訪問者は王……いや、王、何してるんです?
黒を纏った王は、いつの間にか工房の入口に立っている。
気配を消していたわけではないのに、存在感が強すぎるせいで、それまで別の空気の層にいたような錯覚すらあった。
赤い双眸が、まずヴランを捉え、次に床へ膝をついているディアストラへ落ちる。
ほんの一瞬で、工房の気温が一段下がった気がした。
「誰の許可で、そいつをここへ入れた」
声自体は静かだ。
だがその静けさは、昨夜拘束房で見たものに近かった。血の匂いに反応した捕食者の顔ではない。自分の縄張りへ想定外の牙が入り込んだときの冷たさだ。
ヴランが軽く片手を上げる。
「僕ですよ、陛下。昨夜の件で、当人から修復師殿へ正式に礼を述べたいと言われまして」
「礼だけなら扉の外でも足りる」
「まあ、そう仰らず」
「十分ではありません」
割って入ったのはリアンノンだった。
ドルハの視線がこちらへ移る。
その瞬間だけ圧が少し緩むのだから、分かりやすい。
「十分ではない、とは」
「補助人員の話です」
リアンノンは机上の書類束を示した。
「管理具一斉検分には人手が要ります。ディアストラは現場を知っていますし、拘束房の構造にも詳しいはずです。重い機材も運べる」
ドルハの眉がわずかに動く。
「だから助手に欲しいと?」
「はい」
「却下だ」
即答だった。
ディアストラの肩がぴくりと強張る。
ヴランは、ああ始まった、という顔をしている。
リアンノンは淡々と聞き返した。
「理由を」
「危険だからだ」
「昨日の状態ならそうです」
「今もだ」
ドルハの赤い瞳がディアストラへ向く。
視線を受けた青年の喉が上下した。怯えではなく、本能的な警戒だろう。王と狼では、捕食者としての格が違いすぎる。
「そいつはまだ不安定だ。暴走の再発可能性もある」
「あります」
リアンノンは頷く。
「だからこそ、私の管理下に置くほうが合理的です」
ヴランがまた笑いを堪えるように目を伏せる。
ドルハはじろりと彼を睨み、それからリアンノンを見た。
「お前の管理下」
「応急修復をしたのは私です。再調整が必要なら私が一番早く気づけます」
「護衛なら別に立てる」
「護衛ではなく補助員です」
「それが気に入らん」
とうとう本音が出た。
工房がしんと静まる。
ディアストラがわずかに顔を上げ、ヴランが口元を隠し、リアンノンだけが素で首を傾げる。
「何がですか」
「そいつが、お前のそばに常時出入りすることだ」
「ああ、嫉妬だ」
ヴランが小声で言った。
ドルハが無言で睨む。ヴランはにこやかに目を逸らした。
リアンノンは少し考える。
少し考えて、本当に仕事の話として答えた。
「業務時間と業務範囲を限定すれば問題ないのでは」
「そういう話ではない」
「では何の話ですか」
ドルハが答えに詰まる。
王が、である。
ディアストラが床へ片膝をついたまま、低く口を開いた。
「陛下」
「口を開くな」
「お願いです」
思ったより肝が据わっている。
というより、狼影族というのは案外頑固らしい。
「俺は、お嬢に拾われた」
「その呼び方はやめろ」
「嫌です」
即答だった。
ヴランがとうとう吹き出して壁に手をつく。
工房の空気が危うくなりかけたところで、リアンノンが淡々と口を挟む。
「呼称については後で協議してください」
「今のうちに禁止しておけ」
「本人の自由です」
「よくない自由もある」
「工房内で怒鳴らないでください」
ドルハが黙る。
負けたというより、いったん飲み込んだ顔だった。
ディアストラは視線をドルハから逸らさずに続ける。
「俺は不安定だ。自覚もある。だからこそ、あの首輪を見抜けるお嬢のそばにいたい。暴れたら、お嬢が最初に気づく」
「そのためにお前を置けと?」
「それだけじゃない」
