誓約の間にて その1
◇
教団の使節が城門をくぐったのは、その翌日の夕暮れ時だった。
彼らが通されたのは、謁見のための大広間ではない。
誓約の間――証言と契約と証拠を並べるための部屋だ。
黒銀の床は磨き上げられ、中央には長机が三列、等間隔に置かれている。
一つ目には教団からの返還要求書と商会の請求書。
二つ目にはヴランが回収してきた換装失敗品と帳簿。
三つ目にはレクイエム側の雇用契約書、給与記録、入城記録が並べられていた。
ドルハは玉座ではなく、誓約盤の前に立っている。
王として裁くためではなく、この場をひとつの契約の場として支配するための立ち位置だった。
リアンノンはその少し後ろ、証拠机の脇に立つ。
客人としてではない。
王城側の技師として。
扉が開く。
最初に入ってきたのは、白金の縁取りを施した法衣の男だった。
年齢は五十前後か。整えられた灰色の髭、柔らかい笑み、よく通る声音。いかにも“善良な高位聖職者”に見える顔だ。
その後ろに、見覚えのある男女が続いた。
養父。
養母。
久しぶりに見た二人は、以前よりよほど上等な服を着ていた。
けれど目元や指先には、借金で追い詰められた者特有の落ち着かなさが残っている。
そして最後に運び込まれたのは、小ぶりとはいえ明らかに中身の詰まった金箱だった。
リアンノンは、それを見てようやく納得した。
意図があからさま過ぎる。
白法衣の男が一礼する。
「夜明光教団聖具監理院より参りました。監理代行司祭にございます。このたびは我らの保護下にあった技術工の件につき、寛大なお取り計らいを賜りたく――」
「前置きはいい」
ドルハが切った。
静かな一声だったのに、空気が止まる。
「は、いや、今、なんと……」
「ここは懺悔室でも演壇でもない。用件だけ述べろ」
司祭は一瞬だけ表情を固めたが、すぐに穏やかな笑みに戻った。
表向きの礼節が外交のプロトコルとして重要になるのは、人間社会に限ってのことだ。
夜の支配者たちにとってのプロトコルとは「契約」に他ならない。
交流のある社会同士であればそういった事項を共有し、互いに少しずつ我慢することで良好な関係を築くものだが、人間と吸血鬼の間に、そも、国交というものは存在しないのだ。
ゆえに、建前を並べる外交と、率直に契約条件を提示しあう外交は、どうあがいても相容れないのである。
司祭もようやくそれを思い出したのだろう。
礼節を重んじないとは無礼な、と怒り出すかとリアンノンは考えていたのだが、さすがに高位の聖職者らしき男がそんな暴挙に出ることはなかった。
ここでは取引の前提となる契約条件を、正確に述べることが最も重要なプロトコルなのだと思い出したのだろう。
「失礼を。では率直に申し上げます。そこにいるリアンノンは、本来、我が監理院の祭具保守に従事すべき技術工です。保護者のもとから不当な形で切り離され、現在こちらに留め置かれている。よって、速やかな返還をお願いいたします」
「お願い、ですか」
ヴランが乾いた声で言った。
「では、その後ろの金箱は何です?」
「協力への謝意です」
「なるほど。ずいぶん重量のある謝意だ」
司祭は動じない。
「大祭儀を控え、我々にも時間がありません。必要な人材が速やかに戻るなら、相応の礼を尽くすのは当然でしょう」
「……人材」
リアンノンはその言い方を胸の内で反芻した。
娘でも、家族でも、信徒でもない。
まず出てきたのは、その言葉だった。
養母がここで一歩前に出る。
目尻に涙を滲ませた、いかにも悲劇の母親めいた顔だ。
「リア……よかった、無事だったのね」
「…………」
「ずっと心配していたのよ。あの日、急にいなくなって……私たち、教団にも駆け込んで――」
「売ったのはあなたでしょう」
リアンノンは言った。
