修復師の出番です
◇
下層の拘束房は、王城のどの場所よりも空気が重かった。
湿った石壁。鉄と獣臭と血の匂い。幾重にも重ねられた格子と封印扉。そのすべてが「ここにあるものを外へ出さない」ためだけに作られている。
最奥へ近づくにつれ、床が震えていた。
叫び声。
怒号。
鎖が引きちぎられる音。
角を曲がった先で、リアンノンは足を止める。
そこには、昨夜見た灰色の人狼がいた。
だが、昨夜とは比べものにならない。
半獣化した巨体は天井近くまで膨れ、毛並みは逆立ち、黄金色だったはずの目は濁った赤へ変わっている。首に嵌められた黒鉄の環は紫黒い火花を散らし、鎖の先ごと石柱を砕いていた。
周囲には負傷した衛兵が数名。
拘束陣を張っているらしい魔術師たちも、額へ汗を浮かべている。
「第五封鎖、崩れます!」
「押さえろ!」
「無理です、魔力制御が逆流して――」
怒号の中心で、ひときわ静かな影があった。
ドルハだった。
黒を纏った王は、暴れる人狼から数歩の位置に立っている。
魔力の圧だけで空間が凍りついていた。周囲の者たちは彼の背から一定距離以上近づけず、それでいて王だけが微動だにしない。
血の匂いが強い。
衛兵のひとりが腕を裂かれていた。
その匂いへ、ドルハの顔がほんのわずかに傾く。
リアンノンは息を止めた。
赤い瞳が、ひどく冷たく細められている。
美しいとか、退廃的とか、そんな言葉が意味を失う顔だった。
ただの捕食者だ。血の匂いも、暴れる獣の心臓も、まとめて支配できる上位種の顔。
「陛下!」
拘束房長らしき男が叫ぶ。
「次の封鎖が破られれば上階へ抜けます。処分許可を!」
処分。
あまりにもあっさりした言葉に、リアンノンの指先がぴくりと動く。
ドルハは暴れる人狼を見た。
次いで、首環の紫黒い火花を一瞥し、低く告げる。
「許可しない。最悪の場合は、俺が手を下す!」
「待ってください」
思わず、声が出ていた。
周囲の視線が一斉にリアンノンへ向く。
ヴランがこめかみを押さえた。ああもう、と顔に書いてある。
ドルハの赤い瞳がリアンノンを捉える。
その一瞬、拘束房の圧がさらに重くなった気がした。
「リアンノン、なぜここにいる」
「それは暴走ではありません」
自分でも、よくこんな状況で声がぶれないものだと思う。
だが、首環から散る火花を見れば、恐怖より先に腹が立つ。
リアンノンは臆すことなく、声をあげた。
「首輪の故障です。抑制が逆流しています」
拘束房長が怒鳴る。
「馬鹿な! あれは危険種だ、前から手のつけられない――」
「だからです」
リアンノンは男を見もせず言い返した。
「壊れた拘束具で無理に押さえ続けたから、ここまで悪化したんです」
人狼が咆哮し、残っていた石柱のひとつが弾け飛ぶ。
飛散した破片がこちらへ飛びかけた瞬間、ドルハの影がそれを空中で噛み砕いた。
黒い影の牙が、一瞬だけ見えた気がした。
「こいつを、救えるのか」
ドルハが問う。
声音は静かだった。
できないと言えば終わる。
この場で人狼は殺される。
リアンノンは即答した。
「処分より安くつきます。いつもどおり、修理するだけです。王が手を下す方が、国家としては重大な仕事では?」
一瞬、拘束房が沈黙した。
ヴランが片手で顔を覆う。
衛兵たちは何を言われたのか分からない顔をし、イヴァがここにいたら確実に笑っていただろう。
だがドルハは、目を細めただけだった。
「続けろ」
「今の首輪は抑制具ではありません。吸魔力が偏って、一方的に魔力を奪っています。止めるなら、首輪を壊すのではなく、流れを戻さないと」
「時間は」
「……三十秒」
「長い」
「これ以上短くは、無理です。何とかしてください」
言い切ると、ドルハの口元がほんのわずかに動く。
笑ったのではない。
怒ったのでもない。
ただ、本当にこういう女なのだと再確認した顔だった。
「いいだろう」
次の瞬間、彼の足元から夜のような影が広がった。
影は床を走り、人狼の四肢へ絡みつき、巨体をその場へ縫い止める。
咆哮が上がる。鎖が軋む。だが、今度は破れない。王の影そのものが枷になったのだ。
「三十秒だな」
ドルハの赤い瞳がリアンノンを射抜く。
「失敗したら、俺が殺す。お前の身に危険が及ぶ前に」
「その前に、照明を寄せてください」
「……何?」
「見えません」
拘束房長の誰かがむせた。
こんな状況で王に照明追加を要求する人間は、おそらく初めてだろう。
