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修復師の出番です その2


 床に伏した人狼の身体が、ゆっくりと縮む。

 完全な獣ではなく、半ば人の形へ戻っていく。


 灰色の毛並みの奥から現れたのは、大柄な青年だった。

 褐色の肌。乱れた灰髪。首にはまだ黒い環が残っているが、先ほどの禍々しさはない。

 呼吸は荒いものの、目はもう赤くない。曇りを剥がしたような、琥珀に近い金がこちらを見ていた。


「……なん、で」


 かすれた声だった。

 長くまともに喋っていなかったのだろう。


 リアンノンは息を整えながら答える。


「首輪が壊れていました」


 青年は目を見開く。

 それから、喉へ手を当て、信じられないものに触れるような顔をした。


「おれ……」


 言葉が続かない。

 続かない代わりに、その目にじわりと水気が差す。


 拘束房長がようやく声を絞り出した。


「へ、陛下……この場は、始祖王党派の管理する――」


「黙れ」


 今度のドルハの声は、誓約の間で聞いたものよりも冷たかった。


 拘束房長の膝がその場で折れる。


 ドルハは人狼――いや、青年から視線を外し、拘束房長を見下ろす。


「保守記録を出せ」


「そ、それは……」

「全件だ」


 王の足元から、黒い影がゆっくりと広がる。

 血の匂いに反応していた先ほどとは違う。こちらは明らかに、怒りだった。


「王城保有の抑制具、拘束具、吸魔首具。すべての記録を誓約室へ上げろ」

「ですが、古いものまで遡れば手間が、それに始祖王党派の貴族が何と言うか――」

「だから命じている。こうして管理の怠慢が発覚した以上、もはや派閥がどうのと言っていられる場合ではない。これは王として片付けるべき義務だ」


 その言葉に、拘束房長は完全に黙った。


 ドルハはさらに続ける。


「本日以後、拘束房にある全管理具の使用を一時停止。検分完了までは新規の接続を禁じる」

「で、ですが危険種の管理が……!」

「壊れた道具で管理した結果がこれだ」


 リアンノンは思わず、ドルハを見た。


 その横顔には、言い逃れがなかった。

 自分の城で起きたこととして、まっすぐ受け止めている顔だ。


「俺が放置していた」


 低く、はっきりと、ドルハは言う。


「責は俺にある」


 拘束房の空気が止まる。


 誰もが王の言葉を聞いていた。

 言い訳ではない。責任転嫁でもない。放置していたのは自分だと、絶対者がその場で認めたのだ。


 だが、少ないやり取りの中から、リアンノンは理解していた。

 王の手を出せない領域、派閥による境界、古き種族であるがゆえの政治闘争が、彼を縛っていたのだと。


 そしてそれを――意図せず――破壊してしまったのが、リアンノンなのだと。


「……手を出してはいけないことに、手を出したような」


「いい、気にするな。お前のおかげでこの国の膿を駆逐できる糸口が掴めた」


 一介の修復師が作っていい糸口だったのかどうか、リアンノンにも、さすがに分からなかった。

 一歩間違えれば政治という魔物の間で消されていたかもしれない案件である。


「ヴラン」


「はい、陛下」


「監査を任せる」

「喜んで」


「リアンノン」


 名を呼ばれ、リアンノンは顔を上げる。


「王城保有管理具の検分を命じる。必要な人員、設備、資料はすべて出す」

「……かなり大規模になりますが」

「構わん」

「危険手当は」

「つける」

「残業代も」

「倍払う」

「では――」

「特別ボーナスも出す。お前には俺の影を護衛に付ける」

「えっと、そこまでは――」

「全部終わったら長期休暇もやろう」

「あの、ですから……」

「望みの褒美もつけよう」

「……ほ、欲しい工具があります」

「いいだろう。申請書を書いておけ」


 拘束房の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。

 こんな場面でそこを確認するのか、という顔を何人もしている。


 だがリアンノンにとっては重要だった。

 重要だから口にした。

 想定以上のものもついてきたが、ドルハらしいとも思った。

 そしてドルハは、それを当然のように認めた。


「承知しました」


 答えると、ドルハはわずかに頷く。