大きな声ではなかった。
けれど誓約の間では、誰の耳にもはっきり届いた。
養母の顔が凍る。
「……何を」
「私の血を、借金の穴埋めに、売り払ったでしょう?」
「それは、誤解よ、リア」
「誤解ではありません。書面が残っています」
ヴランがすぐさま一枚の書類を持ち上げた。
「商会側の借財整理記録。保護対象者の血液提供を担保に、前金を受領。署名と商会印付きだ」
「緊急の措置だったのです!」
今度は養父が叫んだ。
「家を守るためだった! お前を路頭に迷わせないために、仕方なく――」
「売っておいて、“さらわれた”ことにした」
リアンノンは最後まで聞かなかった。
「しかも教団は、その事情を知った上でそう主張している」
司祭が初めて、ほんのわずかに声を低くした。
「保護者が困窮のあまり不適切な処置を取ったことは、我々としても遺憾です。ですが、それと技術工本人の所属問題は別です」
ドルハが口を挟む。
「面白い理屈だな。売ったことは知っている。だが攫われたことにする、と」
「貴国との接触経路が異常だったことは事実でしょう」
「そうだな。人間を食料とする我らと、吸血鬼を怪物だと断定する貴教団の論理に照らし合わせれば、正常なルートではないことは認めよう」
ドルハの赤い瞳が、すっと細められる。
「だが、その売買の結果、俺はこの女と雇用契約を結んだ。事実として存在するのは、金銭によってリアンノンは売り払われた、俺はそれを買った上で、さらに雇用関係を結んだことだ」
ドルハの言葉に、ヴランが続ける。
「そちらはすでに、我が国の修復師が移籍するにあたっての移籍契約金を事実上受け取っています。その後、彼女は頭角を現し、自分の力で王から職人としての契約をもぎ取った。素晴らしいサクセスストーリーです。見る目の無さから、よい職人を逃しましたね」
わざとらしい「移籍」という言葉選びが、ヴランのいやらしいところだった。
司祭の背後で、養父の視線が一瞬だけ金箱へ落ちた。
リアンノンはそれを見逃さない。
ヴランが淡々と追い打ちをかける。
「返還要求書の別紙には、返還完了後の協力金支払い、借財相殺、追加整備契約の再締結に伴う再計算まで書かれている。いやはや、感動的な親子再会ですね」
「揶揄は慎んでいただきたい」
司祭の声に、かすかな苛立ちが混じった。
「我々が求めているのは、あくまで祭具運用に必要な人材の回復――」
「でしょうね」
ここが、リアンノンの出番だった。
「だから来たんでしょう? 私がいないと、祭具が動かないから」
間が落ちた。
司祭の目が、初めてまっすぐにリアンノンを捉える。
「……何を指して言っているのです」
「大祭儀用祭具の換装、失敗したのですよね」
リアンノンは二つ目の証拠机へ歩み寄った。
焦げた中継器、焼けた接続輪、分解された芯材。
昨夜ほどいた失敗品が、現物のまま並べられている。
「これは、そちらが焼却処分に回す前に、あるルートから持ち込まれた換装失敗品です。帳簿には“規格通りの新造部品へ交換後、再停止・逆流・同期不良”とある」
「不正に取得した物品に基づく主張は――」
「でも、動かないんですよね?」
リアンノンは、焦げた接続輪を持ち上げた。
「これは規格通りに作ってあります。寸法も流量も設計通り。新品としては正しい」
「…………」
「ですが、修理すべき祭具の方が、これらの新品を受け付けない」
リアンノンは机上の古い芯材を示した。
「これ、見覚えがあります。似た型を何度も直しました。欠けた芯、歪んだ輪、摩耗した接続爪。私はずっと、別々の壊れた道具だと思っていましたが」
「…………」
「だから、その都度いちばんよく動くように整えたんです。接触面を磨いて、噛み合わせを調整して、流れが滞らないよう角を落として、受け側に合わせてわずかにずらす。単体で動くものとして最適化した」
