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19/33

訪問者は王……いや、王、何してるんです?


 黒を纏った王は、いつの間にか工房の入口に立っている。

 気配を消していたわけではないのに、存在感が強すぎるせいで、それまで別の空気の層にいたような錯覚すらあった。


 赤い双眸が、まずヴランを捉え、次に床へ膝をついているディアストラへ落ちる。

 ほんの一瞬で、工房の気温が一段下がった気がした。


「誰の許可で、そいつをここへ入れた」


 声自体は静かだ。

 だがその静けさは、昨夜拘束房で見たものに近かった。血の匂いに反応した捕食者の顔ではない。自分の縄張りへ想定外の牙が入り込んだときの冷たさだ。


 ヴランが軽く片手を上げる。


「僕ですよ、陛下。昨夜の件で、当人から修復師殿へ正式に礼を述べたいと言われまして」

「礼だけなら扉の外でも足りる」

「まあ、そう仰らず」


「十分ではありません」


 割って入ったのはリアンノンだった。


 ドルハの視線がこちらへ移る。

 その瞬間だけ圧が少し緩むのだから、分かりやすい。


「十分ではない、とは」


「補助人員の話です」


 リアンノンは机上の書類束を示した。


「管理具一斉検分には人手が要ります。ディアストラは現場を知っていますし、拘束房の構造にも詳しいはずです。重い機材も運べる」


 ドルハの眉がわずかに動く。


「だから助手に欲しいと?」


「はい」


「却下だ」


 即答だった。


 ディアストラの肩がぴくりと強張る。

 ヴランは、ああ始まった、という顔をしている。


 リアンノンは淡々と聞き返した。


「理由を」


「危険だからだ」

「昨日の状態ならそうです」

「今もだ」


 ドルハの赤い瞳がディアストラへ向く。

 視線を受けた青年の喉が上下した。怯えではなく、本能的な警戒だろう。王と狼では、捕食者としての格が違いすぎる。


「そいつはまだ不安定だ。暴走の再発可能性もある」


「あります」


 リアンノンは頷く。


「だからこそ、私の管理下に置くほうが合理的です」


 ヴランがまた笑いを堪えるように目を伏せる。

 ドルハはじろりと彼を睨み、それからリアンノンを見た。


「お前の管理下」


「応急修復をしたのは私です。再調整が必要なら私が一番早く気づけます」


「護衛なら別に立てる」

「護衛ではなく補助員です」


「それが気に入らん」


 とうとう本音が出た。


 工房がしんと静まる。

 ディアストラがわずかに顔を上げ、ヴランが口元を隠し、リアンノンだけが素で首を傾げる。


「何がですか」


「そいつが、お前のそばに常時出入りすることだ」


「ああ、嫉妬だ」


 ヴランが小声で言った。

 ドルハが無言で睨む。ヴランはにこやかに目を逸らした。


 リアンノンは少し考える。

 少し考えて、本当に仕事の話として答えた。


「業務時間と業務範囲を限定すれば問題ないのでは」


「そういう話ではない」


「では何の話ですか」


 ドルハが答えに詰まる。

 王が、である。


 ディアストラが床へ片膝をついたまま、低く口を開いた。


「陛下」


「口を開くな」


「お願いです」


 思ったより肝が据わっている。

 というより、狼影族というのは案外頑固らしい。


「俺は、お嬢に拾われた」

「その呼び方はやめろ」


「嫌です」


 即答だった。

 ヴランがとうとう吹き出して壁に手をつく。


 工房の空気が危うくなりかけたところで、リアンノンが淡々と口を挟む。


「呼称については後で協議してください」


「今のうちに禁止しておけ」

「本人の自由です」


「よくない自由もある」

「工房内で怒鳴らないでください」


 ドルハが黙る。

 負けたというより、いったん飲み込んだ顔だった。


 ディアストラは視線をドルハから逸らさずに続ける。


「俺は不安定だ。自覚もある。だからこそ、あの首輪を見抜けるお嬢のそばにいたい。暴れたら、お嬢が最初に気づく」