ディアストラはゆっくりと頭を下げる。
「拘束房の配置、管理具の使われ方、誰がどう誤魔化してきたか、俺は知っている。全部とは言わないが、犬よりは嗅ぎ分けられる」
「犬」
「比喩だ」
「狼のくせに」
ぼそりとヴランが言い、ディアストラに睨まれる。
少し空気が緩んだところで、リアンノンは書類束の一枚を抜き出した。
「陛下。これを見てください」
ドルハが受け取る。
そこには、リアンノンが昨夜作った検分工程表が簡潔に記されていた。
第一段階、保管台帳との照合。
第二段階、現物外観検分。
第三段階、使用履歴聴取。
第四段階、危険個体への実地適合性確認。
「第四段階には、使用者側の視点が必要です」
リアンノンは言う。
「作る側や管理側の記録だけでは足りません。どう締まり、どこが痛み、何が奪われ、どこから壊れるか。実際に装着された側しか分からない情報があります」
ドルハの視線が紙からリアンノンへ戻る。
ゆっくりと、その言葉を噛み砕いている顔だった。
「……なるほど」
「ディアストラは有用です」
「有用、か」
「はい」
リアンノンはきっぱり言った。
「危険かどうかで言えば、壊れた管理具のほうがよほど危険です。使える補助員を排除するのは非合理です」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがてドルハはひとつ息を吐き、紙を机へ戻す。
次に、片膝をついたままのディアストラへ視線を落とした。
「ひとつ確認する」
その声音には、王の響きが戻っていた。
「お前は働きたいのか。それとも、恩義で自分を差し出したいだけか」
ディアストラは沈黙する。
簡単には答えられない問いだったのだろう。
彼は喉元へ手を当てる。
そこにはまだ、昨日までの痛みの記憶が残っているはずだ。
「……最初は、返さなきゃと思った」
低い声が落ちる。
「お嬢に、返したいと」
リアンノンは黙って聞いた。
ドルハも急かさない。
「でも、さっき言われて分かった。返すために差し出すのは、前と同じだ」
ディアストラはゆっくりと顔を上げる。
「俺は、働きたい」
その目には、もう昨夜のような混乱は少なかった。
あるのは不器用な決意だ。
「自分で決めて、働いて、対価を受け取りたい。そのうえで、お嬢の役に立ちたい」
リアンノンは小さく頷いた。
それなら話になる。
ドルハはその答えを聞き、しばらく何も言わない。
やがて、いかにも不本意そうに目を細めた。
「……ならば、条件つきで認める」
ディアストラの背筋が伸びる。
ヴランは、ようやくまとまったかとでも言いたげに肩を回した。
「第一に、所有権凍結を解除しない」
ドルハの言葉に、ディアストラの顔が一瞬だけ強張る。
「ただし」
王は続けた。
「“所有”として戻すのではない。王城保護下の臨時雇用見習いとする」
工房の空気が、また静かに変わる。
所有ではない。
だが完全自由でもない。
保護下の臨時雇用見習い。
いかにもこの国らしい、ドライだが、筋の通った落としどころだった。
「第二に、勤務時間はリアンノンの検分業務に付随する範囲のみ。業務外で西塔へ近づくな」
「はい」
「第三に、暴走兆候があれば即時申告しろ」
「はい」
「第四に」
ここでドルハの視線が鋭くなる。
「“お嬢”はやめろ」
「嫌です」
また即答だった。
今度こそヴランが腹を抱えた。
リアンノンは少しだけ考え、口を開く。
「……業務上の呼称としては不適切です」
ディアストラが衝撃を受けたような顔になる。
「お嬢まで」
「補助員なら、少なくとも公的な場では名で呼んでください」
「公的でなければ」
「業務時間内は名で」
「……分かった」
渋々といった顔だったが、飲み込んだだけ良しとすべきだろう。
ドルハがどこか勝ち誇ったように鼻を鳴らす。子供っぽい。
