表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/33

前金まで出ました

「残業代」


 今度こそ、はっきりと誰かが吹き出した。

 すぐさま凍りつく気配がしたので、王の前で失笑した者がいたのだろう。


 リアンノンは気にせず続ける。


「依頼内容次第では夜通しの作業も発生します。修復精度を維持するには休息も必要ですから、長時間労働には別途対価が要ります」


「ここは夜の国だぞ」


「承知しています。ですので、通常勤務時間の定義はそちらの生活時間に合わせて構いません」


 淡々と返すと、ドルハはとうとう声を上げて笑った。

 謁見の間の高い天井に、王の笑い声が反響する。


 誰もが目を見開いていた。

 この王が、これほど明快に愉快そうな笑いを見せるのを、初めて見たのかもしれない。


「いいだろう、修復師。月給も工房も、望むものはくれてやる」


「ありがとうございます」


「ただし、こちらにも条件がある」


 リアンノンはまっすぐにドルハを見返した。


「伺います」


「逃げだすな」


 不意に、笑いの熱を引いた声でドルハが言った。

 赤い瞳が細められる。冗談とも本気ともつかない、ひどく静かな言い方だった。


「この城にいる限り、お前には最高の環境を与える。欲しいものも、仕事も、報酬もだ。だから、つまらなくなったからといって黙って消えるな」


 リアンノンは一拍だけ考えた。

 そして、きわめて事務的に答える。


「契約解除の際は事前通達を義務とする、という条項であれば問題ありません」


 一瞬の間。


 次いでまた、笑い声が零れた。

 今度のそれは先ほどよりも低く、どこか満足げだった。


「本当にお前は……どこまでも契約書の女だな」


「口約束は信用しません」


「賢明だ」


 ドルハは振り返り、控えていた側近のひとりを指先で招いた。


 現れたのは、薄い笑みを浮かべた長身の男だった。

 王ほどの威圧感はないが、視線の奥に油断ならない光がある。衣装は端正で、いかにも事務処理に長けていそうな雰囲気だった。


「ヴラン」


「はい、陛下」


「この人間の契約書を整えろ。望みどおりの待遇でな」


 ヴランと呼ばれた男は、リアンノンを見て、それから王を見た。

 その笑みがほんの少し深くなる。


「かしこまりました。しかし、陛下の興が乗ったときには、たいてい周囲の胃に悪いことになるのですが」


「黙れ」


「失礼しました」


 軽口を叩きながらも、ヴランは一礼すると手帳を取り出した。

 慣れた手つきで羽根ペンを走らせる。


「では、リアンノン嬢。月給、工房、工具支給、資料室の閲覧権、破損品保管権限、残業代。ほかに希望は?」


「前金を一部」


「前金?」


「初期の消耗品補充に必要です」


 ヴランが目を丸くし、次の瞬間には肩を震わせた。

 笑っているのだろう。だが、馬鹿にした気配はなかった。


「……承知しました。抜け目がない」


 リアンノンは少しだけ眉を寄せる。


「必要な経費ですから」


「気に入った」


 そう言ったのはヴランではなく、ドルハだった。


 王は再び玉座へ戻りながら、どこか機嫌よく命じる。


「工房は西塔の二階を空けろ。あそこなら静かだ。資料室の鍵も渡せ。必要なら城の保管庫も開ける」


「かしこまりました」


「それと」


 ドルハは赤い瞳をリアンノンに向けた。


「血の契約は結ばない。お前の望み通り、ただの雇用だ」


 わざわざ言葉にされたことに、リアンノンはほんの少し意外を覚えた。

 この王なら、気まぐれに条件を変えても誰も逆らえないだろうに。


 だが彼は、たしかに今、彼女の望みを尊重した。


 それが打算なのか、気まぐれなのか、あるいは別の何かなのかは分からない。

 それでも、契約に関して明確なのは好ましい。


「助かります」


「ただし」


 ドルハが言葉を継ぐ。


「俺が仕事を依頼したときは最優先だ」


「内容次第です」


 即答すると、ヴランがとうとう堪えきれずに顔を背けた。

 肩が震えているので、やはり笑っているらしい。


 対するドルハは、一瞬だけ目を細め、それから楽しそうに言った。


「それでいい。内容を聞いてから判断しろ」


「承知しました」


 それで話はまとまった。


 あまりにもあっさりと。

 血の杯を飲まされるか、檻に入れられるかと思っていたのに、気づけば労働条件の交渉を終えていた。


 ヴランが整えた仮契約書に目を通し、リアンノンは不足している条項を二つほど追記させる。

 業務外での身体拘束の禁止と、工房への無断立ち入りの制限。

 それを見たヴランが「徹底してるなあ」と感心したように笑い、ドルハが「構わん」と即答した。


 最後に、前金として渡された革袋の重みに、リアンノンの指がぴたりと止まる。


 中には銀貨が入っていた。

 数はまだ確認していない。だが、重さだけで分かる。決して少なくない。


 働く前に支払われる金。

 しかも、誰にも横から奪われない金。


「足りないか」


 玉座の上から問われ、リアンノンははっと顔を上げた。


「……いえ」


 否定しながらも、声がわずかに掠れてしまう。

 すぐに言い直す。


「十分です」


 十分、というより、過分だった。

 報酬は褒め言葉ではない。撫でる手でもない。都合のいい家族ごっこでもない。

 秤に乗せられ、数えられ、渡される。そういう形のある対価だ。


 その当然のことに、胸の奥が妙にざわついた。


「では、案内しますよ。新しい職場へ」


 ヴランが恭しく手を差し出す。

 からかうような口調のわりに、所作は丁寧だった。


 リアンノンは革袋をしまい、工具箱を抱え直す。

 それから玉座の王へ向き直り、一礼こそしなかったが、はっきりと言った。


「契約成立、感謝します」


 ドルハは頬杖をつき、どこか満ち足りたようにこちらを見下ろした。


「ああ。せいぜい俺を退屈させるな、リアンノン」


「努力はします。ただし、追加業務が発生した場合は別料金です」


 数拍の沈黙のあと、謁見の間にまた笑いが落ちた。

 今度は王だけでなく、ヴランまで堪えきれなかったらしい。


 そうしてリアンノンは、吸血鬼の王城の回廊を歩き出す。


 黒い石床はよく磨かれ、窓の外には青白い月がかかっている。

 静かで、冷たくて、見知らぬ場所だった。

 それなのに、不思議と息がしやすい。


 少なくともここでは、「愛している」の一言で無償労働を押しつけられはしない。


 地下工房を出たときよりも、ずっとはっきりと思う。


 ――案外、悪くないかもしれない。


 その背を、玉座の上から赤い瞳がじっと見送っていたことに、彼女はまだ気づいていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