「そのためにお前を置けと?」

「それだけじゃない」


 ディアストラはゆっくりと頭を下げる。


「拘束房の配置、管理具の使われ方、誰がどう誤魔化してきたか、俺は知っている。全部とは言わないが、犬よりは嗅ぎ分けられる」


「犬」


「比喩だ」


「狼のくせに」


 ぼそりとヴランが言い、ディアストラに睨まれる。

 少し空気が緩んだところで、リアンノンは書類束の一枚を抜き出した。


「陛下。これを見てください」


 ドルハが受け取る。

 そこには、リアンノンが昨夜作った検分工程表が簡潔に記されていた。


 第一段階、保管台帳との照合。

 第二段階、現物外観検分。

 第三段階、使用履歴聴取。

 第四段階、危険個体への実地適合性確認。


「第四段階には、使用者側の視点が必要です」


 リアンノンは言う。


「作る側や管理側の記録だけでは足りません。どう締まり、どこが痛み、何が奪われ、どこから壊れるか。実際に装着された側しか分からない情報があります」


 ドルハの視線が紙からリアンノンへ戻る。

 ゆっくりと、その言葉を噛み砕いている顔だった。


「……なるほど」


「ディアストラは有用です」


「有用、か」


「はい」


 リアンノンはきっぱり言った。


「危険かどうかで言えば、壊れた管理具のほうがよほど危険です。使える補助員を排除するのは非合理です」


 しばらく、誰も口を開かなかった。


 やがてドルハはひとつ息を吐き、紙を机へ戻す。

 次に、片膝をついたままのディアストラへ視線を落とした。


「ひとつ確認する」


 その声音には、王の響きが戻っていた。


「お前は働きたいのか。それとも、恩義で自分を差し出したいだけか」


 ディアストラは沈黙する。

 簡単には答えられない問いだったのだろう。


 彼は喉元へ手を当てる。

 そこにはまだ、昨日までの痛みの記憶が残っているはずだ。


「……最初は、返さなきゃと思った」


 低い声が落ちる。


「お嬢に、返したいと」


 リアンノンは黙って聞いた。

 ドルハも急かさない。


「でも、さっき言われて分かった。返すために差し出すのは、前と同じだ」


 ディアストラはゆっくりと顔を上げる。


「俺は、働きたい」


 その目には、もう昨夜のような混乱は少なかった。

 あるのは不器用な決意だ。


「自分で決めて、働いて、対価を受け取りたい。そのうえで、お嬢の役に立ちたい」


 リアンノンは小さく頷いた。

 それなら話になる。


 ドルハはその答えを聞き、しばらく何も言わない。

 やがて、いかにも不本意そうに目を細めた。


「……ならば、条件つきで認める」


 ディアストラの背筋が伸びる。

 ヴランは、ようやくまとまったかとでも言いたげに肩を回した。


「第一に、所有権凍結を解除しない」


 ドルハの言葉に、ディアストラの顔が一瞬だけ強張る。


「ただし」


 王は続けた。


「“所有”として戻すのではない。王城保護下の臨時雇用見習いとする」


 工房の空気が、また静かに変わる。


 所有ではない。

 だが完全自由でもない。

 保護下の臨時雇用見習い。


 いかにもこの国らしい、ドライだが、筋の通った落としどころだった。


「第二に、勤務時間はリアンノンの検分業務に付随する範囲のみ。業務外で西塔へ近づくな」

「はい」

「第三に、暴走兆候があれば即時申告しろ」

「はい」

「第四に」


 ここでドルハの視線が鋭くなる。


「“お嬢”はやめろ」


「嫌です」


 また即答だった。


 今度こそヴランが腹を抱えた。

 リアンノンは少しだけ考え、口を開く。


「……業務上の呼称としては不適切です」


 ディアストラが衝撃を受けたような顔になる。


「お嬢まで」

「補助員なら、少なくとも公的な場では名で呼んでください」

「公的でなければ」

「業務時間内は名で」


「……分かった」


 渋々といった顔だったが、飲み込んだだけ良しとすべきだろう。

 ドルハがどこか勝ち誇ったように鼻を鳴らす。子供っぽい。