「第五に」
王は最後に、リアンノンへ視線を向けた。
「こいつを使うかどうかの最終判断は、お前がしろ。嫌ならいつでも外す」
「分かりました」
「そして」
ドルハの赤い瞳が、今度はディアストラへ戻る。
「賃金は払う」
その一言に、ディアストラは一瞬だけ反応できなかった。
金の瞳がわずかに見開かれる。
「対価もなく働かせる気はない。王城保護下の臨時雇用ならなおさらだ」
「……はい」
答える声が、少しだけ掠れる。
リアンノンにはそれがよく分かった。金額より前に、“払う”と明言されることの重さを。
「契約書は僕が整えましょう」
ヴランがようやく実務に戻る顔で口を開いた。
「名称は――ええと、“王城管理具検分補助員・臨時雇用”あたりでどうかな」
「長いです」
「この国って、だいたい名前が長いんだよ」
ヴランは羽根ペンを走らせながら、にやにやと続ける。
「陛下、危険手当の適用範囲は?」
「検分業務の全期間」
「宿所は?」
「東棟の空き部屋を使わせろ。監視は外すな」
「食事は?」
「通常配給に加え、回復優先で」
「手厚いなあ」
「黙れ」
そうして条件がひとつずつ積まれていく。
その様子を見ながら、リアンノンは少しだけ不思議な感覚に襲われていた。
昨日まで、保有物として扱われていた青年がいる。
その立場を、いま王が言葉で変えている。
劇的な救済ではない。魔法のような解放でもない。
もっと冷たくて、もっと手続き的で、けれどだからこそ確かな変化だった。
「では最後に」
ヴランが紙から顔を上げる。
「本人の同意を。ディアストラ、異議は?」
「ない」
「リアンノン嬢は?」
「勤務態度次第です」
「厳しいなあ」
「当然です」
ヴランが笑う。
そして紙を整え、ドルハへ差し出した。
王が署名し、王印を押す。
黒銀の印が紙に沈んだ瞬間、ディアストラの表情が少しだけ変わった。
信じていなかったものが、目の前で形になったときの顔だ。
「これで今日から、お前は臨時雇用だ」
ドルハが紙を机へ置く。
「所有ではない。働け」
「……はい」
ディアストラは立ち上がらず、その場で深く頭を垂れた。
それは王への礼であり、同時に自分へ戻された選択肢への礼でもあるように見えた。
やがて彼は向きを変え、今度はリアンノンへ向かって膝をつき直す。
さきほどよりもまっすぐな姿勢で。
「リアンノン」
今度は、ちゃんと名を呼んだ。
「……働かせてくれて、ありがとう」
お嬢ではなく名前。
ぎこちないが、それでも自分で選んだのだと分かる響きだった。
リアンノンは少しだけ驚き、それから小さく頷く。
「期待しています、ディアストラ」
その一言に、彼の金の瞳がわずかに揺れる。
たぶん、“期待する”ともあまり言われてこなかったのだろう。
役に立て、命じられたことをこなせ、壊れるな――そういう言葉はあっても。
「さて、では、まずは仕事です」
リアンノンは机上の書類束を軽く叩いた。
「拘束房の配置図と、管理具の使用実態、把握している範囲を教えてください。あと、持てるならこの箱を資料室まで」
「持てる」
即答だった。
そして次の瞬間には、ひとりでは重いはずの木箱を軽々と持ち上げてしまう。
リアンノンは少しだけ目を見開く。
「……便利ですね」
「お前、仕事開始の第一声がそれなのか」
「事実です」
ドルハが額へ手を当てる。
ヴランは楽しそうに肩を震わせている。
ディアストラ本人はというと、役に立つと言われたことが案外嬉しかったらしく、口元をわずかに緩めていた。
「では、資料室へ行きます」
リアンノンが言うと、ディアストラはすぐに頷く。
だが、扉へ向かいかけたところで、ドルハの低い声が止めた。
「待て」
三人が振り返る。
ドルハは数歩近づき、リアンノンの机へ一枚の札を置いた。
