こんにちは残業代
常夜の国レクイエムの王城は、夜そのものを切り出して積み上げたような城だった。
黒曜石めいた尖塔群。青白い月光を弾く高窓。沈黙と絢爛が同居する回廊。
人間の国の城ならば恐怖に膝を折っていてもおかしくない光景だったが、リアンノンの感想はひとつだった。
――静かで、いい。
怒鳴り声も、癇癪も、恩着せがましい「愛している」もない。
侍従たちは必要なことしか言わず、余計な同情も向けてこない。
やがて通された謁見の間で、リアンノンは玉座を見上げた。
そこに座していたのは、噂通りの怪物だった。
濡れ羽色の黒髪。血を思わせる赤い双眸。気怠げに頬杖をついていてなお、空間そのものが彼に従っているような圧がある。
美しい、という言葉では足りない。退廃と威厳が同時に形を取ったような男だった。
「人間の供物か」
低く、甘い声が落ちてくる。
ひとつ囁くだけで、周囲の空気が震えた。
「名は」
「リアンノン」
「そうか」
王――ドルハは立ち上がりもしないまま、近侍から差し出された銀の杯を手に取った。
暗い赤が揺れる。血だ。
「この国に入る人間は、まず血の契約を結ぶ」
周囲の気配は動かない。
拒否など許されない、ごく当たり前の儀式なのだろう。
だがリアンノンは、杯より先に別のものに目を留めた。
玉座の肘掛けに、乱雑に置かれた古い懐中時計。精緻な細工、古式の魔導回路、そして無残に途切れた魔力の流れ。
壊れている。しかも、雑に扱われた痕があった。
その瞬間、リアンノンの眉がぴくりと動いた。
感情の薄い彼女を知る者がいれば、それがかなりの怒りの表れだと分かったはずだ。
ドルハが杯を差し出す。
「飲め。そうすれば、お前の命はこの城で保証される」
リアンノンはその赤い液体を見てから、まっすぐに王を見返した。
「血の契約は結びません」
謁見の間が凍りついた。
それでも彼女は一歩も引かない。
「労働契約なら検討します」
数多の吸血鬼の視線が突き刺さる中、リアンノンはさらに続けた。
「それと――その時計」
玉座の脇を指さすと、初めてドルハの赤い瞳がわずかに見開かれた。
「壊れています。私に直させていただけるなら、条件交渉の席についても構いません」
謁見の間に満ちていたのは、先ほどまでの沈黙とは質の違う静けさだった。
凍りついた、という表現が一番近い。
王に差し出された血の契約を拒み、そのうえ労働契約を持ちかけた人間など、これまでひとりもいなかったのだろう。
だが、リアンノンにとっては当然の申し出だった。
食事をするにも、寝るにも、作業をするにも、人は対価が要る。吸血鬼の国だろうと、その理屈は変わらないはずだ。
「……お前は、自分が何を断ったのか分かっているのか」
玉座の上から、ドルハが面白がるように問いかける。
怒気はない。むしろ、眠っていた獣がようやく目を開けたような声音だった。
「命の保証と引き換えに、自由の一部を差し出す契約でしょう」
リアンノンは簡潔に答える。
「でしたら不要です。私は、働いた分の報酬と、相応の環境があれば十分です」
控えていた吸血鬼のひとりが、呆れたように息をのんだ。
別の誰かが、無礼だと小さく呟く。
しかしドルハは咎めなかった。
赤い瞳を細め、リアンノンの視線の先――玉座の脇に置かれた懐中時計へと目をやる。
「直せるのか」
「見なければ断言はできません」
「触れることを許す」
「ありがとうございます」
その返答に、また空気が揺れた。
許される前提で礼を言うのか、とでも思ったのだろう。だがリアンノンは周囲の反応を気にしなかった。
必要なのは、驚愕でも畏怖でもなく、作業台だ。
「では、机を」
「ここでやるつもりか」
「時間を置く意味がありません。ついでに灯りをもうひとつ。あと、できれば細い布とぬるま湯をお願いします」
立て続けの要求に、今度こそ露骨なざわめきが走る。
供物の人間が、王に向かって雑用の指示まで出したのだから無理もない。
けれど、ドルハは唇の端をわずかに上げただけだった。
「聞こえなかったか。持ってこい」
命じられた侍従たちが、慌てて動き出す。
玉座の間の中央に小さな作業台が運び込まれ、追加の魔石灯が置かれ、布と水まで用意された。
その手際の良さに、リアンノンは少しだけ感心した。
人間の商会なら、この程度の指示でここまで迅速には動かない。まず文句が出て、それから恩着せがましい言葉が挟まり、最後に「ありがたいと思え」と付け足される。
無駄がないのは、実にいい。
リアンノンは工具箱を台の上に置き、静かに蓋を開いた。
整然と並んだペンチ、魔導針、精密ピンセット、ルーペ。使い込まれてはいるが、手入れの行き届いた道具ばかりだ。
そのうちの一本を取り上げたところで、ふと視線を感じた。
見上げれば、ドルハが先ほどまで差し出していた銀の杯を脇へ退け、肘掛けに頬杖をついたままこちらを見ている。
