大丈夫、食堂用の控えめなやつにするから!」
嫌な予感しかしなかった。
◇
第七鐘の少し前。
西塔上階、温室に隣接した小食堂は、思っていたよりずっと静かだった。
大広間のような豪奢さはない。
丸い卓がひとつ、灯りがふたつ、窓の外には夜の庭と、温室の硝子越しに見える淡い緑。
室内には花ではなく、控えめな薬草の香りがしている。
リアンノンは扉の前で一瞬だけ立ち止まった。
イヴァに押し切られる形で替えさせられたのは、仕事着より少し柔らかい生地の濃紺のドレスだった。
派手ではない。
だが袖口や裾の線が綺麗で、確かに“控えめ”ではある。
問題は、控えめなだけで似合っていることだった。
「入っていいぞ」
中から声がして、リアンノンは扉を開けた。
ドルハはもう来ていた。
王の正装ではなく、黒の細身の上着に銀糸の帯だけという軽い装いだ。
それだけで充分に目立つのが腹立たしい。
「……早いですね」
「条件の修正案はついていたが、お前が承認してくれるとは思わなかったからな」
「だからって予定より前に来るのはどうなんです」
「開始時刻前の待機だ。規約違反ではない」
「十分前行動する王とか、冗談ですか」
そのやりとりだけで、少し肩の力が抜ける。
卓上には、すでに料理が並んでいた。
温かいスープ、薄く焼いた白身魚、香草を利かせた肉、柔らかなパン。
過剰ではないが、いかにも丁寧に整えられた食事だ。
「……普通の夕食ですね」
「何だと思っていた」
「もっとこう、王族っぽい過剰な何かを。あるいは血みどろのパーティ?」
「申請書に“夕食”としか書いてなかっただろう。吸血鬼だからといっておどろおどろしい吸血儀式ばかりをするわけでもない」
「たまにはするんですか?」
「儀式が必要なときだけだ」
ドルハが椅子を引く。
自然すぎて、一瞬だけ反応が遅れた。
「どうした」
「いえ。王がしてくれるんだと思って」
「申請に含まれてはいなかったが、拒否された覚えもない」
「いちいち契約みたいに言わないでください」
座る。
向かいにドルハも腰を下ろす。
最初のうちは、本当にただの夕食だった。
西塔の記録板が新しくなったこと。
検分室の棚が足りなくなってきたこと。
ディアストラが給与計算に妙に詳しくなったこと。
イヴァが勝手に「特命技師の工房には茶器が必要」と言い出して、棚の一角を占領しかけたこと。
そんな取り留めない会話が、思いのほか心地よかった。
途中で運ばれてきた温かい果実酒を一口だけ飲み、リアンノンは口を開く。
「人間界の方は、どうなりました?」
「祭具は安定しているそうだ」
ドルハが答える。
「大祭儀も問題なく終えた。今後の保守点検は、極秘でレクイエム王城へ依頼が来る」
「……本当にそうなったんですね」
「ああ。機密保持費まで乗せてきた」
「高すぎましたけど」
「口止め料だからな」
ドルハは平然と言う。
「もっとも、受けた理由は連中の面子のためじゃない」
「民衆のため、ですね」
「そうだ」
短い肯定だった。
「教団の看板がどうなろうと知ったことではない。だが、あの光を明日の支えにしている人間まで巻き添えにするつもりはない」
「私も同意見です」
リアンノンは杯を置く。
「信仰は、管理する側だけのものではありませんから」
「だからお前を行かせた」
さらりと言われて、少しだけ言葉に詰まる。
ドルハはそこで話題を変えるように、パンをちぎった。
「人を緩衝材にする発想を持ち込んだ神官どもは、教団とこちらの協議で処分が決まった」
「どうなりました」
「表向きは失脚と病気療養。実際は、レクイエムの牢へ移送」
「……どのくらい」
「千年」
「長いですね」
「吸血鬼基準だと妥当だ」
その返答はあまりにも当然で、リアンノンは少しだけ眉を寄せる。
「グレイルも?」
「ああ。同じだ」
「そうですか」
それで可哀想だとは、思わなかった。
人を物としか見ず、壊れた道具の上へさらに人を繋いだ男だ。
「養父母は」
リアンノンが問うと、ドルハの赤い瞳がこちらを向く。
「工房は残った。ただし自由ではない」
「……監視」
「教団改革派の監査付きだ。しかも、レクイエムとの共同監査を容認する連中のな」
わずかに唇の端が上がる。
あまりいい性格ではない笑い方だった。
「帳簿も納品も全部見られる。光印ひとつ押すにも、誰が直したか誤魔化せん」
「そうですか」
それなら、いい。
よかった、とは違う。
けれど、少なくとも、もう同じやり方はできない。
「……終わったわけではないですね」
「ああ」
「でも、前よりはずっといい」
「そうだな」
短い肯定だった。
その短さが、かえって確かだった。
食事が半ばを過ぎたころ、ドルハが卓の横に置いていた小箱を取り上げた。
「これを」
「何ですか」
「更新祝い、だな」
差し出された箱は、掌に収まるほどの黒い木箱だった。
開けると、中には小さな銀の刻印具が納められている。
整備札に押すための、専用印だ。
「…………」
リアンノンはしばらく言葉を失った。
丸い持ち手の先に刻まれているのは、過不足ない文字列。
王城特命技師 リアンノン