「第五に」


 王は最後に、リアンノンへ視線を向けた。


「こいつを使うかどうかの最終判断は、お前がしろ。嫌ならいつでも外す」


「分かりました」


「そして」


 ドルハの赤い瞳が、今度はディアストラへ戻る。


「賃金は払う」


 その一言に、ディアストラは一瞬だけ反応できなかった。

 金の瞳がわずかに見開かれる。


「対価もなく働かせる気はない。王城保護下の臨時雇用ならなおさらだ」

「……はい」


 答える声が、少しだけ掠れる。

 リアンノンにはそれがよく分かった。金額より前に、“払う”と明言されることの重さを。


「契約書は僕が整えましょう」


 ヴランがようやく実務に戻る顔で口を開いた。


「名称は――ええと、“王城管理具検分補助員・臨時雇用”あたりでどうかな」

「長いです」

「この国って、だいたい名前が長いんだよ」


 ヴランは羽根ペンを走らせながら、にやにやと続ける。


「陛下、危険手当の適用範囲は?」

「検分業務の全期間」

「宿所は?」

「東棟の空き部屋を使わせろ。監視は外すな」

「食事は?」

「通常配給に加え、回復優先で」

「手厚いなあ」

「黙れ」


 そうして条件がひとつずつ積まれていく。

 その様子を見ながら、リアンノンは少しだけ不思議な感覚に襲われていた。


 昨日まで、保有物として扱われていた青年がいる。

 その立場を、いま王が言葉で変えている。

 劇的な救済ではない。魔法のような解放でもない。

 もっと冷たくて、もっと手続き的で、けれどだからこそ確かな変化だった。


「では最後に」


 ヴランが紙から顔を上げる。


「本人の同意を。ディアストラ、異議は?」

「ない」

「リアンノン嬢は?」

「勤務態度次第です」

「厳しいなあ」

「当然です」


 ヴランが笑う。

 そして紙を整え、ドルハへ差し出した。


 王が署名し、王印を押す。

 黒銀の印が紙に沈んだ瞬間、ディアストラの表情が少しだけ変わった。

 信じていなかったものが、目の前で形になったときの顔だ。


「これで今日から、お前は臨時雇用だ」


 ドルハが紙を机へ置く。


「所有ではない。働け」

「……はい」


 ディアストラは立ち上がらず、その場で深く頭を垂れた。

 それは王への礼であり、同時に自分へ戻された選択肢への礼でもあるように見えた。


 やがて彼は向きを変え、今度はリアンノンへ向かって膝をつき直す。

 さきほどよりもまっすぐな姿勢で。


「リアンノン」


 今度は、ちゃんと名を呼んだ。


「……働かせてくれて、ありがとう」


 お嬢ではなく名前。

 ぎこちないが、それでも自分で選んだのだと分かる響きだった。


 リアンノンは少しだけ驚き、それから小さく頷く。


「期待しています、ディアストラ」


 その一言に、彼の金の瞳がわずかに揺れる。

 たぶん、“期待する”ともあまり言われてこなかったのだろう。

 役に立て、命じられたことをこなせ、壊れるな――そういう言葉はあっても。


「さて、では、まずは仕事です」


 リアンノンは机上の書類束を軽く叩いた。


「拘束房の配置図と、管理具の使用実態、把握している範囲を教えてください。あと、持てるならこの箱を資料室まで」

「持てる」


 即答だった。

 そして次の瞬間には、ひとりでは重いはずの木箱を軽々と持ち上げてしまう。


 リアンノンは少しだけ目を見開く。


「……便利ですね」

「お前、仕事開始の第一声がそれなのか」

「事実です」


 ドルハが額へ手を当てる。

 ヴランは楽しそうに肩を震わせている。

 ディアストラ本人はというと、役に立つと言われたことが案外嬉しかったらしく、口元をわずかに緩めていた。


「では、資料室へ行きます」


 リアンノンが言うと、ディアストラはすぐに頷く。

 だが、扉へ向かいかけたところで、ドルハの低い声が止めた。


「待て」


 三人が振り返る。


 ドルハは数歩近づき、リアンノンの机へ一枚の札を置いた。

 黒銀の薄板で、中心に王印と西塔の紋が刻まれている。


