前金まで出ました
「残業代」
今度こそ、はっきりと誰かが吹き出した。
すぐさま凍りつく気配がしたので、王の前で失笑した者がいたのだろう。
リアンノンは気にせず続ける。
「依頼内容次第では夜通しの作業も発生します。修復精度を維持するには休息も必要ですから、長時間労働には別途対価が要ります」
「ここは夜の国だぞ」
「承知しています。ですので、通常勤務時間の定義はそちらの生活時間に合わせて構いません」
淡々と返すと、ドルハはとうとう声を上げて笑った。
謁見の間の高い天井に、王の笑い声が反響する。
誰もが目を見開いていた。
この王が、これほど明快に愉快そうな笑いを見せるのを、初めて見たのかもしれない。
「いいだろう、修復師。月給も工房も、望むものはくれてやる」
「ありがとうございます」
「ただし、こちらにも条件がある」
リアンノンはまっすぐにドルハを見返した。
「伺います」
「逃げだすな」
不意に、笑いの熱を引いた声でドルハが言った。
赤い瞳が細められる。冗談とも本気ともつかない、ひどく静かな言い方だった。
「この城にいる限り、お前には最高の環境を与える。欲しいものも、仕事も、報酬もだ。だから、つまらなくなったからといって黙って消えるな」
リアンノンは一拍だけ考えた。
そして、きわめて事務的に答える。
「契約解除の際は事前通達を義務とする、という条項であれば問題ありません」
一瞬の間。
次いでまた、笑い声が零れた。
今度のそれは先ほどよりも低く、どこか満足げだった。
「本当にお前は……どこまでも契約書の女だな」
「口約束は信用しません」
「賢明だ」
ドルハは振り返り、控えていた側近のひとりを指先で招いた。
現れたのは、薄い笑みを浮かべた長身の男だった。
王ほどの威圧感はないが、視線の奥に油断ならない光がある。衣装は端正で、いかにも事務処理に長けていそうな雰囲気だった。
「ヴラン」
「はい、陛下」
「この人間の契約書を整えろ。望みどおりの待遇でな」
ヴランと呼ばれた男は、リアンノンを見て、それから王を見た。
その笑みがほんの少し深くなる。
「かしこまりました。しかし、陛下の興が乗ったときには、たいてい周囲の胃に悪いことになるのですが」
「黙れ」
「失礼しました」
軽口を叩きながらも、ヴランは一礼すると手帳を取り出した。
慣れた手つきで羽根ペンを走らせる。
「では、リアンノン嬢。月給、工房、工具支給、資料室の閲覧権、破損品保管権限、残業代。ほかに希望は?」
「前金を一部」
「前金?」
「初期の消耗品補充に必要です」
ヴランが目を丸くし、次の瞬間には肩を震わせた。
笑っているのだろう。だが、馬鹿にした気配はなかった。
「……承知しました。抜け目がない」
リアンノンは少しだけ眉を寄せる。
「必要な経費ですから」
「気に入った」
そう言ったのはヴランではなく、ドルハだった。
王は再び玉座へ戻りながら、どこか機嫌よく命じる。
「工房は西塔の二階を空けろ。あそこなら静かだ。資料室の鍵も渡せ。必要なら城の保管庫も開ける」
「かしこまりました」
「それと」
ドルハは赤い瞳をリアンノンに向けた。
「血の契約は結ばない。お前の望み通り、ただの雇用だ」
わざわざ言葉にされたことに、リアンノンはほんの少し意外を覚えた。
この王なら、気まぐれに条件を変えても誰も逆らえないだろうに。
だが彼は、たしかに今、彼女の望みを尊重した。
それが打算なのか、気まぐれなのか、あるいは別の何かなのかは分からない。
それでも、契約に関して明確なのは好ましい。
「助かります」
「ただし」
ドルハが言葉を継ぐ。
「俺が仕事を依頼したときは最優先だ」
「内容次第です」
即答すると、ヴランがとうとう堪えきれずに顔を背けた。
肩が震えているので、やはり笑っているらしい。
対するドルハは、一瞬だけ目を細め、それから楽しそうに言った。
「それでいい。内容を聞いてから判断しろ」
「承知しました」
それで話はまとまった。
あまりにもあっさりと。
血の杯を飲まされるか、檻に入れられるかと思っていたのに、気づけば労働条件の交渉を終えていた。
ヴランが整えた仮契約書に目を通し、リアンノンは不足している条項を二つほど追記させる。
業務外での身体拘束の禁止と、工房への無断立ち入りの制限。
それを見たヴランが「徹底してるなあ」と感心したように笑い、ドルハが「構わん」と即答した。
最後に、前金として渡された革袋の重みに、リアンノンの指がぴたりと止まる。
中には銀貨が入っていた。
数はまだ確認していない。だが、重さだけで分かる。決して少なくない。
働く前に支払われる金。
しかも、誰にも横から奪われない金。
「足りないか」
玉座の上から問われ、リアンノンははっと顔を上げた。
「……いえ」
否定しながらも、声がわずかに掠れてしまう。
すぐに言い直す。
「十分です」
十分、というより、過分だった。
報酬は褒め言葉ではない。撫でる手でもない。都合のいい家族ごっこでもない。
秤に乗せられ、数えられ、渡される。そういう形のある対価だ。
その当然のことに、胸の奥が妙にざわついた。
「では、案内しますよ。新しい職場へ」
ヴランが恭しく手を差し出す。
からかうような口調のわりに、所作は丁寧だった。
リアンノンは革袋をしまい、工具箱を抱え直す。
それから玉座の王へ向き直り、一礼こそしなかったが、はっきりと言った。
「契約成立、感謝します」
ドルハは頬杖をつき、どこか満ち足りたようにこちらを見下ろした。
「ああ。せいぜい俺を退屈させるな、リアンノン」
「努力はします。ただし、追加業務が発生した場合は別料金です」
数拍の沈黙のあと、謁見の間にまた笑いが落ちた。
今度は王だけでなく、ヴランまで堪えきれなかったらしい。
そうしてリアンノンは、吸血鬼の王城の回廊を歩き出す。
黒い石床はよく磨かれ、窓の外には青白い月がかかっている。
静かで、冷たくて、見知らぬ場所だった。
それなのに、不思議と息がしやすい。
少なくともここでは、「愛している」の一言で無償労働を押しつけられはしない。
地下工房を出たときよりも、ずっとはっきりと思う。
――案外、悪くないかもしれない。
その背を、玉座の上から赤い瞳がじっと見送っていたことに、彼女はまだ気づいていなかった。




