訪問者は人狼
◇
西塔へ戻ったその夜、リアンノンは本当に仕事を取り上げられた。
工房へ入るなり、王命です、と侍女に寝室へ案内され、温かい湯と軽い食事を出され、そのまま半ば監視つきで休まされたのである。
抵抗してもよかったが、頭の芯に残っていた疲労が思った以上に深く、寝台へ身体を預けた瞬間、意識はあっさり落ちた。
そして翌夜、目を覚ましたリアンノンは最初に、自分でも驚くほど指の調子が良いことに気づいた。
「……休息は必要」
悔しいが、事実だった。
髪をまとめ、黒い実用服へ袖を通し、西塔の工房へ入る。
机の上にはもう、新しい書類束が積まれていた。
王命書。
拘束具・管理具の一斉検分許可。
危険手当付与。
資料室全域開示。
必要人員の臨時徴用権。
そして最後に、ヴランの癖のある端整な筆跡でこう書かれた覚え書き。
――残業代倍率、昨夜の陛下ご発言に基づき暫定二倍。異議があれば本人へどうぞ。
「……異議はありません」
むしろ歓迎だった。
リアンノンは書類を症状別ではなく、権限別に並べ替えていく。
検分対象。
即時停止対象。
再設計候補。
危険物。
実地立ち会いが必要なもの。
拘束具の数は多い。
王城保有物だけでも相当な量になるはずだ。
ひとりでやれなくはないが、時間はかかる。しかも、昨日見たような実戦投入中の管理具まで含むなら、現場知識のある補助者がいたほうがいい。
――人手が要る。
そう結論づけてから、リアンノンは少しだけ眉を寄せる。
工房の補助など、今まで持ったことがなかったからだ。地下工房では、自分が黙って全部やるのが当然だった。道具を触らせるのも嫌だったし、そもそも誰も手伝おうとしなかった。
だが、あの規模なら話は別だ。
必要な仕事に必要な手を入れるのは、もう学んだ。この城ではそれが通る。
そのとき、扉が三度、規則正しく叩かれた。
「どうぞ」
返すと、扉が開く。
入ってきたのはヴランだった。だが今日は、彼ひとりではない。
その背後に、ひときわ大きな影が立っていた。
リアンノンは無意識に手を止める。
昨夜、拘束房で見た灰色の人狼――ディアストラだ。
もっとも、いまの彼は半獣化していなかった。人の姿を取っている。大柄で、肩幅が広く、無駄なく鍛えられた身体つきの青年だ。褐色の肌には古傷が多く、灰色の髪はきちんと洗われたのだろう、少しだけ落ち着いて肩へ落ちている。
ただ、首元にはまだ細い黒銀の環があった。
昨日の禍々しい首輪とは違う。応急修復後の安定補助具か、あるいは監視用の軽い保定環だろう。
そして両手首にも、封印布のような細い帯が巻かれていた。
危険性が消えたわけではない。
だが、少なくとも“獣”としてここへ連れてこられたのではないと分かる姿だった。
「失礼するよ、修復師殿」
ヴランがいつもの調子で微笑む。
「昨夜の後始末がひと段落したので、ひとり連れてきた」
「見れば分かります。いいのですか?」
「いいと判断されたから、出せたんだ」
ヴランが半歩横へ退く。
その瞬間、ディアストラが突然片膝をついた。
床が小さく鳴るほど、きれいな所作だった。
大きな身体に似合わず、どこか武人めいている。
「昨夜は」
低い声が、工房へ落ちる。
「……命を、拾ってもらった」
リアンノンは黙って彼を見た。
琥珀がかった金の瞳は、昨日よりもずっと澄んでいる。まだ奥に疲労と警戒は残っているが、少なくとも“誰が誰か”を見分ける理性は取り戻しているらしい。
「名はディアストラ」
彼は頭を垂れたまま続ける。
「狼影族の残兵で、いまは……いや、昨日までは、この城の管理物だった」
その言い方に、リアンノンは少しだけ視線を細めた。
所有される側が、自分をそう呼ぶ。胸の内で何かざらつくものがあったが、いまは口を挟まない。
「お嬢がいなければ、俺はあのまま擦り潰されていた」
お嬢。
さっそくその呼び方で来るとは思わなかった。
ヴランが肩を震わせる。笑いを堪えているのだろう。
リアンノンはとりあえずそこには触れず、事実だけを返した。
「応急修復です。まだ完全ではありません」
「それでもだ」
ディアストラは顔を上げる。
金の瞳が、真正面からリアンノンを見た。
「痛みしかなかった首が、久しぶりに静かだった。自分の声が、自分の中へ戻ってきた」
その言葉は飾り気がない。
だからこそ重かった。
「返したい」
彼は言う。
「お嬢への恩義を、少しでも返したい。だから、どうか俺を使ってくれ」
即答しかけて、リアンノンは一拍だけ考えた。
“使ってくれ”。
その言葉自体が、もう長くそういう立場だったことを滲ませている。
「却下です」
リアンノンがきっぱり言うと、ディアストラの瞳が揺れた。
ヴランまで少しだけ目を丸くする。
「お嬢……」
「その言い方は嫌です」
リアンノンは机の上へペンを置く。
「私は借りを返してもらうために修理したわけではありません。壊れていたから直しただけです」
ディアストラが言葉を失う。
「それに、“使う”なら物に言ってください。人に言うことではありません」
工房の空気が、しんと静まる。
ヴランが珍しく口を挟まず、ディアストラはただ目を見開いたままだ。
リアンノンは続ける。
「働くなら、働くと言ってください。雇うなら、雇うと言います」
「……雇う」
ディアストラがかすれた声で繰り返す。
その二文字が、自分に向くとは思っていなかったような顔だった。
リアンノンは頷く。
「現時点では未定ですが、王城管理具の検分には補助人員が必要です。あなたが体力と現場知識を持っていて、なおかつ協力の意思があるなら、補助員として雇用することは検討できます」
ヴランが、とうとう堪えきれずに吹き出した。
昨日から何がそんなに面白いのか。
リアンノンがぎろりと睨むと、ヴランの方はさらに愉快そうに声をあげた。
「ははっ……いや、ほんと、君ってブレないね」
「必要な話をしているだけです。私ひとりで全件点検なんて、終わるはずがありません」
「そうだね。実に必要な話だ」
ディアストラはまだ片膝をついたまま、信じられないものを見るようにリアンノンを見ていた。
やがて、ぎこちなく、けれど確かに言う。
「……働く」
「はい」
「返すためじゃなく、働く」
「そのほうが健全です」
「……そうか」
胸の内で何かが噛み合ったように、ディアストラの顔から一瞬だけ強張りが抜ける。
その変化を、リアンノンは見逃さなかった。
たぶんこの人は、礼儀や忠義は知っていても、“対価のある労働”という形を与えられたことがほとんどないのだ。
そのとき、開いたままだった扉の外から、低い声が落ちた。
「ずいぶんと勝手に話が進んでいるな」
振り返る必要もない。
空気が先に答えを示していた。
ドルハだった。