退屈そうで、気まぐれで、けれど目だけは少しも笑っていなかった。
王の視線だった。品定めではなく、見極める者の目。
リアンノンはそれを受け流し、懐中時計を布の上へ載せる。
古い銀細工。表蓋には夜咲きの花の意匠。人間の国ではまず見ない精密さだ。
そして内部には、繊細に編まれた古式魔導回路が走っている。
「乱暴に落とされていますね」
思わず出た言葉に、何人かが息を呑んだ。
王の私物への物言いとしては相当に際どい。
だがリアンノンは構わず、時計の蝶番を開く。
「外装の歪みは軽微ですが、内部の第三歯車が軸からずれています。魔力導線も二か所断裂。放置期間が長いので、流れ癖まで変わっている」
そこまで口にしてから、視線を上げる。
「壊したのは誰ですか」
問いというより確認に近い調子だった。
侍従たちの顔色が変わる。誰もが、これは聞いてはいけない類のことだと知っている顔だ。
その中でただひとり、ドルハだけが何の感情も見せずに答えた。
「俺だ」
「そうですか」
リアンノンは一度まばたきをした。
「でしたら、今後はもう少し丁寧に扱ってください。直せるものも、直せなくなります」
次の瞬間、謁見の間の隅で誰かが噴き出しかけ、それを必死に呑み込んだ気配がした。
王に向かって、物の扱いを叱る人間。
あまりにも場違いで、あまりにも堂々としていたからだろう。
けれど、リアンノンにとっては大真面目だった。
どれほど高価なものでも、どれほど古いものでも、壊れた理由は必ずある。
理由を無視した修復は、繕いでしかない。
彼女はルーペを片目にかけ、呼吸を整えた。
雑音が遠のく。視界が狭まり、世界は時計の内部だけになる。
歪んだ軸を整え、欠けた留め具を差し替え、断裂した導線へ極細の魔力糸を通す。
金属と金属のわずかな隙間に針先を滑り込ませるたび、魔力の“ほつれ”が視えた。
絡み、千切れ、ねじれてしまった流れを、ひと筋ずつほどいて戻していく。
人の心より、ずっと単純だ。
壊れた場所が見えるだけ、まだ優しい。
どれほどの時間が過ぎたのか、リアンノンには分からなかった。
謁見の間は静まり返り、誰ひとり咳払いすらしない。ただ、魔石灯の淡い唸りと、時折、工具が触れ合う微かな金属音だけが落ちていく。
やがてリアンノンは最後の術式を閉じ、裏蓋をそっと押さえた。
指先に、正しく巡る魔力の感触が返ってくる。
「……はい」
小さく呟き、ぜんまいを巻く。
かちり。
その一音が、静寂の中心で鳴った。
続いて、止まっていた針がゆっくりと動き出す。
ひとつ、またひとつ。
確かめるように時を刻み始めたその音は、地下工房でひとり聞いていたときより、ずっと鮮やかに響いた。
リアンノンは時計を持ち上げ、作業台の上に置く。
「動作は回復しました。外装の傷までは消していません。使用痕も含めて保存価値があると判断したので」
言ってから、少しだけ首を傾げる。
「問題がありましたか」
返事は、しばらく来なかった。
見れば、玉座の上のドルハが、初めて気怠げな姿勢を崩していた。
頬杖を外し、まっすぐに時計を見ている。表情は変わらない。なのに、空気だけが先ほどまでとは違った。
止まっていた何かが、本当に動き出したような沈黙だった。
やがてドルハは立ち上がる。
その一動作だけで、謁見の間の全員が一斉に頭を垂れた。
王は玉座の段を下り、リアンノンの前まで来た。
至近距離で見ると、なおさら人離れした美貌だった。血の色をした双眸は冷たいのに、長い睫毛の影のせいか、どこかひどく甘く見える。
ドルハは時計を手に取り、耳元へ寄せた。
規則正しく刻む音を数拍聞いてから、低く笑う。
「……なるほど」
その笑いは、嘲りでも威嚇でもなかった。
長い退屈の果てに、ようやく愉快なものを見つけた者の笑いだった。
「数百年生きて、俺の前で血の契約を断り、説教をし、ついでに壊れた時計まで直した人間は初めてだ」
「説教のつもりはありません。注意喚起です」
「ますますいい」
くつくつと喉で笑いながら、ドルハは時計を懐へ収めた。
それから、赤い瞳でリアンノンを見下ろす。
「労働契約、と言ったな。何が欲しい」
質問は短い。
だがそれが、交渉の許可だと分かった瞬間、リアンノンの頭は驚くほど静かになった。
「月給制を希望します」
「ほう」
「出来高制は依頼主側に作業量の調整権が偏ります。長期雇用が前提なら固定給の方が合理的です」
「続けろ」
「専用工房。工具と消耗品の支給。資料室への立ち入り許可。破損品の保管と検分を私の裁量で行える権限」
言葉を重ねるたび、周囲の空気がだんだんおかしくなっていくのが分かった。
供物が助命を願うどころか、待遇改善案を提出しているのだから当然だ。
だがドルハは楽しげに顎を引くだけだ。
「他には」
「残業代」
今度こそ、はっきりと誰かが吹き出した。




