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地下と、壊れた首輪

 ――その日の夜。

 あの夜から、依頼票の束を前に何度も思考が止まっていた。


 影織り帳幕の補修記録をまとめる。

 夜鴉筆記具の受信陣の効率的な仕組みを考える。

 北棟から回された小型保冷箱の結露対策を練り直す。


 働くなと言われてしまったからには、手を動かさないようにはしている。

 設計の見直しや書類整理は趣味のようなものだ。


 だが頭の奥でずっと、下層で見た黒い首環の刻印が引っかかっていた。


 リアンノンはついに諦め、眺めていた依頼票を脇へ避ける。

 新しい紙を一枚取り出し、記憶だけを頼りに首環の構造を書き起こし始めた。


 外環、黒鉄。

 内周、吸魔刻印。

 第一拘束陣、抑制。

 第二循環陣、鎮静。

 そこまではいい。


 問題は、その奥だった。


「……変、ですよね」


 月晶拡視鏡を片目に当て、記憶を辿る。

 抑制具なら、暴走した魔力を逃がし、持ち主の中へ戻すための緩衝路が要る。どれほど危険な相手でも、制御具である以上は“戻す”構造がなければ長く持たない。


 魔力を吸い上げ続ければ、死んでしまう。

 溢れた分を沈静化し、もとに戻さなければただの拷問具だ。


 あの首環は違った。

 流れが一方通行だったのだ。


 吸い上げて、削る。

 抑えるのではなく、痩せさせる。

 鎮めるのではなく、弱らせる。


「……抑制具じゃない」


 紙の上へ、リアンノンは一本の線を引く。


「いわば……収奪具……?」


 その言葉が出た瞬間、胸の奥がひやりとした。


 それなら辻褄が合う。

 暴走を止めるための首輪ではない。力を奪い続けることで従わせるための首輪なら、あの歪さはむしろ自然だ。

 しかも、長年の継ぎ足しで回路が痩せ、均衡を失っている。


 壊れれば、当然、余計に荒れる。

 魔力を奪われ、自我まで削られ、反射だけで暴れる。

 それを見た管理者は「危険だからもっと強く抑えろ」と上塗りする。

 悪い修復の典型だった。


 壊れた原因を直さず、症状だけを押し潰す。


 リアンノンは眉を寄せ、夜更けまで紙と向き合った。

 資料が要る。

 実物の規格と、管理台帳と、できれば保守履歴も。


 そこまで考えてから、ふと顔を上げる。


 資料室への立ち入りは契約で認められている。

 工房設備の閲覧権もある。

 なら、調べること自体に問題はないはずだ。


「……今すぐ資料室へ――」


 行きたい。

 調べたい。

 でも――


「王命……」


 ドルハからすれば、自分が有能な部下だと思ってもらえているという自負はある。

 あの裁きの場で頼ってもらったことが、彼女の中で、無意識に自信へ繋がっていた。


 だが、だからこそ、信頼してくれている上司の命令をいきなり破るのは気が引けた。


「王命かぁ……」


 ひとこと呟いてから、リアンノンはようやく帳簿を閉じた。


    ◇


 翌日、王城資料室は相変わらず静かだった。


 高い棚。古い紙と革の匂い。月光を取り込む細窓。ここは書庫というより、長い時間をそのまま積み上げた場所に近い。


 リアンノンは目録台帳をめくり、拘束具、抑制環、所有印、給血環の項目を順に辿っていく。


 しばらくして、探していた分類へ辿り着いた。


 ――王城保有・危険種管理具

 ――抑制環、拘束輪、吸魔首具、従属刻印補助具


 文字面だけで嫌になるほど露骨だ。

 契約具の棚とは別に、保有具としてまとめられている。


 さらに台帳の欄を追えば、はっきりと書かれていた。


 契約人。

 使用人。

 保護対象。

 そして、所有物。


 リアンノンの指先が止まる。


 しかも、様式欄はさらに冷静だった。

 所有者名義。

 使用許可者。

 整備担当者。

 王城の帳面では、その三つが別欄になっている。


 リアンノンはそこで、もう一度頁を見返した。


 分かれているのが普通なのだ。

 では、人間界で自分が直してきた品は何だったのか。

 商会名だけが表へ出て、手を入れた者の欄ごと消されていた、あれは。


「……責任の所在が明確になっている?」


 そしてきっと、それだけではない。

 支配者たる吸血鬼たちは、契約を何よりも重んじながら、それによって同時に名誉をも守っていると、リアンノンは感じていた。


「王が、あの裁きのときに私を庇ってくれたのは、契約した部下だからという理由だけでなく……」


 名誉。


 職人としての名誉。


「王は、私を守ってくれたんですよね」


 うん、いい職場だ、とリアンノンは深く頷く。


 人間界なら、この種のことはもっと巧妙に隠す。

 保護だの、奉仕だの、加護だの、そういう言葉で包む。

 ここでは違う。ひどく冷たい代わりに、紙の上では最初からそう書くのだ。


 気分の悪さと、分かりやすさとが、胸の内で奇妙に並ぶ。