たったそれだけ。
でも、それだけで十分だった。
「これから王城で整備登録するものは、正式な整備者名を残す」
ドルハが言う。
「祭具でも、管理具でも、工房修復でも。無記名は認めない」
「……だから、私の印」
「ああ。お前の仕事に、お前の名を残すためのものだ」
リアンノンはそっと印を持ち上げた。
銀はまだ新しい。
重さは小さいのに、胸の奥へ落ちてくるものはひどく大きい。
「こんなの、ずるいです」
「またそれか」
「だって、欲しいものを先に渡すんですから」
「違うな」
ドルハは静かに首を振る。
「お前のものを、お前に返しているだけだ」
その言葉に、不意打ちみたいに喉が熱くなった。
泣くほどではない。
でも、今ここで余計な一言を言ったら、たぶん声が少し変になる。
だからリアンノンは誤魔化すように、印を箱へ戻し、蓋を閉じた。
「……大事に使います」
「そうしろ」
少しの沈黙が落ちる。
窓の向こうでは、温室の硝子に夜の灯りが淡く映っていた。
穏やかな静けさだ。
祭具の暴走も、虚偽の返還要求も、白い聖堂の冷たさも、この部屋には入ってこない。
「王」
「何だ」
「最初に会った時のこと、覚えてますか」
「血の契約を断られた」
「そこだけ妙にはっきりしてますね」
「印象的だったからな」
「私は、あの時あなたのことを、すごく面倒な雇用主だと思っていました」
「今は違うのか」
「今も面倒です」
「ひどいな」
「でも」
リアンノンは顔を上げる。
「面倒でも、条件を聞いてくれる人なんだとは思っています」
ドルハの瞳が、静かに細められた。
「進歩だな」
「誰のです」
「お互いの」
反論しようとして、やめた。
たしかにそうだと思ったからだ。
食事が終わり、卓上の灯りが少しだけ落とされる。
給仕が下がり、部屋には二人だけが残った。
ドルハが懐から一枚の紙を取り出したのは、その時だった。
「……何です、それ」
「次回申請書」
「もうですか」
「食後に一件まで、と備考にあった」
「本当に出すとは思いませんでした」
紙を受け取る。
件名:散策同行願い
申請者:レクイエム王ドルハ
希望日時:次の休日前夜
場所:西庭回廊
目的:就業時間外の私的交渉
今度は、余計な一文がない。
「学びましたね」
「学習した」
「……優秀です」
「褒め言葉として受け取る」
くやしいが、今回は突き返す理由が思いつかなかった。
リアンノンは紙を机に置き、指先で端を整える。
承認するにしても、少し考えるふりくらいは必要だ。
「返答は?」
ドルハが問う。
「審査中です」
「厳しいな」
「王相手なので」
「特命技師殿は手強い」
「知っているでしょう」
「ああ。最初からな」
その言い方は、少しだけ反則だった。
リアンノンは視線を逸らし、窓の外を見る。
西庭の灯りが遠く揺れている。
散策にはちょうどよさそうだ、などと思ってしまったことは秘密にしておきたい。
「……保留です」
やっとのことでそう言うと、
「前向きな保留だと解釈していいか」
と返ってきた。
「解釈は自由です」
「なら前向きに解釈する」
「都合がいい」
「お前に関しては、そうでなければやっていけん」
その返しに、とうとう笑ってしまう。
ドルハも、今度は隠さずに笑った。
最初に見た時は、夜そのものみたいに冷たい王だった。
怖くて、容赦がなくて、囲われたら終わりだと思っていた。
でも今は違う。
まだ怖い。
相変わらず容赦もない。
きっと囲おうと思えばできてしまう人だ。
そのうえで、選ばせる。
条件を出させる。
名前を返す。
そして、申請書ひとつにも律儀に従う。
そんな王は、少しずるくて、かなり面倒で――悪くない。
リアンノンは机の上の二枚の紙を見た。
夕食の申請書と、散策の申請書。
どちらにも血は要らない。
代わりに、名前と、条件と、本人の意思がある。
それで十分だと思えた。
「王」
「何だ」
「その申請書、すぐには返しません」
「ああ」
「よく考えてから、お返事します」
「ああ」
ドルハの返事は短かった。
なのに、そのたった一言で、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。
リアンノンは箱の中の刻印具へ、もう一度指先で触れた。
王城特命技師、リアンノン。
壊れたものを直す手に、ようやくきちんと名前がついた。
その名前で働き、その名前で選び、その名前のまま誰かと並ぶ。
血で縛られなくても、関係は結べる。
むしろ、その方がずっと強いのだと、今なら分かる。
夜の王の小さな申請書は、まだ机の上にある。
返答はこれから。
契約もこれから。
修復だって、まだ終わらない。
けれど、それでいい。
直しながら進めばいいのだ。
壊れた道具も、壊れた制度も、そしてたぶん――この暖かで、まだよくわからない感情も。
西塔の夜は、今夜も静かだった。
その静けさの中で、名前の刻まれた新しい関係が、ゆっくりと、たしかに育ち始めていた。
第一話はここでおしまいです。
第二話はなに書こうかなー。
リアンノン、レクイエム各地に出張編?