だがドルハは即座に顎を引く。
「灯りを寄せろ!」
魔石灯が四方から運ばれ、拘束房の最奥が白く照らされた。
リアンノンは駆け寄り、巨体の目前でしゃがみ込む。
喉元の首環は熱を持ち、焦げた金属の臭いがした。近くで見るともっとひどい。古い刻印の上へ、新しい制御線が乱雑に継ぎ足されている。しかも複数人の手だ。時代も技量もばらばらで、とうに原型を見失っている。
「三十秒は、言い過ぎたかも……」
思わず零すと、人狼の赤い目がこちらを向いた。
牙が剥かれる。唸りが低くなる。
それでもリアンノンは逃げない。
怖い。もちろん怖い。
けれど、怖いからといって壊れた刻印は直らない。
「月晶拡視鏡を――」
ヴランが無言で差し出した。
いつの間に持ってきたのか、昨夜ドルハにもらった拡視鏡だ。
「感謝します」
「後で残業代を請求してくれ。ふたり分」
「もちろん」
リアンノンは片目へ拡視鏡を当て、首環の内部を覗いた。
見えた。
抑制陣が、本来あるべき向きと逆に折れ曲がっている。
そこへ吸魔導線が何重にも食い込み、痛覚と魔力循環の区別ごと奪っていた。
これでは鎮まるわけがない。苦痛と飢餓と剥奪で、暴れる以外の選択肢を潰されている。
「……あなたのせいじゃない」
思わず、人狼へ向かって呟いていた。
濁った赤い目が、一瞬だけ揺れる。
「王、お願いがあります」
リアンノンは振り返らずに言う。
「第三導線を断つと、魔力圧が一瞬だけ跳ねます。暴れるかもしれません。その間、押さえ込んでください」
「任せておけ」
「でも潰さないで。喉骨が砕けます」
背後で、誰かがまた息を呑んだ。
王に向かって、相手を締めすぎるなと注意している。
何と不敬な娘だ、という声も聞こえる。
だがドルハの返答は短かった。
「承知した」
リアンノンは工具箱から極細の黒銀針を取り出し、首環の継ぎ目へ差し入れる。
熱い。火花が跳ねる。手袋越しでも、ひりつく熱が伝わってきた。
一息。
二息。
三息。
第三導線を探り当てたところで、人狼が激しく身をよじる。
牙が目の前に迫る。
「動かないで!」
叫ぶより先に、ドルハの影がさらに深く喉元を押さえた。
だが砕かない。ぎりぎりの力で止めている。
リアンノンは針を押し込み、吸魔導線を一本切る。
紫黒い火花が爆ぜた。
拘束房全体の灯りが揺れる。
人狼の巨体が反り返り、苦鳴とも咆哮ともつかない声が落ちる。
「いまです、魔力を少しだけ!」
「どこへ」
「首環の左側。抑制陣の空洞へ!」
次の瞬間、ドルハの魔力が流れ込んだ。
暴力的なほど膨大なのに、流し込まれた量は正確だった。
王は王で、こういう制御に慣れているのだと分かる。
空いた回路へ夜の魔力が満ちる。
リアンノンはすかさず第二循環陣を起こし、折れていた流れを本来の向きへ戻した。
戻れ。
削るのではなく、巡れ。
奪うのではなく、鎮めろ。
金属の下で、魔力が軋む。
古い回路が悲鳴を上げる。
それでもリアンノンは手を止めない。ここで止めたら、また症状だけを押し潰すだけになる。
「もう一本切ります」
「やれ」
「暴れます」
「押さえる」
簡潔なやり取りだった。
王と修復師のあいだに、余計な情緒は入らない。
ただ必要なことだけが交わされる。
リアンノンは最後の継ぎ足し導線を断った。
火花が散る。熱が走る。
次の瞬間、首環の紫黒い光がぶつりと途切れた。
沈黙。
わずかな間を置いて、今度はまったく別の色の魔力が灯る。
鈍い灰銀だ。暴力的に奪う光ではなく、深く沈めて均すための光。
首環が一度だけ低く鳴り、拘束陣が静かに噛み合う。
人狼の巨体から、力が抜けた。
崩れ落ちるその身体を、ドルハの影が受け止める。
先ほどまでの圧倒的な暴威はもうない。ただ、限界まで削られた生き物の荒い息だけが拘束房に残った。
リアンノンは肩で息をしながら、拡視鏡を外す。
「……応急修復は完了です。本格的に直すなら、首輪を外して再設計が必要ですが」
言い終わると同時に、足元がぐらりとした。
魔力を使いすぎたわけではない。張り詰めていた緊張が切れたのだ。
その腕を、後ろから誰かが支える。
ドルハだった。
「大丈夫か」
「……たぶん」
「お前らしくもない。曖昧な返事だな」
声は低いが、先ほどまでの捕食者の温度は薄れていた。
代わりに残っているのは、怒りに近い何かだ。だがそれはリアンノンへ向いたものではない。