「勉強熱心だねえ」


 背後から声がして、リアンノンは振り返る。


 ヴランだった。

 今日もきちんと整った衣装に、崩れすぎない笑みを浮かべている。


「もう少し足音を立ててもらえます?」


「ははっ、気配を消すのが上手い、という褒め言葉として受け取っておくよ」


 彼はリアンノンの見ている台帳を覗き込み、すぐに内容を理解したらしい。


「へえ。そこに興味を持つとは」


「下層の拘束房で見た首輪が気になりました」


「ああ」


 ヴランの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。


「見てしまったんだ」


「見えてしまったので」


「陛下に近づくなと釘を刺されなかった?」


「下層の拘束房にはひとりで行くな、とは言われました」


「なるほど。ずいぶん具体的だ」


 その言い方に、リアンノンはわずかに眉を動かす。


「管理具の保守記録を見たいんですが、これは工房権限では不足ですか」


 ヴランは面白そうに目を細めた。


「まず質問に答えるよ。不足ではない。王城保有物なら、工房付き修復師の検分対象に入る。ただし」


「ただし?」


「誰も“修復対象”だと認識していない。壊れてるかも、とすら思っていなかった」


 それは、ある意味で最悪の返答だった。


 壊れていても、壊れたものとして扱われていない。

 消耗するのが当然だと見なされていたということだから。


「保守履歴は」


「ほとんどない。拘束房のものは特にね。古い戦利品や、継ぎ足しで持たせている型も多い」


「危険です」


「そうだろうね」


 軽い返事だった。

 だが悪びれているわけでも、開き直っているわけでもない。ただ、事実として言っている。


「あれは特殊なんだ。敵から獲得した戦利品、捕らえた暴走種、それらは物品であり、誰かの管理化にあるものではない。危険種は危険種として扱う。特に、契約の主体になれないものはね」


 ヴランは棚から一冊抜き取り、リアンノンへ渡した。

 拘束房保管一覧と書かれている。


「でも、陛下は嘘はつかない。必要なものを必要だと言って、その代わり責任も取る」


「正直に言えば、責任を取っているようには見えませんでした。我が王らしくもなく、地下の彼らから目を背けているように見えました」


 思ったまま口にすると、ヴランは一拍だけ黙った。


 それから、やけに素直に頷く。


「そこは、そうかもしれない」


 リアンノンは少し意外に思う。

 側近なら、もっと王を庇うかと思っていたからだ。


「陛下は放置していた。楽しんでいたわけじゃない。けれど、必要悪として見過ごしていた。君が見た通りだよ」


「……そうですか」


「怒ってる?」


「壊れたものを壊れたまま使うのは嫌いです」


「うん、知ってる」


「何より、地下の彼らは、昔の私を見るようで不憫です」


「……そうか、そうだね」


 リアンノンが、プライドのある職人であることを、ヴランは理解している。

 そして好奇心ではなく、壊れたままにすることを許容できないという、どこか偏執的な行動力を持っていることも。

 しかし、そうした熱意の他に、誰かを思いやることのできる道徳心も持ち合わせているのだと、ヴランは初めて彼女の人となりに触れた気がした。


 しかし、ドルハがリアンノンに軽蔑されるような事態は、きっとこの国にとってよろしくない未来を招く。

 リアンノンもドルハも理解していない様子だったが、ヴランだけが、今のところその危機感を認識していた。


「でも、王の怠慢ゆえの放置ではない、ということだけは――」


 ヴランがそう言いかけた、そのときだった。


 資料室の壁が、低く震えた。


 どん、と腹の底へ響くような衝撃。

 次いで、どこか遠くで金属が軋む音。警鐘ではない。もっと直截な、破壊の音だった。


 ヴランの顔から笑みが消える。


「……下だ」


 次の瞬間、王城全体を薄く揺らすような唸り声が響いた。


 昨夜聞いたものより、ずっと近く、ずっと大きい。


「拘束房ですか」


「だろうね。最悪だ」


 ヴランは即座に身を翻し、それからリアンノンへ視線を戻す。


「きみはここか、工房に避難して――」


「原因が首輪なら、私が必要です」


 言い切ると、ヴランが露骨に嫌そうな顔をした。


「嫌な正論だなぁ」


「連れて行ってください」


「陛下に怒られる」


「置いていっても怒られるのでは」


「それもそう、か。いまこの城で一番腕がいい修復師は、きみだからね」


 観念したらしい。

 ヴランは深く息を吐くと、手短に告げた。


「絶対に僕の後ろから離れないこと。勝手に前へ出ないこと。いいね?」


「善処します」


「その返し、すごく信用ならない」


 言いながらも、彼はもう走り出していた。


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