誓約の間にいる全員が、リアンノンの声を聞いていた。
「でも実際には違った。全部、大祭儀用祭具の構成部品だった」
彼女は新品の接続輪を古い芯材へ重ねる。
見た目には入る。だが、最後の半寸がどうしても噛み合わない。
「規格通りの新品を入れても、止まるのは当然です。中で受けている古い部品の方が、もう元の規格ではないから」
「勝手な調整をした責任を問いますぞ」
司祭が言った。
口調は穏やかなままなのに、責任を押し戻そうとする硬さがあった。
リアンノンは正面から見返す。
「違います。壊れたものを、動くように直しただけです」
「結果として規格を乱したではないか!」
「乱したのは、単体部品として私に渡したあなた方です」
空気が張った。
リアンノンは一歩も引かない。
「もし本当に祭具中枢の構成部品なら、本来は全体設計、接続先、整備履歴、許容誤差が共有されていなければならない。でも私は何も知らされていなかった。廃材だ、賃金は出ない、直せばいい――そう言われて渡されていただけです」
「…………」
「全体管理を隠したまま、単体最適化の修理を繰り返させた。その結果、現物の祭具は設計図の上の祭具と別物になった。責任の順番を間違えないでください」
養父が顔色を変えた。
「だ、だからお前が戻ってくれればいい話だろう!」
「戻って?」
「お前が直せば済むんだ! 昔からそうだったじゃないか、余計なことを言わず手を動かせば――」
養母が慌てて袖を引いたが、遅かった。
誓約の間がしん、と静まる。
ヴランが楽しそうですらある薄い笑みを浮かべた。
「いや、分かりやすい本音だ」
「違、これは、その……」
「心配していたというのは、嘘だ」
ディアストラが低く言う。
「家族だから連れ戻したいって、そういったのは、全部嘘だ」
「そ、それも本当よ!」
養母が縋るように言う。
「リアは昔から手先が器用で、役に立って――」
「ええ」
リアンノンは静かに頷いた。
「役に立つから、でしょう?」
養母の口が止まる。
「名前は残らなくてよかった。賃金も出さなくてよかった。何を直しているか知らなくてよかった。でも、いなくなったら困る。だから今さら“娘”に戻したい」
「リア……」
「その呼び方、やめてください」
ぴたり、と養母が黙った。
リアンノンは、自分でも驚くほど穏やかな声で続けた。
「私はもう、あなた方の帳簿の穴埋めでも、教団の無記名技術工でもありません」
ドルハが、その言葉のあとを受けるように一歩前へ出る。
「結論を出そう」
誰も口を挟まない。
王の声が、その場の温度を決める。
「第一に、返還要求は棄却する。理由は簡単だ。リアンノンは誘拐被害者ではなく、我が国との正式な雇用契約下にある」
ヴランが三つ目の机から契約書を掲げる。
「署名、報酬、居住地、職務範囲、すべて本人同意の上で成立済みです」
「第二に」
ドルハは教団側を見る。
「そちらの要求は“保護”を掲げているが、実態は祭具運用維持のための技術者回収だ。しかも、売却と借財相殺を知った上で虚偽の返還名目を用いた。こちらは重大な事実誤認として記録する」
「王よ、それは――」
「まだある」
低い一声で、司祭の反論を封じる。
「第三に、リアンノンが関わった修復品を、その整備履歴を伏せ、無記名のまま運用した疑いがある。必要ならこちらからも照会を出す。大祭儀が止まると困るのは分かるが、その尻拭いを“返還”の一語で済ませるな」
司祭の笑みが、ついに薄れた。
「……では、貴国は技術協力そのものを拒否すると?」
「誰がそう言った」
ドルハはそう返し、今度はリアンノンを見る。
「この一件、決定権があるのはひとりだけだ。我が国の代表者として、リアンノン、お前に決める権利がある」
