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出立と、王の不在

    ◇


 翌朝、東門前にはまだ薄い霧が残っていた。


 人間界へ向かうための馬車は、王城の紋を隠した簡素なものだ。

 護衛は最小限。表向きは技師の出張であって、王の使節ではない。


 ヴランが最後の書類束を手渡してくる。


「委嘱状、境界通行文、先方の受け入れ返書、形骸化したものではあるけど、王の名で保護証も同封した。あと、現地で使えるように最低限の照会写しも入れてあるよ」

「ありがとうございます」

「感謝されるのは悪くないけど、できれば生きて帰ってきた後に改めてどうぞ」

「縁起でもないですね」

「縁起より実務だよ。きみには無事で戻ってきてほしい」


 そう言いながらも、ヴランの目は真面目だった。


「グレイルの旧帳簿は、こっちであばく。そっちは現物を頼んだよ」

「分担、ですね」

「うん。王が城に残るのも、そのためだからね」


 ディアストラはすでに馬車の脇に立っていた。

 補助員用の軽装に、工具帯。表情は相変わらず硬いが、どこか落ち着いている。


「何か気づいたら、言う。拘束具臭い流れも、変な装着具も、賊の臭いもたぶん分かる」

「頼りにしています」

「リアンノンのためだから」


 リアンノンは思わず少しだけ笑った。


 その時、石段の上から足音がした。


 見上げるまでもなく分かる。

 ドルハだ。


 今日の彼は王の正装ではなく、濃い色の外套だけを羽織っていた。

 見送りに来る、と昨夜言った通り、本当にそれだけの格好で立っている。


「そろそろ出るか」

「はい」

「書類は?」

「全部受け取りました」

「他に忘れたものはないか?」

「万全です」

「よし」


 それだけの確認なのに、不思議と落ち着く。


 リアンノンは馬車へ乗り込む前に、一度だけ彼を見た。


「王」

「何だ?」

「行ってきます」

「ああ。お前の技術を見せつけてこい」

「はい、ついでにレクイエムの威光も見せつけてきます」

「土産話も楽しみにしている」

「旅行記も付けますね」


 そう返すと、彼の赤い瞳がわずかに細められた。

 それが笑みだったのかどうか、確かめる前に、リアンノンは馬車へ足を掛けた。


 扉が閉まる。

 車輪がゆっくりと回り出す。


 窓越しに見える王城は、少しずつ遠ざかっていく。

 夜の国の黒い塔。冷たい石壁。怖いほど整った秩序。


 なのに今は、そのどれもが“戻る場所”に見えた。


 リアンノンは膝の上に置いた書類束の上へ、黒銀の境界印をそっと重ねる。


 人間界で待っているのは、白く清廉な顔をした、もっと質の悪い歪みだろう。

 教団。祭具。無記名で無報酬の労働。

 壊れたものは、たぶんまだ山ほどある。

 魔道具だけじゃない。

 知恵のある生き物が集団になると、あらゆる制度が壊れていくのだ。


 けれど今度は違う。


 売られた娘としてではない。

 攫われた被害者としてでもない。


 王城特命技師リアンノンとして、自分の名で壊れた場所へ踏み込んでいくのだ。


 馬車は東門を抜け、朝靄の向こうへ進んでいく。


 夜の王は来ない。

 そう決まっている。


 それでも、掌の中の黒銀だけは、いつでもこちらを見失わないと言うかのように、静かな重みを残していた。


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