問)このとき私は、王に何と言ってほしかったのか?
◇
西塔の工房へ戻ると、静けさが妙に耳に残った。
さっきまで証言と条文と視線に囲まれていたせいか、工具の並ぶ机と、窓の向こうの夜と、いつもの匂いがひどく遠く感じる。
リアンノンは作業台の脇へ腰を下ろし、ようやく深く息を吐いた。
人間界へ行く。
しかも、今度は“売られた娘”ではなく、“王城特命技師”として。
望んだはずの形だ。
なのに、胸の奥にうっすら残る硬いものを、自分ではうまく言葉にできなかった。
扉が二度、軽く叩かれる。
「入るぞ」
ドルハだった。
外套は脱いでいるが、まだ執務の延長線上の顔をしている。
片手には薄い銀板と書類の束。もう片方には、小さな黒銀の箱。
「まだ起きていたんですね」
「王は忙しいものだ」
彼は作業台の上へ書類を置いた。
「委嘱状、通行文、資料閲覧権、補助員手当、危険手当――要求された分は全部入れてある」
「……本当に仕事が早い」
「褒め言葉として受け取っておく。実際に動いたのはヴランだがな」
リアンノンは書類を一枚ずつめくった。
王城特命技師リアンノンの名で発行された正式文書。
境界通行許可。
人間界側祭具監理院への照会状。
どれも、彼女の仕事に彼女の名が付いている。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
最後に、ドルハが黒銀の小箱を開いた。
中に収まっていたのは、鍵にも印章にも見える、小さな黒銀の具だ。
持ち手にはレクイエム王家の紋、裏面には簡素な封印文字。
「これは?」
「境界印だ」
「境界印?」
「人間界側の封印庫と、こちらの緊急封札の一部を開ける。委嘱状だけでは足りない場面がある」
「……ずいぶん強いものを持たせますね」
「必要だからだ」
リアンノンはそれを手に取った。
冷たい。だがただの金属ではない。内側に、じっと潜んだ魔力がある。
「もし現地で、お前の権限を――その生きる権利まで含めて、何らかの権限を少しでも奪おうとする者がいたら、それを使え」
「どう使うんですか」
「封印へ押し当てろ」
短い説明だった。
だが、それだけではないと分かる。
この王が、ただ“便利な鍵”だけを寄越すはずがない。
「……他には?」
「必要な時に分かる」
いかにも怪しい答えに、リアンノンは眉を寄せる。
「はぐらかさないでください」
「はぐらかしてはいない。全部言うと、お前は余計なことまで計算に入れる」
「計算に入れて何が悪いんです」
「悪くない。だが今回は、手元の仕事だけ見ろ。大仕事の前に、例外要素まで考えさせたくはない」
そう言われると、何となくそれ以上問い詰めにくい。
ずるい。
リアンノンは境界印を掌の中で転がし、やがて小さく言った。
「……本当に来ないんですね」
「行けば話がこじれる」
「分かっています」
「俺が聖都の祭具区画へ入った時点で、連中は祭具の不具合ではなく“夜の王の侵入”を騒ぎ立てる。今は互いを存在しないかのように扱っているが、人間と吸血鬼は、殺し合いをした仲だ」
「それも分かっています」
「それなら」
ドルハはそこで言葉を切り、リアンノンを見た。
「何が引っかかっている」
真っ直ぐな視線。
余計な慰めも、偽りの優しさもない問い方。
ただ、心配してくれている。
リアンノンは少しだけ視線を落とす。
「……別に」
「リアンノンは嘘が下手。だいぶ分かってきたぞ」
「茶化さないでください」
「ならば、どうしてほしい?」
王にしてほしいこと。
ドルハに、してほしいこと。
そう考えると、なぜか胸の奥が混乱した。
なんだこれ。
リアンノンはふるふると首を横に振る。
「では、相談にのってください」
小さく息を吐いてから、リアンノンは正直に言った。
「理屈では分かってます。あなたが同行しない方がいい。私も、その方が現地でやりやすい」
「ああ」
言ってしまってから、少しだけ後悔した。
けれどもう遅い。
「人間界に戻るのは、あまり気分のいいことではありません」
ドルハは何も言わなかった。
ただ、続きを待っている。
「向こうに、戻りたくはありません。王に無理を言って、ついてきてほしいわけでもありません。ただ……」
言葉を探す。
「昔の自分に引き戻されそうな感じがするんです。向こうに行ったら、また昔みたいになってしまうのではないかって」
工房に静けさが落ちる。
やがてドルハが、ごく低い声で、言った。
「行くなとは言わん。止めても、お前は行く。不安に思っていても、片をつけたいと望んでいるはずだ」
「はい」
「だが、帰ってこい。何があっても帰ってこい」
リアンノンは顔を上げた。
相談への答えには不適格かもしれない。
それでも、自分の存在が望まれているということが、どれだけ嬉しいことなのか、リアンノンは強く理解した。
「命令ですか?」
「願望だ」
短く返ってきたその言葉が、思っていた以上に深く落ちる。
「……勝手ですよね、我が王」
「王は大抵そうだ」
「開き直りましたね、他国の王に聞かせてあげたいです」
「命令の方が良かったか?」
「業務命令であれば」
「お前に戻ってきてほしいのは、業務だけが原因ではない。業務命令で戻ってこいとは、言いたくない」
彼は作業台の上の境界印を指で軽く叩いた。
「これを、忘れるなよ」
「ええ。そんなに何度も言われなくても」
「いざという時は、壊してもいい」
「壊しても機能するのですか?」
「……お前に特権を与える道具だ。とにかく、どうにかして使え」
「で、何が起きるんです?」
「俺が教えたことだけ覚えておけば、いざという時に、お前を守ってくれる。それだけを忘れずにいてくれればいい」
それだけ言って、ドルハは口を閉じた。
リアンノンはじっと彼を見る。
問い返そうとして、やめた。
言い過ぎないのもこの人らしいし、たぶん本当に、今はそこまでで十分なのだろう。
「……分かりました」
「分かっていない顔だな」
「半分くらいは」
「半分わかっていれば上出来だ」
数瞬の沈黙のあと、リアンノンは境界印を握り直した。
「戻ったら、報告書は正式書式で出します」
「ああ」
「旅行記もいりますか?」
「お前の手書きなら、寄越せ」
「なんですかその条件」
「興味があるだけだ」
「リアンノン」
「はい」
「お前が向こうで何を見るにせよ、それはもう“名のない仕事”じゃない」
「…………」
「忘れるな。レクイエムの王が、お前の仕事は歴史に名を残す域にあると保証する」
工房を出る直前、ドルハは一度だけ振り返る。
「夜明けに馬車を出す。見送りには行く」
「見送り……ありがとうございます」
「いつか、旅をしよう。そのときには、俺もついていく」
「気長に待っています」
「存外、近い内に行けるかもしれんぞ」
それだけ言って、彼は出ていった。
扉が閉まる。
あとに残った静けさの中で、リアンノンは手の中の黒銀の境界印を見つめた。
冷たいはずなのに、妙に熱を持っているように感じる。
王は来ない。そう決まった。
それでも、この小さな黒銀の具ひとつで、完全にひとりだとは思えなくなるのだから、たぶん自分もだいぶ毒されている。
あの王のことを、上司でも、知り合いでも、友人でもない分類に入れようとして、どこに入れるべきなのかを悩むリアンノンの姿が、そこにはあった。