黒銀の薄板で、中心に王印と西塔の紋が刻まれている。
「何ですか」
「通行許可札だ。検分対象の保管区画へ入る際に見せろ。今日から、一部区域はお前の命令系統に組み込む」
王がさらりと言うには大きい権限だった。
ヴランまで少し感心したような顔をする。
「陛下、ずいぶん思い切りましたね」
「必要だろう」
「そうだけどさあ」
「始祖王党派は黙らせた。契約ほどではないが、弱みというのは使えるものだ」
リアンノンは許可札を手に取る。
冷たい金属の重みが、仕事の権限として掌へ収まった。
「ありがとうございます」
「礼なら成果で示せ」
「そのつもりです」
「ならいい」
短く言ったあと、ドルハの視線がディアストラへ移る。
それだけで、工房の空気がまた少し張る。
「また、お前には言っておくことがある」
「……はい」
「役に立て。そうすれば、お前がそこにいる理由になる」
厳しい言い方だった。
だが同時に、それは出て行けではなく“居場所を作れ”という意味でもあった。
ディアストラは真っ直ぐに頷く。
「はい、陛下」
「そして」
ドルハはほんの少しだけ目を細めた。
「必要以上に、リアンノンに懐くな」
「善処します」
「善処では足りん」
「……努力します」
リアンノンは思わず瞬きをする。
そのやり取りがおかしかったのか、ヴランのにやけ顔が止まらない。
ディアストラは真顔だが、たぶん少しだけ分かっていてやっている。
「では、行きましょう」
リアンノンが歩き出すと、ディアストラはすぐ後ろに続いた。
大きな木箱を片腕で抱えたままでも足音は意外と静かで、狼らしい無駄のなさがある。
工房の扉を抜ける直前、リアンノンはふと思い出したように振り返る。
「王」
「何だ」
「ディアストラは業務時間内の補助員です。嫌がらせは契約違反です」
ヴランが壁に寄りかかって笑い死にそうになり、ディアストラが金の瞳を見開く。
対するドルハは、一瞬だけ完全に言葉を失ったあと、低く唸るように言った。
「……俺を何だと思っている」
「王で、契約を守る方です」
即答すると、ドルハの表情がわずかに止まる。
怒るのでも笑うのでもなく、少しだけ不意を突かれた顔だった。
やがて彼は、いかにも不本意そうに目を逸らす。
「当然だ」
「では問題ありません」
それだけ言って、リアンノンは今度こそ回廊へ出る。
後ろから、ヴランの忍び笑いと、ドルハのため息が聞こえた。
さらにその奥で、ディアストラが本当に少しだけ笑った気配がする。
資料室への道を歩きながら、リアンノンは隣の青年を見上げた。
「運搬は問題なさそうですね」
「これくらいなら大丈夫だ、お嬢」
「では、まず拘束房の配置と管理具の扱われ方を教えてください」
「分かった」
「あと」
「うん?」
「業務時間内は、名で呼んでください。ルールです」
「……分かった、リアンノン」
少しぎこちないが、悪くない。
「その代わり」
ディアストラが低く続ける。
「業務外なら、お嬢って呼んでもいいか」
「よくありません」
「陛下と同じこと言うんだな」
「論点が違います」
「そっか」
どこか可笑しそうに答える声を聞きながら、リアンノンは歩を進める。
こうして西塔の工房に、ひとりの臨時補助員が加わった。
大柄で、元奴隷で、狼で、妙に忠実で、そして王から露骨に嫌われている助手だ。
厄介そうだった。
だが、それ以上に使えそうでもある。
そしてたぶん、その判断は間違っていない。
資料室の重い扉が見えてくる。
その向こうには、王城じゅうの壊れた管理具と、この国が長く見て見ぬふりをしてきた記録が待っているはずだ。
リアンノンは通行許可札を握り直した。
次に直すのは、物だけでは済まない。
そう分かっていても、もう手を引く気にはなれなかった。




