お仕事を始めましょう
◇
「さて」
リアンノンは袖をまくった。
神官長も監理官も、まだ半ば呆然としている。
書記官に至っては、王が聖堂の中央に立っている事実へ頭が追いついていない顔だった。
「修理を始めます」
その一言で、全員の意識がようやくこちらへ戻る。
「い、今から、ですか? この状況で?」
書記官が裏返った声を出す。
「壊れているので。直したいです」
「…………は、はい」
監理官が、ぐっと奥歯を噛む。
だが、もう先ほどのような高圧は消えていた。
「何が要る?」
「まず、人を繋ぐ接続口を全部閉じます」
リアンノンは即答した。
「次に、換装済みの新品は外します。使いかけの現物も全部持ってきてください。図面は最新と旧式の両方。あと、接続時に使っていた椅子か台があるならそれも」
「椅子まで?」
「座らされていた人の魔力の残滓があると、出力調整の参考にできます。どれくらいの余剰魔力を注ぎ込まれていたのか計算できるので」
神官長が目を閉じ、低く命じる。
「持ってきなさい」
「しかし神官長――」
「持ってきなさい」
監理官が歯噛みしながらも、部下へ合図を飛ばす。
白い法衣が慌ただしく散っていく。
リアンノンはすでに祭壇の根元へ膝をついていた。
工具箱を開く。
使い慣れた道具が、白い石床の上へ整然と並ぶ。
「王」
「何だ」
「その影、三十秒だけ右の導光路へ。魔力を抑え込んでほしいです」
「三十秒でいいのか」
「足りなければ延長します」
「言い方が職場だな」
「職場ですから。出張中なだけです」
ドルハの口元が、わずかに動く。
次いで、黒い影が祭壇の側面へ滑り込み、暴れていた流れをぴたりと押さえた。
リアンノンは迷わず工具を差し入れる。
詳細な手順を口に出す必要はない。
ここから先は、指が覚えている領域だ。
新品は悪くない。
悪いのは、噛み合わなくなった現物を無視して、上から正しさだけを押し込んだこと。
なら、やるべきことは決まっている。
設計図の正しさへ戻すのではない。
現物が今どこに立っているかを見極め、壊れない位置へ戻す。
持ち込まれた旧部品を並べる。
焦げた受け口。削れた芯。歪んだ留め具。
どれも見覚えのある顔だった。
「……本当に、ここへ来ていたんですね」
地下工房で直したものたちが、天井近くの光輪を支えている。
リアンノンは呼吸を整え、作業へ沈む。
あとは早かった。
椅子の魔力の痕跡から暴走する魔力量を割り出し、不要な緩衝導線を切る。
人へ流すよう組まれていた魔力経路を閉じ、中枢内部へ戻すための補助回路をつなぎ直す。
新品の規格を押し込むのではなく、長年の修復で変質した祭具全体の“いまの癖”に合わせて、流れを整える。
途中、神官長が震える声で問うた。
「大祭儀は……可能でしょうか」
「可能にします」
リアンノンは手を止めない。
「ただし、条件があります。今後、人間を繋がないこと。それから今回の修復は応急です。今後全面改修が必要でしょう」
「……はい」
「あと、記録を全部残してください。名義も。もう無記名修理はだめです。職人の名前を残さないと、責任の所在も、修理の癖も、何もかもが散逸します」
「承知しました」
それは、先ほどまでの教団とは思えないほど素直な返答だった。
ディアストラは補助員としてよく働いた。
重い接続環を運び、不要な拘束帯をまとめ、焦げた台を引きずり出す。
グレイルを押さえ込んだままでも、時折こちらの指示へ低く返事をよこす。
「リアンノン、これでいいか」
「そこへ。あと指二本分、左へ」
「了解」
「ディアストラ、そのまま押さえて」
「任せろ」
そしてドルハは、言われた通りに影を入れ、言われた通りに流れを支えた。
王であり、夜の支配者であり、圧倒的な超越種であるくせに、こういう時だけ不思議なくらい従順だ。
なぜかリアンノンの指示には喜んで従ってくれる、変な王だ。
「王、もう十秒追加で」
「増えたな」
「状況が変わりました」
「そうか」
「不満ですか?」
「いや。お前が落ち着いて作業できるなら、それでいい」
その一言が、妙に胸へ残る。
顔を上げる余裕はない。
それでも、唇の端がほんの少しだけ動いたのを、自分で感じた。
気づけば、聖堂の外はだいぶ色を変えていた。
白い朝が高くなり、導光管へ落ちる光の質も少し変わっている。
最後の留め具を締め、中継輪をそっと戻す。
祭壇の根元を走っていた嫌な震えが、すっと静まった。
ひと呼吸。
もうひと呼吸。
回転していた光輪が一度だけ深く鳴り、それから、今度は無理のない速度でゆるやかに巡り始める。
暴れていない。
押し潰してもいない。
ただ、正しく流れている。
「……ふぅ」
リアンノンは工具を置いた。
「応急修復、完了です」
誰も、すぐには声を出せなかった。
神官長が祭壇を見上げる。
監理官も、書記官も、まるで初めてそれを見るような顔をしていた。
人へ流すために開いていた接続口は、すべて閉じられている。
なのに、祭具は落ちない。
むしろ、先ほどまでよりずっと静かだった。
「もう、人を……繋がなくても――」
書記官が呟く。
「当たり前です」
リアンノンは立ち上がる。
「祭具は人を食べるための装置ではありません」
神官長が、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼は作業完了の後で結構です」
「は?」
監理官が間の抜けた声を出す。
リアンノンは真顔のまま続けた。
「今回の作業は現地緊急整備です。報酬、記名、今後の整備契約、全面改修の協議、すべて書面で詰めます。あと、グレイルに関する照会記録も開示していただきます。必要ですよね、我が王?」
「この状況で、まずそれを言うのか」
「この状況だからです。後回しにすると曖昧にされるので」
ディアストラが拘束したグレイルの上から、低く笑う。
「さすが」
「感心していないで、そこ押さえていてください。仮止めなので」
「分かった」
ドルハが近づいてくる。
白い聖堂の中で、彼の黒は相変わらずひどく異質だ。
なのに今は、その異物感が妙に心地いい。
「終わったな」
「ひとまずは」
リアンノンは答える。
「本格改修は別件です。ですが大祭儀には間に合います」
「そうか」
その短い相槌のあと、ドルハはほんのわずかに目を細めた。
「よくやった、修復師」
「当然です」
即答してから、リアンノンは少しだけ息を吐く。
「でも、来てくれて助かりました」
「知っている」
「……自覚があるんですね」
「お前が呼んだんだ。応えるのは当然だろう」
それが当たり前のように言われると、返す言葉に困る。
神官長も監理官も、もう口を挟まない。
夜の王が白い聖堂の中央へ立ち、銀髪の修復師がその隣で平然と会話している光景を、ただ呆然と見ている。
リアンノンはふと、天井近くを巡る光輪を見上げた。
白い。
清潔で、眩しくて、冷たい。
けれど、もう息は詰まらない。
昔の自分に戻るのではないかと思っていた。
ここへ来れば、また名のない仕事へ引きずり戻されるのではないかと。
違った。
白い街に立っていても、リアンノンはもう昔のリアンノンではない。
名がある。
契約がある。
報酬がある。
そして何より、帰る場所がある。
「王」
「何だ」
「全部終わったら、帰りましょう」
「ああ」
ドルハは、ひどくあっさりと頷いた。
「特別報酬と特別休暇を用意しておこう、リアンノン」
その一言だけで、胸の奥に残っていた最後の冷たさまで、静かにほどけていった。