 それから床に膝をついたままの青年へ視線を向けた。


「貴様、名は」


 青年は一瞬だけ迷い、それから低く答えた。


「……ディアストラ」


「そうか」


 ドルハは短く言う。


「ディアストラ。お前への所有権は本日付で凍結する。以後の処遇は、首環の再検分と意思確認の後に定める」


 それは解放ではない。

 まだ途中だ。

 けれど、少なくとも“物”として即座に棚へ戻される宣告ではなかった。


 ディアストラは呆然とした顔で王を見、それからゆっくりとリアンノンへ視線を移した。

 その眼差しだけで十分だった。

 自分を暴走種ではなく、壊れた拘束具ごと見た人間が初めてだったのだと分かる。


「……あんたが」


 かすれた声が落ちる。


「おれを、戻したのか」


 リアンノンは少しだけ考え、首を振った。


「首輪を応急修復しただけです。あなたを治したわけではありません」


「ほんと、そういうところだよねぇ」


 横でヴランが小さく笑う。

 ドルハは不機嫌そうに彼を睨んだが、それ以上は何も言わなかった。


 ディアストラは喉元へ手を当てたまま、長いこと何も言えずにいた。

 けれど、やがて、震えるように頭を垂れる。


 その礼は、まだ忠誠ではない。

 だが、感謝と、取り戻しかけた自我の重さは伝わった。


 拘束房の上で、壊れた魔力灯がじり、と鳴る。

 さっきまで暴力と怒号で満ちていた場所に、奇妙な静けさが戻りつつあった。


 リアンノンはその静けさの中で、黒い首環を見下ろす。


 壊れていた。

 そして、壊したまま使い続けられていた。


 この国は怖いと、今も思う。

 合理的で、冷酷で、所有と契約を紙の上で分ける。

 でも今、王はその冷酷さの失敗を、自分が今まで手を出せなかった領域を、自分の責任として引き受けた。


「国の仕組みを、直しちゃったねぇ」


 ヴランの言葉が何を意味するのか、リアンノンにも分かる。


 この国も、たぶん、きっと、ドルハなら直せる。


 物も。

 仕組みも。

 たぶん、少しずつなら。


 悪くない。


 むしろいい。


 最高の上司に恵まれたかもしれない。


「リアンノン」


 ドルハの声が落ちる。

 先ほどより近く、だがもう血の匂いに揺れる捕食者のものではない。


「西塔へ戻っていい。今夜はもう終わりだ」


「資料をまとめたいのですが」


「今夜はもう終わりだ」


「……王命ですか」


「ああ」


 リアンノンは少しだけ口をつぐみ、やがて頷いた。


「承知しました」


「ヴラン、送れ」

「了解」


 そうして踵を返しかけたところで、背後から低い声が追ってくる。


「お嬢」


 リアンノンは振り返る。


 床に片膝をついたままのディアストラが、まだ不安定な息のあいだに、それでもこちらだけを真っ直ぐ見ていた。


 お嬢。

 ずいぶん勝手な呼び方だと思う。


 けれどその声には、軽薄さもからかいもなく、ただ縋るような真剣さだけがあった。


「……また来ます。保守点検が必要ですし」


 リアンノンがそう言うと、ディアストラは目を見開き、それから深く頭を垂れた。


 西塔へ戻る道すがら、ヴランが隣でひそひそと囁く。


「まったく。大変なことをした自覚、ある?」


「応急修復をしただけです」


「王城の勢力図、ひっくり返しかけてるんだけど」


「壊れていたので」


「……うわぁ。首輪のことか、派閥のことかは聞かないでおくよ」


 もちろん首輪のことですが? とリアンノンは首をかしげる。


 ヴランは肩をすくめ、それから少しだけ真面目な声になった。


「でも、ありがとう。あれを“仕方ない”で流さなかったのは、たぶん君が初めてだ」


 リアンノンは返事をしなかった。


 ただ、胸の奥にまだ残っている黒い首環の違和感を、完全には無視できないまま歩き続ける。


 きっとこれで終わりではない。

 むしろ、ここからなのだろう。


 西塔の窓には、いつものように月がかかっていた。

 静かな工房へ戻れば、たぶんまた依頼票が待っている。

 けれど今夜からは、その山の中に、魔導具だけでなくこの国そのものの修復依頼まで紛れ込んだ気がした。



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