誓約の間の視線が、一斉に集まった。
それは命令ではなかった。
選べ、という言葉だった。
リアンノンは息を吸う。
かつてなら、こんな場で口を開く前に、誰かの顔色をうかがっていた。
怒鳴られないか、叩かれないか、仕事を取り上げられないか。
けれど今は違う。
前へ出て、誓約盤の脇に立つ。
「私の答えを述べます」
声は、はっきりと出た。
反骨心で強がっていた過去とも違う。
本来のリアンノン、これが本当の私だと、そう思えるだけの何かが心にあった。
「私は、教団にも商会にも“返還”されません」
養父が何か言いかけるのを無視して続ける。
「そのうえで、祭具の現物調査と技術的検証は引き受けます。――ですが条件があります」
「条件……だと?」
司祭が問う。
「はい。第一に、私の名義を明記すること。第二に、報酬は私個人に直接支払われること。第三に、対象祭具の構成部品・整備履歴・全体図を一切隠さず開示すること。第四に、私の判断なしに部品換装を行わないこと。第五に、私の身柄はレクイエム王家の保護下に置かれること」
「無茶だ」
養父が呻く。
「今までそんな条件――」
「今までが異常だったんです」
リアンノンは即座に言い切った。
「無償で、無記名で、何に使うかも知らせず、壊れたら修理人のせいにする。そんなやり方には、もう戻しません」
司祭が口を結ぶ。
おそらく、断りたいのだろう。
だが断れば、大祭儀までに祭具が整わない。
その焦りが、表情の端に初めて滲んだ。
ヴランが畳みかける。
「ちなみに、王城側では昨夜の時点で失敗品三基の不整合を確認済みだ。あと十日もない大祭儀までに、設計図どおりの新品だけで立て直せるなら、どうぞご自由に」
「……脅しですか」
「事実確認ですよ」
ドルハが誓約盤へ指先を置く。
「そしてもうひとつ、伝えておくことがある」
王の視線が、誓約の間を貫いた。
「本日付で、リアンノンをレクイエム王城特命技師として登録する。以後、この女に対する技術依頼・交渉・資料請求の類は、すべて王城経由だ。本人の同意なき連行、名義転用、過去実績の無断使用を禁ずる」
「――陛下」
ヴランがすぐに銀板を捧げる。
あらかじめ用意してあったのだろう。誓約登録用の薄い銀板だ。
ドルハはそこへ短く署し、王印を押した。
乾いた魔力音が鳴る。
誓約の間の灯りが一瞬だけ強く瞬いた。
「登録完了だ」
その一言は、判決のように重かった。
ただの小娘、腕がいいだけの、替えのきく職人。
それがこの瞬間に、国王直轄の、肩書きつきの、国家規模の重要人物になってしまった。
養母が蒼白になる。
「そんな……この子は、ただの……」
「ただの何だ」
ドルハの声が落ちる。
「無記名で使える備品か。使い潰せる修復係か。お前たちがそう扱っていたのは知っている。だがここでは違う」
養父が口を開き、閉じる。
司祭も、すぐには言葉を継げなかった。
リアンノンは、自分の胸の内に奇妙な静けさがあることに気づいた。
勝った、というより、ようやく名前のついた場所に立てた、という静けさだ。
司祭が長い沈黙の末、ようやく頭を下げた。
「……条件は持ち帰り、監理院へ伝えます」
「そうしろ」
「ただし、大祭儀の日程は動かせません」
「こちらの知ったことではない」
ドルハは一切揺るがない。
「祭具が止まるのが困るなら、次は“返還要求”ではなく、整備依頼として来い。言葉の使い方くらいは学んでからな。人間社会の外交プロトコルでは、言葉遣いが大切なのだろう?」
司祭のこめかみが、ぴくりと動いた。
だが、反論はしなかった。
養母がなおも何か言いたげにリアンノンを見た。
けれど彼女は目を合わせない。
もう、合わせる必要がなかった。
「退出を」
ヴランの合図で、兵が扉を開く。