「何ですか」


「通行許可札だ。検分対象の保管区画へ入る際に見せろ。今日から、一部区域はお前の命令系統に組み込む」


 王がさらりと言うには大きい権限だった。

 ヴランまで少し感心したような顔をする。


「陛下、ずいぶん思い切りましたね」

「必要だろう」

「そうだけどさあ」

「始祖王党派は黙らせた。契約ほどではないが、弱みというのは使えるものだ」


 リアンノンは許可札を手に取る。

 冷たい金属の重みが、仕事の権限として掌へ収まった。


「ありがとうございます」


「礼なら成果で示せ」


「そのつもりです」


「ならいい」


 短く言ったあと、ドルハの視線がディアストラへ移る。

 それだけで、工房の空気がまた少し張る。


「また、お前には言っておくことがある」


「……はい」


「役に立て。そうすれば、お前がそこにいる理由になる」


 厳しい言い方だった。

 だが同時に、それは出て行けではなく“居場所を作れ”という意味でもあった。


 ディアストラは真っ直ぐに頷く。


「はい、陛下」


「そして」


 ドルハはほんの少しだけ目を細めた。


「必要以上に、リアンノンに懐くな」

「善処します」

「善処では足りん」

「……努力します」


 リアンノンは思わず瞬きをする。

 そのやり取りがおかしかったのか、ヴランのにやけ顔が止まらない。

 ディアストラは真顔だが、たぶん少しだけ分かっていてやっている。


「では、行きましょう」


 リアンノンが歩き出すと、ディアストラはすぐ後ろに続いた。

 大きな木箱を片腕で抱えたままでも足音は意外と静かで、狼らしい無駄のなさがある。


 工房の扉を抜ける直前、リアンノンはふと思い出したように振り返る。


「王」


「何だ」


「ディアストラは業務時間内の補助員です。嫌がらせは契約違反です」


 ヴランが壁に寄りかかって笑い死にそうになり、ディアストラが金の瞳を見開く。

 対するドルハは、一瞬だけ完全に言葉を失ったあと、低く唸るように言った。


「……俺を何だと思っている」


「王で、契約を守る方です」


 即答すると、ドルハの表情がわずかに止まる。

 怒るのでも笑うのでもなく、少しだけ不意を突かれた顔だった。


 やがて彼は、いかにも不本意そうに目を逸らす。


「当然だ」


「では問題ありません」


 それだけ言って、リアンノンは今度こそ回廊へ出る。


 後ろから、ヴランの忍び笑いと、ドルハのため息が聞こえた。

 さらにその奥で、ディアストラが本当に少しだけ笑った気配がする。


 資料室への道を歩きながら、リアンノンは隣の青年を見上げた。


「運搬は問題なさそうですね」

「これくらいなら大丈夫だ、お嬢」

「では、まず拘束房の配置と管理具の扱われ方を教えてください」

「分かった」

「あと」

「うん?」

「業務時間内は、名で呼んでください。ルールです」

「……分かった、リアンノン」


 少しぎこちないが、悪くない。


「その代わり」


 ディアストラが低く続ける。


「業務外なら、お嬢って呼んでもいいか」

「よくありません」

「陛下と同じこと言うんだな」

「論点が違います」

「そっか」


 どこか可笑しそうに答える声を聞きながら、リアンノンは歩を進める。


 こうして西塔の工房に、ひとりの臨時補助員が加わった。

 大柄で、元奴隷で、狼で、妙に忠実で、そして王から露骨に嫌われている助手だ。


 厄介そうだった。

 だが、それ以上に使えそうでもある。


 そしてたぶん、その判断は間違っていない。


 資料室の重い扉が見えてくる。

 その向こうには、王城じゅうの壊れた管理具と、この国が長く見て見ぬふりをしてきた記録が待っているはずだ。


 リアンノンは通行許可札を握り直した。


 次に直すのは、物だけでは済まない。

 そう分かっていても、もう手を引く気にはなれなかった。


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